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海の声が聞こえなくても・土讃線が止まった秋  作者: リンダ


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山を越える列車

第2話


「山を越える列車」


 特急「南風14号」は、紅葉に染まり始めた四国山地の中を進んでいた。


 五両編成の車体が、ゆるやかなカーブに合わせて、しなやかに揺れる。


 車輪がレールを刻む音。


 ディーゼルエンジンの低い響き。


 トンネルへ入るたび、窓の外は一瞬で闇に包まれ、抜けるとまた、吉野川の水面と色づいた山肌が目に飛び込んでくる。


 土讃線。


 四国を南北に貫く、山岳路線。


 列車はただ人を運んでいるだけではなかった。


 高知と本州をつなぎ、山間の町と町をつなぎ、暮らしと仕事と旅をつないでいた。


     *


 運転席の川原恒一は、速度計を確認しながら、前方を見据えていた。


 この区間は、何度走っても気を抜けない。


 短いトンネル。


 すぐにカーブ。


 その先に橋梁。


 またトンネル。


 線路は山の斜面へ貼りつくように敷かれている。


 美しい景色の裏側には、常に危険があった。


 落石。


 倒木。


 強風。


 雨による土砂崩れ。


 そして、地震。


「川原さん」


 助手席側にいた若い車掌が声をかけた。


「はい」


「このへん、やっぱり運転難しいですか」


 川原は、前方を見たまま少し笑った。


「難しいというより、山に走らせてもらいゆう感じやな」


「山に?」


「線路はこっちの都合で敷いちゅう。でも山は、人間の都合なんか聞いてくれん」


 車掌は黙って頷いた。


「だから、少しでも変やと思ったら、無理せん。止める時は止める。それが一番大事や」


「走らせるより、止める方が大事ですか」


「場合によってはな」


 川原は静かに言った。


「列車は、止まる勇気がなかったら、人を守れん」


     *


 二号車では、観光客の夫婦が弁当を広げていた。


「見て、紅葉きれいやねぇ」


「ほんまや。こりゃ写真撮らんと」


 窓際の席では、大学生らしい青年がカメラを構え、トンネルを抜けるたびにシャッターを切っている。


 その少し後ろには、祖父母と一緒に乗っている小学生の姉弟がいた。


「おばあちゃん、トンネル何個あるが?」


「数えきれんばああるろうねぇ」


「じゃあ、うち数える!」


 姉が張り切って窓を見る。


 弟は座席の背もたれにつかまりながら、列車がトンネルへ入るたびに声を上げた。


「一個目!」


「それ、もう十個目ばあやない?」


「えー、わからんなった!」


 近くの乗客が小さく笑う。


 平和だった。


 どこにでもある、秋の特急列車の午後だった。


     *


 三号車には、外国人旅行者の一行がいた。


 英語で話しながら、車窓の山々を眺めている。


「Beautiful…」


「So many tunnels」


 通路を歩いていた車掌が、少し慣れた英語で声をかけた。


「Next stop is Oboke. Beautiful valley area」


 旅行者たちは笑顔で頷いた。


 土讃線は、いつの間にか世界からの旅行者にも知られる路線になっていた。


 大歩危、小歩危。


 祖谷渓。


 山と川の深い景色。


 列車でしか味わえない四国の表情が、そこにはあった。


     *


 一方、岡山発・高知行きの「南風11号」。


 運転席の真鍋悠真は、前方に続くトンネル入口を見つめながら、ブレーキ扱いの感覚を確かめていた。


 真鍋はまだ若い。


 しかし、手抜きをしない運転士だった。


 指差確認も、声出し確認も、先輩たちから「真面目すぎる」と言われるほど徹底している。


「真鍋さん、今日も定時ですね」


 車掌が無線越しに言った。


「このまま行ければな」


「さすがです」


「いや、山線は最後まで分からん」


 真鍋は短く答えた。


 油断はしない。


 土讃線では、それが基本だった。


     *


 真鍋の列車にも、同じように人々の日常があった。


 高知へ帰る会社員。


 祖父母に会いに行く母子。


 高知旅行を楽しみにしている友人同士。


 学生服姿の高校生。


 窓の外の紅葉に、誰もが少しだけ心をほどいていた。


 その中に、修学旅行の下見に向かう中学校教師もいた。


 ノートを開き、行程表を確認している。


「ここで乗り換えて、バスで桂浜……」


 彼女は小さくつぶやいた。


 日常は、いくつもの予定でできている。


 誰かに会う。


 どこかへ行く。


 帰る。


 そんな小さな予定が、人生を支えている。


 列車は、それを運んでいた。


     *


 南風14号は、大歩危駅へ向けて速度を調整していた。


 川原は、線路脇の斜面をちらりと見る。


 雨は降っていない。


 視界も良好。


 異常なし。


 それでも、川原の中には、山を走る時特有の緊張が常にあった。


「山は黙っちゅう時ほど怖い」


 昔、先輩運転士にそう言われたことがある。


 若い頃の川原は、その意味がよく分からなかった。


 しかし、二十五年走れば分かる。


 山は突然、表情を変える。


 晴れていても、落石は起きる。


 穏やかでも、斜面は崩れる。


 人間の見えている景色など、自然のほんの表面に過ぎない。


     *


 列車が小さく揺れた。


 普通なら気にしない程度の揺れだった。


 だが川原は、眉をわずかに動かした。


「……今の」


「どうしました?」


「いや」


 川原は耳を澄ませた。


 エンジン音。


 レール音。


 車輪のきしみ。


 いつもの音。


 しかし、その奥に、ほんの少しだけ違和感があった。


 山の奥から、何かが低く唸るような感覚。


 気のせいか。


 そう思った瞬間、車内の照明が一度だけ、かすかに揺らいだ。


     *


 同じ頃、南風11号の真鍋も、前方の架線柱がわずかに揺れたように見えた。


「ん?」


 真鍋は速度計を確認した。


 異常なし。


 風か。


 そう思った。


 列車は、次のトンネル入口へ近づいていた。


 カーブを抜けると、すぐ前方にコンクリートの坑門が見える。


 真鍋は通常通り、制動位置を意識しながら進む。


 車内では、母親が子どもにお茶を渡していた。


 老人が荷物棚の上の鞄を直していた。


 高校生がイヤホンをつけ、窓の外をぼんやり見ていた。


 誰もまだ、気づいていなかった。


     *


 午後一時四十一分。


 高知県沖の深い海底で、巨大な断層が動き始めた。


 その動きは、海の底から四国の山へ、そして日本列島全体へと広がっていく。


 だが、列車の中にいる人々は、まだ知らない。


 車窓の紅葉を見ている。


 弁当を食べている。


 スマートフォンで写真を撮っている。


 眠っている。


 目的地のことを考えている。


 帰った後の夕食のことを考えている。


 いつものように。


 当たり前のように。


     *


 川原の運転席に、突然、鋭い音が鳴った。


 ピロン、ピロン、ピロン。


 車内にも、スマートフォンの警報音が連鎖するように響き出す。


 ひとつ。


 ふたつ。


 十。


 二十。


 車内の空気が、一瞬で変わった。


「緊急地震速報です」


「強い揺れに警戒してください」


 乗客たちの顔から笑みが消える。


「え、地震?」


「こんな山の中で?」


「列車、大丈夫なが?」


 子どもが母親の腕にしがみつく。


 外国人旅行者が周囲を見回す。


 弁当を食べていた夫婦が箸を止める。


     *


 運転席。


 川原は、すでに動いていた。


 手がマスコンへ伸びる。


 制動操作。


 前方確認。


 乗客の安全。


 停止位置。


 橋梁か。


 トンネルか。


 崖か。


 一瞬で、すべてを考える。


「非常制動、入れます」


 川原の声は低かった。


 車掌が息を呑む。


 その直後。


 山が揺れた。


     *


 南風11号。


 真鍋の目の前には、トンネル入口が迫っていた。


 警報音。


 スマートフォンの一斉鳴動。


 車掌からの無線。


「緊急地震速報です!」


「分かっちゅう!」


 真鍋はブレーキを扱う。


 だが、その瞬間、列車の下から突き上げるような揺れが襲った。


 レールが波打つように見えた。


 車体が横へ振られる。


 トンネル入口の壁面が、目の前で大きく揺れた。


 真鍋の顔から血の気が引いた。


「まずい……!」


     *


 四国山地の静かな秋は、そこで終わった。


 列車が山を越える音は、悲鳴へと変わろうとしていた。



次回予告


第3話「緊急地震速報」


 鳴り響く警報音。


 山間部を走る五両編成の特急列車。


 乗客たちは突然の緊急地震速報に凍りつく。


 ベテラン運転士・川原恒一は、異常な揺れを察知し、即座に非常制動の判断へ向かう。


 一方、対向列車の真鍋悠真は、トンネル入口目前で本震に襲われる。


 逃げ場のない山岳路線。


 断続するトンネル。


 迫る巨大地震。


 次回、

 第3話「緊急地震速報」


 いつもの列車は、命を守る現場へ変わる。

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