海が笑っていた頃
第5話
海が笑っていた頃
その日の海は、凪いでいた。
土佐湾は青く、波は低く、風もやわらかかった。まるで海そのものが昼寝をしているみたいに、浜辺には穏やかな時間が広がっていた。
夏が近づくと、桂浜の近くには少しだけ浮き立つような空気が流れる。
浜辺の店からは、明るいサマーソングが聞こえていた。
かき氷の旗が風に揺れ、観光客の笑い声が砂浜に散らばる。
「小百合ちゃん、走りすぎたらまた靴濡れるで」
美波がスケッチブックを抱えて言った。
「大丈夫、大丈夫!」
「小百合ちゃんの大丈夫は、大丈夫やないって昨日も言うた」
「今日はほんまに大丈夫!」
そう言った三秒後、小百合は波打ち際で足を滑らせた。
「うわっ!」
靴の先が、ばしゃんと海水に浸かった。
美波はため息をついた。
「ほらね」
「これは海が近づいてきたが!」
「小百合ちゃんが近づいたがよ」
少し離れた場所で、山下隆が笑った。
「またお母さんに怒られるぞ」
「言わんかったらばれん!」
「靴、びしょびしょやん」
「乾かす!」
大翔は釣り竿を持ちながら胸を張っていた。
「俺は今日は大物釣るき」
陽菜がすぐに言う。
「昨日も言いよった」
「今日は違う!」
蓮が潮だまりを見ながら、ぼそっとつぶやく。
「たぶん、今日も釣れん」
「蓮、縁起悪いこと言うな!」
みんなが笑った。
海も笑っているようだった。
*
美波は砂浜に座り、海を描き始めた。
青い海。
白い砂。
走る小百合。
防波堤に立つ隆。
釣れない大翔。
貝殻を集める陽菜。
潮だまりをのぞく蓮。
美波のスケッチブックの中では、みんなが少しだけ優しい顔になっていた。
「美波、うちも描いて!」
「もう描きゆうよ」
「かっこよく?」
「うん。今日はちょっとだけ女の子っぽく」
「ちょっとだけって何なが!」
美波は笑った。
「だって、小百合ちゃん、走る時は風みたいやけど、海を見ゆう時は女の子の顔しちゅう」
「え?」
小百合は思わず自分の頬に触れた。
「どんな顔?」
「内緒」
「教えてや!」
「描いたら見せる」
小百合はむくれたが、美波の邪魔をしないように、隣に座った。
その時だった。
少し離れた浜辺に、大人のカップルがいた。
男の人と女の人が水着姿で肩を寄せ合い、海を見ながら何かを話している。二人は時々顔を見合わせ、照れくさそうに笑っていた。
小百合は、じっとその二人を見た。
「美波」
「なに?」
「あの人ら、何話しゆうがやろ」
美波もちらっと見た。
「さあ……」
「好きです、とか?」
「えっ」
「結婚してください、とか?」
美波の顔が赤くなった。
「小百合ちゃん、急に何言いゆうが」
「だって、そんな感じやない?」
「わからんけど……そうかもしれんね」
小百合は海を見た。
好きな人と、肩を並べて海を見る。
大人になったら、そういうことをするのだろうか。
自分にも、いつかそういう人ができるのだろうか。
ぼんやりと、隆の顔が浮かんだ。
「……」
小百合は慌てて首を振った。
美波がすぐに気づく。
「小百合ちゃん?」
「なんでもない!」
「隆兄ちゃんのこと考えた?」
「考えてない!」
「まだ何も言うてないのに」
「美波、ずるい!」
美波は楽しそうに笑った。
「小百合ちゃん、わかりやすい」
「わかりやすくない!」
小百合は砂浜に指でぐるぐる円を描いた。
「でも……」
「うん」
「いつか、好きな人とこの海を見るがかなって、ちょっと思っただけ」
美波はからかわなかった。
ただ、やさしくうなずいた。
「見られるよ」
「ほんま?」
「うん。小百合ちゃんは、きっと誰かと一緒に見る」
「美波も?」
「うん。うちも」
「ほいたら、二人とも大人になっても、ここに来よう」
「好きな人と?」
「うん。あと、子どもも連れて!」
「気が早いねえ」
「夢は大きくやき!」
小百合は立ち上がり、海に向かって叫んだ。
「うちは大人になっても、ここに来るきね!」
隆が防波堤の上から言った。
「海に宣言しゆうがか?」
「そう!」
「返事あったか?」
「波が返事した!」
「都合えいなあ」
小百合は笑った。
海は、きらきら光っていた。
*
夕方、家へ帰ると、美紀は玄関で小百合の靴を見てすぐに言った。
「また濡らした!」
「海が近づいてきたが!」
「そんなわけあるかね!」
台所で悠斗が笑う。
「小百合、また海に負けたか」
「負けてない! 仲良くしただけ!」
勝は新聞を読みながら、静かに言った。
「海と仲良くするには、まず距離を覚えんとな」
「はーい」
小百合は返事だけは元気にした。
その夜、食卓ではタイガースの中継が流れていた。
小百合は今日もテレビの前で忙しい。
「そこ打てる! 打てるき!」
「小百合、食べながら応援しなさい」
「応援しながら食べゆう!」
「それ逆やろ」
悠斗が呆れながらも笑う。
田中家は、いつものようににぎやかだった。
海で濡れた靴。
浜辺のサマーソング。
美波のスケッチブック。
隆のからかう声。
大人のカップルが肩を寄せ合っていた光景。
いつか自分も、誰かとあの海を見るのだろうかという小さな想像。
小百合の一日は、幸せなものでいっぱいだった。
あまりにも眩しくて、あまりにも当たり前で。
だから誰も気づかなかった。
海が笑っているように見えた日々が、永遠ではないことに。
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次回予告
第6話「土佐弁だらけの放課後」
学校が終われば、小百合たちの時間が始まる。
教室でも、帰り道でも、秘密基地でも、飛び交うのは土佐弁だらけのにぎやかな会話。
「はよう行こうや!」
「待ちいや!」
「それ、ずるいちや!」
「ほんまに小百合ちゃんは声が大きいねえ」
笑って、怒って、からかって、また笑う。
そんな何気ない放課後の中で、小百合は美波や隆たちと、またひとつ忘れられない時間を重ねていく。
次回、
第6話「土佐弁だらけの放課後」
言葉が弾む。
笑い声が響く。
小百合の声が、町じゅうを明るくしていた頃。




