海の声が聞こえなくても
第52話
海の声が聞こえなくても
桂浜の海は、静かだった。
小百合は、波打ち際から少し離れた場所に立っていた。
昔は、海の声が聞こえるような気がしていた。
遊びに誘う声。
笑いかける声。
風と一緒に背中を押してくれる声。
けれど、あの日から長い間、海の声は聞こえなくなった。
聞こえるのは、恐怖と喪失の記憶だけだった。
それでも今、小百合は海を見つめていた。
「お父さん、お母さん、兄ちゃん、美波」
小百合は、静かに語りかけた。
「私は、ちゃんと生きたよ」
*
その頃、栄子は病院のベッドの上にいた。
子宮にがんが見つかり、医師から余命三ヶ月と告げられていた。
病室の窓から差し込む光の中で、栄子は小百合と過ごした長い年月を思い出していた。
避難所の白い毛布。
声を失った小百合。
仮設住宅の小さな台所。
初めて「お母さん」と呼ばれた日。
高校合格の日。
成人式。
結婚式。
悠斗と美波が生まれた日。
血はつながっていない。
でも、たしかに母と娘だった。
*
見舞いの日。
小百合は航平とともに病室を訪れた。
美波と悠斗も来た。
さらに、小百合の孫三人も一緒だった。
病室は、少しだけにぎやかになった。
「お母さん」
小百合がベッドのそばに座る。
栄子は、やせた手で小百合の手を握った。
「小百合」
「うん」
「あなた、大きくなったねえ」
小百合は涙をこらえきれなかった。
「もう、おばあちゃんやで」
「そうやね」
栄子は、孫たちを見た。
「みんな、かわいいね」
孫たちは、少し緊張しながらも栄子の手に触れた。
栄子は、幸せそうに目を細めた。
*
「小百合」
「うん」
「私はね、みんなに囲まれて、幸せな人生だったよ」
小百合は首を振った。
「お母さんが、私を幸せにしてくれたがよ」
栄子は微笑んだ。
「違うよ。救われていたのは、私の方」
その言葉は、以前にも聞いたことがあるような気がした。
「あなたがいたから、私は母になれた。あなたが生きてくれたから、私も生きられた」
小百合は栄子の手を握りしめた。
「お母さん……」
栄子は、ゆっくり息を吸った。
「ありがとう」
病室の空気が静かになった。
「小百合、航平さん、悠斗くん、美波ちゃん……みんな、ありがとう」
そして、孫たちを見て、かすかに笑った。
「命は、ちゃんとつながるね」
その言葉を最後に、栄子は穏やかに目を閉じた。
静かに、この世を去った。
*
葬儀の日、小百合は泣いた。
声を上げて泣いた。
九歳の日に抱きしめてくれた母。
「小百合」と呼んでくれた母。
食べられない自分に、何度もご飯を作ってくれた母。
怖い夜、ずっとそばにいてくれた母。
栄子は、間違いなく小百合の母だった。
*
後日、小百合はもう一度、桂浜に立った。
空は晴れていた。
波は穏やかだった。
小百合の隣には航平がいた。
少し後ろには、悠斗、美波、そして孫たちがいた。
小百合は海を見つめた。
海の声は、もう聞こえなくてもいいと思った。
聞こえなくても、自分にはわかる。
ここに、すべてがあった。
失ったもの。
受け取ったもの。
つないできたもの。
「お母さん」
小百合は空へ向かって言った。
「私、ちゃんと生きるきね」
そして、海へ向き直る。
「お父さん、お母さん、兄ちゃん、美波、栄子お母さん」
涙が頬を伝う。
「私は、ちゃんと生きたよ」
波が静かに寄せて、返っていった。
それは返事ではないかもしれない。
けれど小百合には、それで十分だった。
海の声が聞こえなくても。
愛は、確かに残っていた。




