男の子が生まれた日
第45話
男の子が生まれた日
神戸の病院に、産声が響いた。
小さくて、力強い声だった。
小百合は、涙でにじむ視界の中、胸元に抱かれた赤ちゃんを見つめた。
「……生まれた」
航平が、小百合のそばで泣いていた。
「小百合、ありがとう」
小百合は首を横に振った。
「航平くんも……ありがとう」
赤ちゃんは、小さな手を握りしめていた。
生きようとする力そのもののようだった。
*
名前は、二人で決めていた。
森川悠斗。
小百合の兄の名前をもらった。
十歳離れた、大好きだった兄。
防波堤を一緒に走ってくれた兄。
タイガース中継でからかってきた兄。
果たされなかったキャッチボールの約束を残した兄。
小百合は、赤ちゃんの頬にそっと触れた。
「悠斗」
小さな声で呼ぶ。
その名前を口にした瞬間、胸の奥が熱くなった。
*
数日後。
小百合は退院前に、病室の窓辺でスマホを手にした。
画面には、兄・悠斗の写真。
瓦礫の中から戻ってきた、少し色あせた家族写真の中で、兄はいつものように少し意地悪そうに笑っていた。
「兄ちゃん」
小百合は、赤ちゃんを抱いたまま話しかけた。
「男の子が生まれたよ」
航平は、少し離れた場所で静かに見守っていた。
「兄ちゃんの名前をもらったよ」
小百合の声が震える。
「森川悠斗」
赤ちゃんが、かすかに口を動かした。
小百合は泣きながら笑った。
「ありがとう。兄ちゃん」
その言葉には、たくさんの意味が込められていた。
守ってくれてありがとう。
遊んでくれてありがとう。
名前を残してくれてありがとう。
私を、ここまで連れてきてくれてありがとう。
*
午後。
栄子が病室にやってきた。
ドアを開けた瞬間、赤ちゃんを見て立ち止まった。
「小百合……」
その目には、もう涙が浮かんでいた。
「お母さん」
小百合は、赤ちゃんを抱いて微笑んだ。
「悠斗だよ」
栄子は震える手で、赤ちゃんの頬に触れた。
「悠斗くん……」
そして、小百合を抱きしめた。
「よく頑張ったね」
「うん」
「小百合が、お母さんになったがやね」
小百合の目から涙がこぼれた。
「うん。お母さんになった」
*
そこへ、航平の両親もやってきた。
父は少し緊張した顔で、母は花束を抱えていた。
「小百合さん、航平、おめでとう」
「よう頑張ったね」
航平の母は、赤ちゃんを見るなり顔をくしゃくしゃにした。
「かわいい……」
航平の父も、照れくさそうに言った。
「元気そうで何よりや」
病室は、あたたかい空気に包まれた。
栄子。
航平の両親。
航平。
小百合。
そして、新しく生まれた悠斗。
小百合は、その光景を見つめながら思った。
失った家族は戻らない。
けれど、命はつながっていく。
*
夜。
病室が静かになると、小百合は悠斗を抱きながら窓の外を見た。
神戸の夜景が広がっている。
その遠く向こうに、高知がある。
父と母と兄が眠る場所。
美波が眠る場所。
栄子が自分を抱きしめてくれた場所。
「悠斗」
小百合は赤ちゃんに語りかけた。
「あなたには、たくさんの人の命と名前がつながってるんだよ」
赤ちゃんは、眠ったまま小さく息をした。
「いつか話すね。お母さんの大事な人たちのこと」
小百合は、そっと悠斗を抱きしめた。
「そして、いっぱい生きようね」
男の子が生まれた日。
小百合は、またひとつ、未来を抱いた。
次回予告
第46話「女の子が生まれた日」
悠斗の誕生から数年。
小百合と航平のもとに、二人目の命が宿る。
今度は女の子。
小百合は、その子に親友の名前を込めたいと願う。
失った親友・美波。
海を描き、小百合を風みたいだと言ってくれた女の子。
次回、
第46話「女の子が生まれた日」




