炎の車内
第7話
炎の車内
真鍋悠真が息を引き取った。
その事実は、川原恒一の胸を深く刺した。
だが、泣く時間はなかった。
目の前には、まだ助けを待つ乗客がいる。
炎は、先頭車両の床下からじわじわと広がっていた。
黒い煙が窓から噴き出し、トンネル入口のコンクリート壁面をなめるように流れていく。
「石原!」
川原は振り返った。
「残っとる人数、分かるか!」
石原車掌は、煤で黒くなった顔を拭いながら答えた。
「先頭車両にまだ十数名。二号車にも負傷者がいます!」
「動ける人から外へ出す。動けん人は担ぐ」
「はい!」
石原の声は震えていた。
真鍋を失った直後だった。
それでも彼は、車掌として立っていた。
*
南風11号の車内は、すでに普通の列車ではなかった。
通路は傾き、座席は歪み、床には割れたガラスと荷物が散らばっている。
非常灯の赤い光。
煙。
泣き声。
呼吸をするだけで喉が痛い。
「こっちです! 窓から出ます!」
石原が叫ぶ。
乗客の一人が、非常用ハンマーを握って窓を叩く。
ガン。
ガン。
ガシャン。
割れた窓から冷たい十一月の空気が流れ込む。
「梯子かけます!」
石原は非常用避難梯子を窓枠へ固定した。
外では、先に脱出した乗客たちが受け皿になるように待っている。
「子どもから!」
川原が叫ぶ。
「けが人を支えろ! 押すな! 一人ずつや!」
*
小さな男の子が泣いていた。
「いやや! 怖い!」
母親が必死に抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫やき」
だが、その母親自身も足を痛めていた。
川原が男の子の前にしゃがむ。
「坊主、名前は?」
「……りく」
「陸くんか。えい名前やな」
男の子は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「今から、あの梯子を降りる。下でお兄さんらが受けてくれる」
「落ちん?」
「落とさん」
川原は、はっきり言った。
「絶対に落とさん」
男の子は小さくうなずいた。
川原は男の子を窓まで抱き上げ、外の乗客へ渡した。
「受けて!」
「はい!」
小さな体が、外へ運ばれていく。
母親は泣きながら頭を下げた。
「ありがとうございます……」
「お母さんも行くぞ」
「でも足が……」
「支える」
川原は母親の腕を肩へ回した。
「石原、こっち手伝え!」
*
炎が、また一段大きくなった。
床下から熱気が上がる。
軽油の焦げる匂いが、空気を重くした。
外に避難していた乗客たちが悲鳴を上げる。
「火が広がってる!」
「早く!」
川原は怒鳴った。
「焦るな! 押したら落ちる!」
焦れば死ぬ。
急がなければ死ぬ。
その矛盾の中で、全員が動いていた。
*
二号車では、別の乗客たちが座席を外そうとしていた。
高齢の男性が、曲がった座席の間に足を挟まれている。
「痛い……」
「もう少しです!」
大学生らしい青年二人が、座席のフレームを持ち上げようとする。
びくともしない。
「ハンマー貸して!」
別の男性が非常ハンマーを持ってくる。
叩く。
叩く。
金属が少し曲がる。
「せーの!」
座席がわずかに浮いた。
挟まれていた足が抜ける。
男性は苦痛に顔を歪めながらも、何度も頭を下げた。
「すまん……すまん……」
「謝らんでください! 出ましょう!」
*
一方、南風14号。
川原が離れたあと、若い車掌・三谷は車内を必死にまとめていた。
百六十二人の乗客。
軽傷者。
不安。
水不足。
救助が来ないかもしれないという現実。
「飲み物を持っている方は、今すぐ飲み切らないでください。小さなお子様、体調の悪い方、けがをされた方を優先します」
放送を終えると、乗客から声が飛ぶ。
「いつまでここにおるんですか!」
「外に出た方がえいんやないですか!」
「救助は来るんですか!」
三谷は唇を噛んだ。
自分だって知りたい。
でも、今ここで不安をそのまま出せば、車内は崩れる。
「現在、線路外は落石の危険があります。勝手に外へ出ることは非常に危険です。必ず係員の指示に従ってください」
その時、年配の女性が立ち上がった。
「若い車掌さん、頑張りゆうがやき。みんな落ち着こうや」
別の男性も続いた。
「水、一本あります。子どもさん優先で」
小さな助け合いが、車内に広がり始める。
三谷は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
*
南風11号。
川原は再び車内へ入った。
煙が濃い。
目が痛い。
ハンカチで口元を押さえながら進む。
「誰かおるか!」
奥から、かすかな声。
「ここ……」
座席の影に、若い女性が倒れていた。
腕を押さえている。
すぐそばには、意識のない男性。
「動けるか!」
「腕が……でも……この人が……」
「分かった」
川原は男性の呼吸を確認する。
弱いが、ある。
「石原! 担架代わりになるもの!」
「座席カバーと荷物棚の板を使います!」
石原が叫ぶ。
乗客二人が手伝い、即席の担架を作る。
全員で男性を乗せる。
「頭を固定しろ!」
「はい!」
煙の中、四人がかりで男性を窓へ運ぶ。
炎は、もうすぐそこまで来ていた。
*
突然、車内後方で叫び声がした。
「余震!」
次の瞬間、車体が大きく揺れた。
割れた窓枠がきしむ。
避難梯子が外れかける。
「梯子押さえろ!」
外の乗客たちが必死に梯子を支える。
山から石が落ち、車体の屋根に当たる。
ガン、ガン、と鈍い音。
子どもが泣き叫ぶ。
煙がさらに車内へ舞い戻る。
川原は担架を抱えたまま叫んだ。
「止まるまで待て! 今動くな!」
揺れは十数秒で収まった。
だが、その十数秒が永遠のようだった。
*
外では、避難した乗客たちが線路脇に集まっていた。
しかし安全な場所などない。
山側は落石。
谷側は急斜面。
トンネル入口付近は炎と煙。
誰もが、ただ生き延びるために、わずかな安全を探していた。
川原は担架の男性を外へ出すと、石原へ言った。
「残りは!」
「あと五、六人……ただ、先頭寄りに一人、挟まれてます」
「火は?」
「もう前方は無理です」
石原の声が震える。
「無理でも、見に行く」
「川原さん!」
「声があるなら行く」
*
川原は、炎の熱を感じながら前へ進んだ。
煙で視界がほとんどない。
床は傾き、足元はガラスだらけ。
前方に、座席と壁の間に挟まれた男性がいた。
意識はある。
しかし、脚が完全に挟まっていた。
「助けて……」
男性の声は弱い。
川原は駆け寄る。
「今出す!」
座席を動かそうとする。
動かない。
金属が歪み、車体に食い込んでいる。
石原も来た。
二人で押す。
びくともしない。
炎が近づく。
男性は、川原の腕を掴んだ。
「もう……いいです」
「黙れ!」
川原が怒鳴る。
「諦めるな!」
「子どもは……」
「何?」
「隣にいた子……出ましたか……」
川原は一瞬、言葉に詰まった。
「あぁ。出た。無事や」
男性は、かすかに笑った。
「よかった……」
川原は必死に座席を叩いた。
石原も泣きながら力を込めた。
だが、動かない。
炎が、もうすぐそこに来ていた。
*
川原の背後から、外の乗客が叫ぶ。
「危ない! 早く出て!」
石原が川原の腕を掴む。
「川原さん、だめです! 火が!」
「まだや!」
「だめです!」
石原の目から涙がこぼれていた。
「川原さんまで死にます!」
その言葉に、川原の身体が止まった。
助けたい。
助けたい。
でも、助けられない。
その現実が、胸を裂いた。
男性は静かに言った。
「行ってください」
川原は、奥歯を噛みしめた。
「すまん……」
その一言しか出なかった。
石原に引かれ、川原は窓へ戻る。
背後から、炎の音が迫る。
*
外へ出た瞬間、先頭車両の前方で炎が大きく噴き上がった。
熱風が線路脇まで届く。
乗客たちが悲鳴を上げる。
川原はその場に膝をついた。
拳をバラストに叩きつける。
「くそっ……!」
助けられる命があった。
助けられない命もあった。
鉄道員として、これほど残酷な現実はなかった。
*
石原は、煤だらけの顔で立っていた。
真鍋を失い。
乗客を救い。
それでも、全員を救えなかった。
彼は泣いていた。
声を出さずに、ただ涙を流していた。
川原は立ち上がり、石原の肩を掴んだ。
「まだ終わってない」
石原は顔を上げる。
「生きとる人を守るぞ」
石原は、涙を拭った。
「はい」
*
山間部に、炎と煙が立ち上る。
救助隊はまだ来ない。
指令本部は混乱している。
南風14号の水は足りない。
南風11号の乗客は負傷し、寒さと余震に震えている。
しかし、そこにはまだ生きている人がいた。
そして、生きている人を守るために動く人がいた。
炎の車内から出られた者たちは、互いに肩を寄せ合った。
誰かが言った。
「生きとる……」
その言葉に、誰かが泣き出した。
十一月一日。
紅葉の土讃線は、命をつなぐ現場になっていた。
⸻
次回予告
第8話「開かないドア」
炎の車内から多くの乗客を救い出した川原たち。
だが、犠牲は避けられなかった。
南風11号の乗客たちは、寒さとけが、そして心の傷を抱え、線路脇で救助を待つ。
一方、南風14号では水不足が深刻化し、乗客の不安が爆発寸前となる。
山間部に取り残された二つの特急列車。
次回、
第8話「開かないドア」
閉ざされた車両と、閉ざされた山の中で、人々は生き延びる道を探す。




