脱線
第5話
脱線
南風11号の車内は、暗かった。
非常灯だけが、赤く点滅している。
煙が、床の低いところから少しずつ流れ込んでいた。
「咳が……」
「子どもがいます!」
「ドア開けて! 早く!」
叫び声と泣き声が重なる。
車体は大きく傾き、座席は歪み、荷物棚から落ちた鞄が通路をふさいでいた。
先頭車両は、トンネル入口の壁面に激突していた。
運転席付近は潰れ、前方へ進むことはできない。
後方の連結部も大きく曲がり、人が簡単に通れる状態ではなかった。
*
車掌の石原亮介は、頭から血を流しながら立ち上がった。
足元がふらつく。
しかし、彼はすぐに乗務員室へ向かった。
備え付けの非常用ハンマー。
避難梯子。
懐中電灯。
救急袋。
訓練で何度も触れてきた装備。
だが、本当に使う日が来るとは思っていなかった。
「落ち着いてください!」
石原は声を張った。
「今から脱出路を作ります!」
自分の声も震えていた。
それでも、乗客には震えを見せてはいけないと思った。
*
まず確認したのは、進行方向右側の乗務員用ドアだった。
左側は山肌に近く、車体も大きく潰れている。
右側なら、かろうじて外へ出られる可能性がある。
石原はドアレバーに手をかけた。
力を込める。
動かない。
「くそっ……!」
もう一度、体重をかける。
金属がきしむ。
わずかに隙間ができる。
「開く……開くぞ!」
近くにいた男性乗客が駆け寄った。
「手伝います!」
「お願いします! せーの!」
二人で引く。
ドアは歪んでいたが、完全には潰れていなかった。
ぎぎぎ、と嫌な音を立てながら、少しずつ開いていく。
外の冷たい空気が流れ込んできた。
同時に、煙も外へ逃げる。
「ここから出られるかもしれません!」
石原は叫んだ。
*
しかし、外に出るには高さがあった。
車体は傾き、足元は安定していない。
そのまま飛び降りれば、足を折る可能性がある。
石原は乗務員室へ戻り、非常用の避難梯子を取り出した。
手が震える。
だが、作業は止めない。
「子ども、高齢者、けがの重い人から出します!」
彼は窓の方も確認した。
ドアだけでは間に合わない。
火が広がれば、逃げ道は一つでは足りない。
石原は非常用ハンマーを手に取り、乗客へ渡した。
「これで窓を破ってください!」
若い男性が受け取る。
「どこを叩けばいいですか!」
「隅です! 真ん中じゃなくて角を狙ってください!」
男性はうなずき、進行方向右側の窓へ向かった。
ハンマーを振り上げる。
ガン。
割れない。
もう一度。
ガン。
ひびが入る。
「もう一回!」
石原が叫ぶ。
三度目。
ガシャン、と音を立ててガラスが崩れた。
冷たい秋の空気が流れ込む。
乗客たちから、小さな希望の声が上がった。
*
石原はすぐに避難梯子を窓にかけた。
「一人ずつ! 押さないでください!」
外側には、傾いた車体とバラスト。
足場は悪い。
それでも、ここから出るしかない。
「先に子どもを!」
母親が泣きながら小さな女の子を抱いてくる。
「お願いします……この子を……」
石原は女の子を抱き取った。
「大丈夫。ゆっくり降りるよ」
窓の外で、先に降りた男性が両手を広げる。
「受けます!」
石原は女の子を梯子へ乗せる。
「下を見るな。お兄さんの方を見て」
女の子は泣きながらうなずいた。
一段。
二段。
小さな足が震える。
外の男性が支える。
無事に降りた。
母親が泣き崩れる。
「ありがとうございます……!」
「次!」
石原は叫んだ。
*
その頃、運転士の真鍋悠真は、潰れた運転席付近から這い出していた。
額から血が流れている。
左脚に力が入らない。
だが、彼はまだ動いていた。
「車掌……」
「真鍋さん!」
石原が振り返る。
「後ろの車両は……?」
「連結部が曲がってます! 通路が狭いですが、何人か通れます!」
「二号車にも……誘導を……」
「分かってます! 真鍋さんは座ってください!」
「だめや……」
真鍋は壁に手をつきながら立ち上がる。
「俺も……やる……」
石原は言い返そうとした。
だが、真鍋の目を見て止まった。
彼は運転士だった。
最後まで、乗客を守るつもりだった。
*
その時、車内の奥から叫び声が上がった。
「火が来てる!」
全員が振り向く。
前方床下から、黒い煙が濃くなっている。
軽油の匂い。
焦げた配線の臭い。
火はまだ大きくはない。
しかし、広がり始めている。
石原は叫んだ。
「急いで! でも押さないで!」
パニックになれば、避難路はすぐ詰まる。
押し合えば、誰かが転落する。
助かる命まで失う。
「一列! 一列で!」
真鍋も声を張る。
「けが人を支えて! 動ける方は手伝ってください!」
*
乗客たちは動き始めた。
知らない者同士が肩を貸す。
高校生が高齢者の荷物をどける。
外国人旅行者が、泣いている子どもを抱える。
母親が別の母親の赤ん坊を支える。
恐怖の中でも、人は人を助けようとしていた。
*
一方、南風14号を降りた川原恒一は、線路上を急いでいた。
余震のたび、山が鳴る。
斜面から小石が落ちる。
足元のバラストが崩れ、何度もよろける。
だが、彼は止まらない。
黒煙が近づく。
その先に、南風11号がいる。
川原は歯を食いしばった。
「持ちこたえろ……」
その声は、誰に向けたものでもなかった。
真鍋へ。
乗客へ。
列車へ。
そして、この山の中でまだ生きている人たちへ。
*
南風11号では、脱出が続いていた。
だが、全員が窓まで来られるわけではなかった。
座席に挟まれた乗客。
足を負傷した高齢者。
意識のない男性。
動けない人が残っている。
「この人、出せません!」
「座席が曲がってる!」
石原は非常ハンマーを握り直した。
窓を割るだけでは足りない。
壊す。
こじ開ける。
道を作る。
訓練ではなく、現実の中で。
「真鍋さん!」
「こっちを支えます!」
二人は、変形した座席を乗客と一緒に動かそうとした。
金属がきしむ。
煙が濃くなる。
時間がない。
*
窓から外へ出た乗客たちは、線路脇に集められていた。
しかしそこも安全ではない。
崖。
落石。
余震。
ドームのように山が覆いかぶさる地形。
逃げ場は限られていた。
先に降りた男性が叫ぶ。
「線路の山側から離れて! 川側も近づかんで!」
誰が指示したわけでもない。
だが、動ける人が動いていた。
*
石原は次の乗客を窓へ誘導する。
その時、火が一気に大きくなった。
前方から熱気が押し寄せる。
「まずい!」
真鍋が叫ぶ。
「前方車両から離れて!」
石原は喉が裂けそうな声で叫んだ。
「急げ! 急げぇ!」
それは、乗務員としての冷静なアナウンスではなかった。
人間としての叫びだった。
*
川原が事故現場に近づいた時、彼は足を止めた。
目の前に現れた南風11号の姿は、あまりにも無残だった。
先頭車両はトンネル入口の壁面に押し潰されるように変形している。
二両目は斜めに傾き、三両目との連結部が折れ曲がっていた。
窓ガラスは割れ、煙が流れ出している。
そして、前方床下から炎が上がっていた。
「……なんてことや」
川原は一瞬だけ、言葉を失った。
だがすぐに走り出した。
「南風11号! 聞こえるか!」
外に避難していた乗客が振り返る。
「助けてください! まだ中に人が!」
川原はヘルメットをかぶり直した。
「車掌は!」
「中です!」
「運転士は!」
「中で助けてます!」
川原は燃える車両を見た。
助けを待つ声が、まだ聞こえていた。
彼は反射ベストの胸元を握りしめる。
ここから先は、時間との戦いだった。
次回予告
第6話「トンネル入口激突」
川原が見たものは、無残に変形した南風11号だった。
炎は広がり、煙は濃くなり、残された乗客たちの命を奪おうとしている。
真鍋運転士と石原車掌は、負傷しながらも脱出誘導を続ける。
しかし、山間部に救助隊はまだ来ない。
道路は寸断。
指令は混乱。
余震は止まらない。
次回、
第6話「トンネル入口激突」
鉄道員たちは、助けられる命と、助けられない現実に向き合う。




