非常制動
第4話
非常制動
南風14号は、止まった。
川原恒一の判断は、間に合った。
五両編成の車体は、激しい揺れに振られながらも、かろうじてレールの上に残っていた。
だが、それは「助かった」という意味ではなかった。
山は、まだ揺れていた。
*
運転席の前方では、斜面から小石がぱらぱらと落ちていた。
遠くの山腹には、土煙が上がっている。
さっきまで紅葉に染まっていた山が、今は不気味にざわめいていた。
「お客様にお知らせいたします。ただいま強い地震のため、緊急停止しております。係員の指示があるまで、席を立たずにお待ちください」
若い車掌の声が、車内放送に乗って響く。
けれど、その声にも震えがあった。
乗客たちは不安げに顔を見合わせる。
「ここ、降りられるが?」
「トンネルの中じゃないだけ、まだましか……?」
「でも山やろ。落石あるんちゃう?」
「水、買っとけばよかった……」
*
川原は無線を握った。
「こちら南風14号。非常停止完了。脱線なし。ただし強い余震あり。対向列車、南風11号と思われる列車から応答なし。黒煙を確認」
返ってきたのは、ひどい雑音だった。
『……こちら……高知指令……各列車……状況……報告……』
別の無線が割り込む。
『予讃線、列車脱線との情報!』
『高徳線、橋梁損傷!』
『とさでん市内線、複数箇所で軌道変状!』
『津波警報、太平洋沿岸に大津波警報!』
情報が重なり、聞き取れない。
川原は唇を噛んだ。
指令も混乱している。
当然だった。
この地震は、土讃線だけではない。
四国全体が、いや、日本列島の広い範囲が同時に傷ついている。
*
「川原さん……救助、来ますか」
若い車掌が聞いた。
川原はすぐには答えなかった。
山間部。
道路は細い。
崩落すれば車両は入れない。
ヘリも、余震と山の地形次第では近づけない。
さらに、全国各地で被害が出ているなら、消防も自衛隊もすぐには回ってこない。
「……すぐには来ん」
川原は短く言った。
車掌の顔が青ざめる。
「じゃあ……」
「俺らで、まず守るしかない」
*
その頃、車内では別の問題が浮かび上がっていた。
「水、ありますか?」
子どもを抱えた母親が不安そうに尋ねる。
車内販売はない。
乗客が持っているペットボトルも、それぞれ一本あるかないか。
五両編成。
百人を超える乗客。
停電は免れたが、空調は不安定。
外へすぐ出られる状況でもない。
飲料水が、圧倒的に足りなかった。
車掌は車内を回りながら、持ち物を確認していく。
「飲み物をお持ちの方は、今すぐ飲み切らず、少しずつ飲んでください」
「体調の悪い方、けがをされた方、小さなお子様を優先します」
その言葉に、乗客たちの顔がさらにこわばる。
列車の中に閉じ込められている。
救助は来ないかもしれない。
水も足りない。
そう理解した瞬間、車内の空気は一段重くなった。
*
一方、対向列車。
南風11号。
トンネル入口へ激突した先頭車両は、歪んでいた。
照明は落ち、非常灯だけが赤く点滅している。
車内には煙が流れ込み始めていた。
「ドアが開かん!」
「こっちもだめや!」
「窓、割れんが!フレーム曲がっちゅう!」
乗客たちの叫び。
泣き声。
うめき声。
そして、床下から漂う軽油の匂い。
真鍋悠真は、額から血を流しながら運転席から這い出した。
脚に激痛が走る。
それでも立とうとする。
「お客様……落ち着いてください……」
声がかすれる。
「火が……火が来るかもしれません……後ろへ……動ける方は、後ろの車両へ……」
だが連結部は潰れていた。
通路は折れ曲がり、人が通るにはあまりにも狭い。
真鍋は、自分の無線機を握った。
「南風11号……脱線……衝突……火災の恐れ……救助を……」
返事はない。
無線は雑音を吐くだけだった。
*
南風14号の川原は、遠くの煙を見つめていた。
助けに行くべきか。
しかし、自分の列車にも乗客がいる。
余震が続く中で、彼らを放置するわけにはいかない。
車内に留めるのか。
外へ出すのか。
車内は安全とは限らない。
だが外は、落石と崩落の危険がある。
この判断を間違えれば、助かった命まで失う。
川原は深く息を吸った。
「車掌」
「はい」
「けが人の確認。水の残量。各号車の乗客数。すぐまとめろ」
「はい」
「それと、勝手に外へ出ようとする人を止めるんや。今はまだ出したらいかん」
「分かりました」
川原は、もう一度無線を取った。
「南風11号、応答せよ。こちら南風14号、川原。応答せよ」
雑音。
沈黙。
その奥に、かすかな叫び声のようなものが混じった。
川原は目を閉じた。
そして、低く言った。
「待っちょれ……」
*
車内の不安は、少しずつ形を変えていった。
「救助はいつ来るんですか!」
中年の男性が声を荒げる。
「ここにおって大丈夫ながですか!」
「外へ出た方がえいんやないですか!」
車掌は必死に説明する。
「現在、線路外も落石の危険があります。勝手に外へ出ると、さらに危険です」
「でも水もないんでしょう!」
その一言で、車内がざわつく。
母親が子どものペットボトルを握りしめる。
年配の女性が、自分の水を隣の子へ差し出す。
「私はえいき、この子に」
「すみません……」
こういう時、人の本性が見える。
怒る人。
黙る人。
助けようとする人。
崩れそうになる人。
川原は車内を見渡しながら思った。
ここからが、本当の非常時だ。
*
指令本部では、情報が錯綜していた。
四国内の走行中列車の半数近くが、何らかの異常を訴えている。
脱線。
停電。
線路変状。
トンネル内停止。
橋梁上停止。
沿岸部では、津波警報により安否確認すらできない列車がある。
「南風11号の位置は!」
「大歩危付近と推定!」
「通信途絶!」
「南風14号は停止、脱線なし!」
「消防へ連絡は!」
「道路が寸断されています!現場到達困難!」
誰もが叫んでいた。
だが、叫んでも線路は直らない。
救助隊は空から降ってこない。
現場にいる者が、判断するしかなかった。
*
川原は、車掌から報告を受けた。
「乗客百六十二名。軽傷者十七名。頭部打撲一名、腕を痛めた方二名。重傷者は今のところ確認されていません」
「水は」
「乗客の持ち物を合わせても、十分とは言えません。小さいペットボトル含めて三十本程度です」
川原の表情が険しくなる。
「足りんな」
「はい」
「救助が夜まで来ん可能性もある」
車掌は言葉を失った。
十一月一日。
山の日暮れは早い。
気温も下がる。
水だけではない。
寒さも来る。
*
遠くで、黒煙が濃くなった。
川原はそれを見て、決断した。
「車掌、俺は対向列車の状況を見に行く」
「川原さん!」
「ここはお前が守れ」
「でも……」
「勝手に外へ出すな。水は子ども、けが人、高齢者優先。全員に説明せえ。混乱させるな」
「……はい」
川原は非常用装備を手に取った。
無線機。
懐中電灯。
救急セット。
反射ベスト。
そして、乗務員用のヘルメット。
ドアを開ける前、川原は車内を一度振り返った。
不安に揺れる乗客たち。
泣く子ども。
祈る老人。
彼らを見て、川原は静かに言った。
「必ず戻る」
*
ドアが開く。
冷たい秋の空気が車内へ流れ込んだ。
遠くの山から、煙が上がっている。
足元のバラストは不安定だった。
余震が、また小さく山を揺らした。
川原は線路へ降りた。
振り返らない。
対向列車へ向かって歩き始める。
救助隊は望めない。
指令は混乱している。
水は足りない。
それでも、誰かが行かなければならなかった。
止まった列車の中で、本当の戦いが始まっていた。
⸻
次回予告
第5話「脱線」
川原は、煙の上がる対向列車へ向かう。
余震と落石が続く山間部。
近づくほどに、事故の凄惨さが明らかになる。
一方、南風11号では、真鍋運転士と車掌、乗客たちが必死に脱出路を探していた。
しかし、変形した車体。
漏れ出す軽油。
広がる炎。
そして、助けを待つ乗客たち。
次回、
第5話「脱線」
山間部のトンネル入口で、特急列車は無残な姿をさらす。




