海を怖がる私を好きだと言った人
第42話
海を怖がる私を好きだと言った人
小百合は、今でも海が怖かった。
遠くから見るだけなら、少しずつできるようになった。
けれど波音を近くで聞くと、体が強張る。
潮の匂いが強い日は、胸が苦しくなる。
テレビに津波の映像が映ると、今でも呼吸が浅くなる。
そんな自分を、小百合はどこかで責めていた。
「昔は、あんなに海が好きやったのに」
航平は、小百合の隣で静かに聞いていた。
「好きやった場所を怖がる自分が、嫌になる時がある」
小百合の声は震えていた。
航平は少し間を置いて、言った。
「海が怖くてもえい」
小百合は顔を上げた。
「そのままの小百合がえい」
その言葉は、波より静かに、小百合の胸へ届いた。
*
その夜、栄子は一人で台所に立っていた。
小百合と過ごした十年余りを思い返していた。
長いようで、あっという間だった。
避難所の白い毛布。
声を失った小百合。
仮設住宅の小さな部屋。
初めて「お母さん」と呼ばれた日。
高校合格の日。
成人式の日。
血のつながりはない。
けれど、栄子にとって小百合は、間違いなく娘だった。
「救われていたのは、私の方やったのかもしれんね」
栄子は、小さくつぶやいた。
両親と夫を失った自分が、母として立ってこられたのは、小百合がいてくれたからだった。
*
小百合は、海が好きだった。
走って、笑って、潮風の中で生きていた少女だった。
今も海を怖がっている。
けれど、それでも毎日を懸命に生きている。
大学へ行き、英語を学び、防災を学び、タイガースの球団職員になる夢へ向かっている。
航平という、大切な人もできた。
栄子は、窓の外を見た。
「田中勝さん、美紀さん、悠斗さん」
声には出さず、心の中で語りかけた。
「私、小百合をちゃんと育てられましたか」
涙がにじむ。
「田中家のみなさんに誓った約束、私なりに果たせたのかな」
答えはない。
けれど、隣の部屋から小百合の声が聞こえた。
「お母さん、お茶いる?」
栄子は涙を拭いて、笑った。
「いる」
その声に、小百合が小さく笑う。
それだけで、答えをもらった気がした。
*
海を怖がる小百合。
過去を抱えた小百合。
時々、泣いてしまう小百合。
それでも、航平はそのままの小百合を好きだと言った。
栄子は、そのままの小百合を娘として愛した。
小百合は少しずつ、自分を責めることをやめていく。
怖いままでもいい。
悲しいままでもいい。
そのまま生きていていい。
そう思える日が、少しずつ増えていった。
次回予告
第43話「二十三歳の結婚式」
大学を卒業し、夢へ向かって歩き始めた小百合。
そして二十三歳の春、航平との結婚式の日を迎える。
白田栄子は、母として小百合を送り出す。
亡き父、母、兄、美波への報告。
涙と祈りの中で、小百合は新しい家族を持つ。
次回、
第43話「二十三歳の結婚式」




