桂浜に立つ母
第51話
桂浜に立つ母
子どもたちを送り出したあと、小百合は桂浜へ向かった。
あの日、すべてを失った場所。
父と母と兄がいた町。
美波と走った海辺。
秘密基地があった場所。
九歳の自分が、声を失った原点。
波は、静かだった。
小百合は砂浜に立ち、長い時間、海を見つめた。
怖くないわけではない。
それでも、もう逃げなかった。
*
背後から、静かな足音がした。
「小百合」
栄子だった。
年を重ねた母は、ゆっくり歩いて小百合の隣に立った。
そして、何も聞かずに、そっと小百合の肩を抱き寄せた。
小百合は、海を見たまま言った。
「お母さん」
「うん」
「やっと私も、また海が好きって言えるようになったよ」
栄子は何も言わなかった。
ただ、小百合を抱きしめた。
その腕は、昔と同じように温かかった。
*
小百合の目に涙が浮かぶ。
「長かったね」
栄子は静かにうなずいた。
「うん。長かった」
「でも、ここまで来られた」
「うん」
波が寄せて、返っていく。
小百合は、ゆっくり息を吸った。
潮の匂い。
昔は大好きだった匂い。
長い間、怖かった匂い。
今は、涙が出るほど懐かしかった。
*
そのあと、二人は田中家の墓を訪れた。
父・勝。
母・美紀。
兄・悠斗。
小百合は手を合わせた。
「お父さん、お母さん、兄ちゃん」
声は穏やかだった。
「悠斗と美波の結婚式、無事に終わったよ」
栄子も隣で手を合わせる。
「孫たち、立派に巣立ちました」
小百合は微笑んだ。
「美波はタイガースのエースピッチャー、黒川蓮さんと結婚した。悠斗は女子プロゴルファーの高瀬凛さんと結婚したよ」
少し笑う。
「うちの家、やっぱりずっとタイガースやね」
風が墓前の花を揺らした。
*
「私、ちゃんと生きてきたよ」
小百合は静かに言った。
「いっぱい泣いたし、いっぱい怖かった。でも、お母さんがいてくれた。航平くんがいてくれた。子どもたちが生まれて、巣立っていった」
涙が一筋、頬を伝う。
「だから、もう一度言うね」
小百合は顔を上げた。
「私は、ちゃんと生きてるよ」
栄子は小百合の手を握った。
墓前に、静かな風が吹いた。
それはまるで、遠い家族からの返事のようだった。
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次回予告
第52話「海の声が聞こえなくても」
桂浜に立つ小百合。
亡き父、母、兄、美波へ。
そして、長い人生を支えてくれた栄子へ。
失ったものは戻らない。
けれど、愛は消えなかった。
声を失った少女は、母となり、祖母となり、もう一度海を見つめる。
最終話、
第52話「海の声が聞こえなくても」
「私は、ちゃんと生きたよ」




