タイガース、日本一
最終章
タイガース、日本一
PayPayドーム、九回表の奇跡
相手は、パ・リーグ常勝軍団ホークスだった。
小百合にとって、ホークスという名前は、ただの強豪ではなかった。
これまで幾度となく、タイガースの前に立ちはだかってきた相手。
交流戦でも、日本シリーズでも、短期決戦のここ一番でも。
何度も、何度も、あと一歩のところで夢を阻んできた相手。
そして今年も、その壁は高かった。
日本シリーズは、ホークスの本拠地、福岡PayPayドームで開幕した。
第1戦。
タイガースはホークス投手陣の前に沈黙し、敗れた。
第2戦。
終盤まで粘ったが、あと一本が出ず、また敗れた。
敵地で二連敗。
甲子園へ戻ってから、タイガースは意地を見せた。
ファンの声援を背に、一つ勝ち、もう一つ勝った。
けれど、第5戦を落とした。
対戦成績は、タイガース二勝三敗。
後がない。
再び、舞台は福岡へ戻った。
*
第6戦。
PayPayドームの空気は、まるでホークスの優勝を待っているかのようだった。
白と黄色の応援が渦を巻く中、タイガースは必死に食らいついた。
先発投手が粘る。
中継ぎが踏ん張る。
野手が体を張って守る。
勝った。
泥臭く、苦しく、何度も息が止まりそうになりながら、それでも勝ち切った。
三勝三敗。
決着は、第7戦へ。
*
小百合は、球団職員として初めて迎える日本シリーズを、夢の中にいるような気持ちで過ごしていた。
もちろん、観客ではない。
国際対応、関係者対応、通訳補助、球場運営の連携。
試合前から試合後まで、やることは山ほどある。
けれど、ふとグラウンドを見た瞬間、胸が詰まることがあった。
私は、ここにいる。
あの時、タイガースのビデオメッセージを見て泣いていた九歳の自分。
声が出なくて、ノートに「また応援したい」と書いた自分。
兄のグローブを抱きしめていた自分。
その自分が今、球団職員として、タイガースの日本一を支える側にいる。
それだけで、何度も泣きそうになった。
*
第7戦。
PayPayドームは、試合前から異様な熱気だった。
ホークスファンの大声援。
ビジター席を埋めるタイガースファンの祈るような拍手。
ドーム特有の反響音。
小百合は胸の奥で、少しだけ緊張が跳ねるのを感じた。
大きな音は、今でも苦手な時がある。
けれど、隣に航平がいた。
航平もまた、球団職員として、トレーナー部門とスポーツビジネス部門を行き来しながら働いていた。
「大丈夫か?」
航平が小声で聞く。
小百合は、少しだけ深呼吸した。
「うん。大丈夫」
「無理するなよ」
「うん。でも、見届けたい」
航平はうなずいた。
「一緒に見よう」
*
試合は、息の詰まる展開になった。
ホークスが中盤に一点を先制。
タイガース打線はチャンスを作るものの、あと一本が出ない。
七回。
二死一、三塁。
代打が鋭い当たりを放つ。
しかし、ホークスの二塁手が横っ飛びで捕った。
八回。
先頭打者が出る。
だが、送りバント失敗。
後続も倒れ、無得点。
スコアは、1対0。
ホークスリードのまま、試合は九回表へ進んだ。
*
PayPayドームの空気は、勝利を確信し始めていた。
ホークスファンの拍手が、ひときわ大きくなる。
あと三つ。
あと三つで、ホークスが日本一。
タイガースにとっては、あと三つで終わり。
小百合は、胸の前で手を組んだ。
声は出さない。
叫ばない。
でも、心の中では祈っていた。
お願い。
まだ終わらないで。
お父さん。
お母さん。
兄ちゃん。
美波。
どうか、もう一度だけ。
*
九回表。
先頭打者は倒れた。
ワンアウト。
次の打者も、内野フライ。
ツーアウト。
ランナーなし。
球場の空気が、ほとんど決まりかける。
小百合の胸が、ぎゅっと縮んだ。
終わる。
また届かないのか。
そう思った瞬間だった。
三番・森田が打席に立った。
このシリーズ、何度もチームを救ってきた男。
だが、この場面は二死走者なし。
どれだけ打っても、まだ一点差。
カウントは追い込まれた。
ホークスの守護神が、低めへ鋭い球を投げ込む。
森田は食らいついた。
打球は三遊間を抜ける。
レフト前ヒット。
ビジター席が跳ねた。
小百合は思わず口元を押さえた。
「出た……」
航平が小さく言う。
「つながった」
*
ツーアウト一塁。
打席には、四番・篠田洋一。
この日、篠田は徹底的に抑え込まれていた。
第1打席、三振。
第2打席、内野ゴロ。
第3打席、内野ゴロ。
ホークスバッテリーは、篠田に対して完璧な攻めを見せていた。
外の変化球で目線をずらし、内角で詰まらせ、最後は落とす。
篠田は、ここまで自分のスイングをさせてもらえていなかった。
小百合は、篠田の背中を見つめた。
お願い。
もう理屈じゃなかった。
データでも、流れでも、相性でもない。
ただ、祈りだった。
*
一球目。
外角低め。
見逃し。
ストライク。
二球目。
内角へ速球。
篠田は詰まらされそうになりながら、ファウル。
追い込まれた。
PayPayドームのホークスファンが総立ちに近くなる。
三球目。
落ちる球。
篠田は見逃した。
ボール。
四球目。
外へ逃げる変化球。
篠田のバットが止まる。
ボール。
カウント、ツーボール・ツーストライク。
五球目。
ホークスバッテリーは、もう一度勝負球を選んだ。
外角へ沈む球。
低い。
遠い。
普通なら、ひっかけて終わる球だった。
けれど篠田は、開き直った。
崩されてもいい。
泳がされてもいい。
詰まってもいい。
最後の最後で、自分のスイングだけはする。
そう決めたように、思い切り振り抜いた。
*
乾いた音が、ドームに響いた。
打球は高く上がった。
ライトへ。
ポール際へ。
伸びる。
切れるな。
切れるな。
小百合は、息ができなかった。
打球が白い天井の下を抜け、ライトスタンドへ向かう。
ホークスの右翼手がフェンス際まで追う。
見上げる。
ボールは――
ポールぎわへ、吸い込まれた。
ホームラン。
逆転ツーラン。
タイガース、2対1。
*
ビジター席が爆発した。
タイガースベンチから選手たちが飛び出す。
一塁走者の森田が、両腕を突き上げながらホームへ向かう。
篠田は、一瞬だけ打球の行方を見つめていた。
そして、ゆっくり走り出した。
その顔は、泣いているようにも、笑っているようにも見えた。
小百合は、そこで崩れた。
涙が、後から後からあふれてくる。
止まらない。
航平が肩を支える。
「小百合」
「入った……」
「うん」
「篠田さんが……打った……」
「うん」
「逆転した……」
声が震えていた。
小百合は泣きながら、グラウンドを見つめた。
*
五番打者は三振に倒れた。
チェンジ。
スコアは、2対1。
残るは九回裏。
タイガースは、守護神・山田一也をマウンドへ送った。
*
小百合にとって、この九回裏は永遠のようだった。
ホークスは最後まで怖い。
常勝軍団は、簡単に終わらない。
PayPayドームの空気も、まだ死んでいない。
むしろ、最後の反撃を信じる熱が渦巻いていた。
一人目。
山田は初球、外角へストレート。
ストライク。
二球目、フォーク。
空振り。
三球目、外へ外す。
ボール。
四球目、低めの球を引っかけさせた。
セカンドゴロ。
ワンアウト。
小百合は、胸を押さえた。
あと二つ。
*
二人目。
ホークスの代打。
鋭い眼差しで打席に入る。
山田は慎重だった。
カウントはフルカウント。
投げる。
空振り三振。
ツーアウト。
あと一つ。
ビジター席のタイガースファンが、祈るように手を叩く。
小百合は、もう涙で視界がにじんでいた。
*
三人目。
ホークス最後の打者。
山田はロージンを手に取り、ゆっくり息を吐いた。
捕手がサインを出す。
うなずく。
第一球。
ストライク。
第二球。
ファウル。
追い込んだ。
PayPayドームの音が遠のく。
小百合の耳には、自分の心臓の音だけが聞こえていた。
第三球。
山田が投げる。
打者が打つ。
打球はショート正面。
ショートが捕る。
落ち着いて、一塁へ送る。
ボールが一塁手のミットに収まった。
アウト。
試合終了。
*
タイガース、2対1。
日本一。
PayPayドームの一角で、タイガースの選手たちがマウンドへ駆け出した。
山田一也が捕手に抱きつかれる。
篠田洋一がベンチから飛び出し、仲間にもみくちゃにされる。
森田が泣いている。
監督が何度も拳を握っている。
スタッフも、選手も、裏方も、全員が抱き合っている。
小百合はその場に立っていられなくなった。
航平が支える。
「小百合、大丈夫か」
小百合は首を横に振った。
「大丈夫じゃない……」
泣きながら笑った。
「嬉しすぎて……大丈夫じゃない……」
*
球団職員として採用された最初の年。
小百合は、日本一の瞬間に立ち会った。
しかも相手は、あのホークス。
何度も日本一を阻んできた、常勝軍団。
その本拠地で、九回表二死走者なしから逆転して勝った。
こんなことがあるのかと思った。
こんな瞬間を、自分が見届けていいのかと思った。
*
小百合の涙は止まらなかった。
「お父さん……」
声が漏れる。
「お母さん……」
手で口元を押さえる。
「兄ちゃん……」
兄の悠斗なら、何と言っただろう。
「小百合、泣きすぎや」
「まだ表彰式あるぞ」
「鼻水出ちゅうぞ」
そんな声が聞こえた気がした。
小百合は泣きながら笑った。
「兄ちゃん……タイガース、日本一になったよ……」
*
胸の中に、田中家の居間がよみがえる。
テレビの前で騒いだ夜。
父が静かに試合を見ていた。
母が台所から「ご飯冷めるよ」と言っていた。
兄が小百合をからかっていた。
小百合は大声で応援していた。
あの家はもうない。
あの三人もいない。
でも、あの時間は確かにあった。
そして今、その時間がこのPayPayドームの歓喜につながっていた。
*
美波のことも思い出した。
スケッチブックを抱えていた親友。
「小百合ちゃんが歌う六甲おろし、大好き」
そう言ってくれた美波。
小百合は心の中で言った。
美波。
聞こえちゅう?
タイガース、日本一になったよ。
*
優勝セレモニーが始まった。
ビジター球場での表彰式。
黄色と黒の選手たちが、敵地のグラウンドで笑い、泣き、抱き合っている。
小百合は、スタッフとして少し離れた場所からその様子を見守った。
本当なら、仕事中だ。
泣いてばかりいる場合ではない。
でも、今日だけは止められなかった。
航平がそっとハンカチを差し出す。
「使う?」
「うん……ありがとう」
小百合は涙を拭いた。
けれど、またすぐにあふれた。
*
「小百合」
航平が言った。
「ちゃんと、ここまで来たな」
その言葉に、小百合はまた泣いた。
「うん……」
「球団職員になって、最初の年に日本一や」
「うん……」
「すごいな」
小百合は、グラウンドを見つめながら言った。
「私、あの時……生きててよかったって、今ちょっと思えた」
航平は何も言わず、小百合の肩を抱いた。
*
小百合は胸に手を当てた。
そこには、今もずっといる。
父。
母。
兄。
美波。
栄子。
みんなが、自分をここまで連れてきてくれた。
小百合は、静かに目を閉じた。
「私、ちゃんとここで働いちゅうよ」
涙まじりに、心の中で語りかける。
「タイガース、日本一になったよ」
そして、少しだけ笑った。
「お父さん、お母さん、兄ちゃん、美波、栄子お母さん」
「見えちゅう?」
PayPayドームの歓喜の中、小百合は泣き続けた。
それは、悲しみの涙ではなかった。
失ったものと、生きてきた時間と、たどり着いた場所が、全部一つにつながった涙だった。
タイガースは、日本一になった。
そして小百合もまた、長い長い人生の中で、ひとつの大きな答えにたどり着いていた。




