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海の声が聞こえなくても・土讃線が止まった秋  作者: リンダ


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線路を歩く

第9話


線路を歩く


 大歩危駅まで、約二キロ。


 普段なら、特急列車がわずかな時間で走り抜ける距離だった。


 けれど今、その二キロは、あまりにも遠かった。


 レールの上を歩く。


 枕木をまたぐ。


 バラストに足を取られる。


 高齢者を支え、子どもを抱え、負傷者を励ましながら、人々は少しずつ前へ進んでいた。


     *


 川原恒一は先頭に立っていた。


「足元見てください!」


「山側へ寄りすぎない!」


「落石に注意!」


 声を張りながら、何度も後ろを振り返る。


 列は長かった。


 南風11号と14号、二つの列車から降りた乗客たち。


 けが人。


 子ども。


 外国人観光客。


 地元の人。


 誰もが、山の中で同じ方向へ歩いていた。


     *


 石原車掌は、後方で声をかけ続けていた。


「大丈夫ですか!」


「少し止まりますか!」


「肩貸します!」


 真鍋運転士を失った悲しみは、まだ胸に刺さっている。


 だが今は、泣けない。


 彼が守ろうとした乗客を、駅まで連れていかなければならない。


 それが、残された車掌としての役目だった。


     *


 若い車掌・三谷は、南風14号側の乗客をまとめていた。


 子どもを抱えた母親が、疲れで立ち止まりそうになる。


「荷物、持ちます」


 三谷が手を伸ばす。


「すみません……」


「大丈夫です。駅まで行きましょう」


 子どもが小さく聞く。


「お水、ある?」


 三谷は一瞬、言葉に詰まった。


 だが、すぐに答えた。


「駅にあるかもしれん。だから、一緒に歩こう」


 子どもは唇を噛み、うなずいた。


     *


 十一月の山。


 日はまだ沈んでいない。


 しかし、谷間には早くも影が落ち始めていた。


 冷たい風が吹き下ろす。


 汗をかいた身体から、体温が奪われていく。


 負傷者の中には、震えが止まらない者もいた。


「寒い……」


「もう少しです」


「どれくらい?」


「あと……一キロ半くらい」


「まだそんなに……」


 その言葉に、周囲の空気が重くなる。


 鉄道の二キロと、人が災害時に歩く二キロは、まったく違う。


     *


 川原は、大歩危周辺の地理を頭に浮かべていた。


 大歩危。


 吉野川の渓谷。


 観光船。


 旅館。


 ホテル。


 道の駅。


 観光客が多く訪れる場所。


 そして、災害時の一時避難場所に指定されている施設もある。


 大歩危駅まで行ければ、そこからさらに動けるかもしれない。


 駅に水がある。


 駅周辺に屋根がある。


 旅館やホテルが開いていれば、負傷者や高齢者を一時的に受け入れてもらえる可能性がある。


 もちろん、そこも被災しているかもしれない。


 建物が無事とは限らない。


 道路が通れる保証もない。


 それでも、線路脇に留まり続けるよりは、明らかに希望があった。


     *


「川原さん!」


 石原が前方へ追いついてきた。


「後ろで高齢の男性が歩けなくなりかけています」


「担げるか」


「乗客の方が肩を貸していますが、長くは……」


 川原は周囲を見た。


 線路脇は狭い。


 その場で大きく休ませるのも危険。


「五分だけ止める」


「はい」


「ただし、山側へ座らせるな。落石がある」


 石原が戻っていく。


 川原は列全体へ声をかけた。


「ここで五分だけ止まります! 座る方は線路中央寄り! 山側へ寄らないでください!」


 人々は、その場で崩れるように座り込んだ。


     *


 休憩の間、乗客たちはわずかな水を分け合った。


 一本のペットボトルが、小さな子どもとけが人へ回される。


「私はえいき」


「おばあちゃんも飲んで」


「いやいや、子どもさん優先や」


 誰も十分ではない。


 それでも、誰かを先にしようとする。


 その光景を見て、三谷は胸が詰まった。


 災害は人を追い詰める。


 けれど、追い詰められた中でも、人は人を助けることがある。


     *


 その時、また余震が来た。


 足元の石が震える。


 山が低く唸る。


「伏せて!」


 川原が叫ぶ。


 斜面から、小さな石がぱらぱらと落ちてくる。


 カン、カン、とレールに当たる音。


 子どもが泣き出す。


「怖い! もういや!」


 母親が抱きしめる。


「大丈夫、大丈夫やき」


 だが母親自身も震えていた。


     *


 揺れが収まると、川原はすぐに立ち上がった。


「行きます!」


 休ませたい。


 だが、ここに留まる時間が長くなるほど危険が増す。


 石原が後方から叫ぶ。


「立てる方から順番に!」


 三谷も声を重ねる。


「慌てないでください! 列を崩さないで!」


 再び、人々は歩き始めた。


     *


 大歩危駅へ近づくにつれ、少しずつ人工物が見えてきた。


 線路脇の標識。


 小さな設備箱。


 遠くに道路らしきもの。


 そして、谷の向こうに建物の屋根。


「駅、近いですか?」


 外国人観光客が英語で尋ねる。


 三谷が片言の英語で答える。


「Almost. Oboke station. Water… maybe there」


 観光客はうなずいた。


「Thank you」


 その短い言葉に、三谷は少しだけ救われた。


     *


 川原の耳に、かすかに人の声が届いた。


 前方。


 駅方向。


 誰かが叫んでいる。


「おーい!」


 川原は目を凝らした。


 大歩危駅の方から、数人の人影が見えた。


 駅員か。


 地元住民か。


 観光関係者か。


 分からない。


 だが、人がいる。


 それだけで、列全体に少しだけ力が戻った。


「駅や!」


「人がおる!」


「助かった……」


 泣き出す乗客もいた。


     *


 大歩危駅。


 駅舎は揺れで一部破損していたが、倒壊はしていなかった。


 駅員たちも無事だった。


 ただし、通信はほとんど通じない。


 停電。


 水道も不安定。


 駅前の道路には、落石で通行できない箇所があるという。


 それでも、そこには屋根があった。


 待合室があった。


 ベンチがあった。


 そして、自販機があった。


     *


「自販機!」


 川原は駅員へ駆け寄った。


「災害対応型やったな!」


 駅員は青ざめながらうなずく。


「はい。ただ、電源が……」


「非常解放できるはずや」


「鍵を確認します!」


 駅員が事務室へ走る。


 乗客たちは駅前やホームへ座り込み始めた。


 負傷者が待合室へ運ばれる。


 子どもたちは毛布代わりに上着をかけられる。


 旅館関係者らしき男性が駆け寄ってきた。


「けが人、うちのロビー使えます!」


 別の女性も叫ぶ。


「ホテルの大広間、避難場所に開けます!」


 川原は、その言葉に一瞬だけ目を閉じた。


 大歩危は観光地だった。


 だからこそ、人を受け入れる場所がある。


 旅館。


 ホテル。


 観光施設。


 それらが今、命をつなぐ場所になろうとしていた。


     *


 駅員が戻ってくる。


「開けます!」


 災害対応型自販機のパネルが開けられる。


 中から、ペットボトルの水とお茶が取り出される。


 それを見た瞬間、乗客たちから小さな声が上がった。


「水や……」


「水がある……」


 石原がすぐに指示を出す。


「子ども、けが人、高齢者優先です!」


 三谷も続く。


「一人一本ずつではありません! 少しずつ分けます!」


 水は命だった。


 ただの飲み物ではなかった。


 山の中で、絶望しかけた人々にとって、それは生きるための証だった。


     *


 小さな男の子が、震える手で紙コップを受け取った。


 水を一口飲む。


 そして、泣き出した。


「おいしい……」


 母親も泣いた。


 周囲の大人たちも、目を伏せた。


 誰も、たかが水だとは思わなかった。


     *


 川原は駅のホームから、山の方を振り返った。


 煙がまだ見える。


 南風11号が燃えた場所。


 真鍋が命を落とした場所。


 助けられなかった乗客が残された場所。


 そこから、ここまで歩いてきた。


 だが、終わりではない。


 救助を待つ。


 負傷者を守る。


 情報を集める。


 南風14号の安全確認も必要だ。


 まだ何も終わっていない。


     *


 石原が、川原の横に立った。


「川原さん」


「ん?」


「真鍋さん……駅まで、連れて来られませんでした」


 川原はしばらく黙っていた。


 そして言った。


「今は、生きとる人を守る」


 石原は唇を噛んだ。


「はい」


「そのあとで、必ず迎えに行く」


 石原は、静かにうなずいた。


     *


 大歩危駅の待合室には、負傷者が横たわっていた。


 旅館やホテルのスタッフが、布団や毛布を運び込む。


 地元住民が水を運ぶ。


 観光客が通訳を手伝う。


 駅員が避難名簿を書き始める。


 鉄道員だけではない。


 地域全体が、動き始めていた。


     *


 川原は、その光景を見ながら思った。


 列車は止まった。


 線路は傷ついた。


 山は崩れた。


 多くの命が失われた。


 それでも、人は人を助けようとしている。


 この駅は、ただの停車場ではなかった。


 今、この場所は命の中継点だった。


     *


 午後四時を過ぎる頃。


 山の影はさらに濃くなった。


 冷え込みが強まっていく。


 大歩危駅には、次々と人が集まる。


 列車の乗客。


 地元住民。


 観光客。


 宿泊施設のスタッフ。


 それぞれが不安を抱えながらも、同じ場所で夜を迎えようとしていた。


 川原は、ホームに立ったまま、遠くの山を見つめた。


 線路を歩いてきた二キロ。


 それは、ただ駅へ向かう道ではなかった。


 絶望から、かすかな希望へ向かう道だった。



次回予告


第10話「山の孤立」


 大歩危駅へたどり着いた乗客たち。


 しかし、安心は長く続かない。


 道路は寸断され、救急車は来られない。


 通信は不安定。


 余震により周辺の山肌にも亀裂が入る。


 旅館やホテルは避難者を受け入れ始めるが、医療も物資も足りない。


 一方、指令本部では、四国内で発生した多数の鉄道被害が次々と明らかになっていく。


 次回、

 第10話「山の孤立」


 たどり着いた駅もまた、孤立の中にあった。

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