少しずつ話せるように
第41話
少しずつ話せるように
春の終わり。
大学のキャンパスに、やわらかな風が吹いていた。
桜は散り、若い緑が増えていく季節。
小百合は、ベンチに座ってノートを開いていた。
防災の講義で使うメモ帳とは別の、もう一冊のノート。
九歳の頃から続いている、自分のためのノートだった。
ページには、いくつもの言葉が重なっている。
「ありがとう」
「また応援したい」
「美波の絵を忘れない」
「誰かを助けたい」
そして、書きかけで止まっているページ。
そこに、小百合はペンを置いたまま、動けずにいた。
*
その日、航平と待ち合わせをしていた。
いつもと同じ場所。
いつもと同じ時間。
でも、小百合の中では、少し違う一日だった。
――話したい。
――でも、怖い。
胸の奥で、二つの気持ちがぶつかっていた。
あの日のことを、誰かに全部話すこと。
それは、自分の中にしまっていた扉を開けることだった。
開けたら、戻れないかもしれない。
壊れてしまうかもしれない。
でも。
航平には、知ってほしいと思った。
*
「小百合」
声がした。
航平だった。
いつものように、急がず、静かに近づいてくる。
「待たせた?」
「ううん」
小百合はノートを閉じた。
しばらく、二人は並んで座った。
風が通る。
遠くで笑い声がする。
何でもない、普通の時間。
その普通が、小百合にはまだ少し不思議だった。
*
「航平くん」
「うん」
「今日……ちょっと話してもえい?」
航平はすぐにうなずかなかった。
小百合の顔を見て、ゆっくり言った。
「えいよ。でも、無理せんでえい」
その一言で、小百合の肩の力が少し抜けた。
*
「私……九歳の誕生日の日に」
言葉が止まる。
喉が詰まる。
でも、小百合は続けた。
「地震があって……津波が来て」
航平は、何も言わずに聞いていた。
「学校で山に避難して……助かった」
小百合の指が震えた。
「でも、お父さんと、お母さんと、兄ちゃんは……海の近くで仕事しよって」
声がかすれる。
「そのまま……」
言葉が出なくなった。
呼吸が浅くなる。
航平は、何も言わなかった。
ただ、そっと手を差し出した。
小百合は、その手を握った。
*
「……美波も」
小百合は続けた。
「親友やった。ずっと一緒におった」
目に涙が浮かぶ。
「助かったけど……避難所で……」
その先が言えない。
でも、航平はうなずいた。
わかっているというように。
小百合は、涙をこぼしながら言った。
「私は助かったのに……みんなおらんなった」
その言葉は、何度も自分に突き刺さってきた言葉だった。
「なんで私だけって、ずっと思いよった」
航平は、やっと口を開いた。
「うん」
それだけだった。
でも、その「うん」は、小百合の言葉を受け止めるためのものだった。
*
「声も出んくなって……」
「うん」
「何も言えんくなって……」
「うん」
「でも……お母さんが」
小百合は少し笑った。
「栄子お母さんが、ずっとそばにおってくれた」
航平も少し微笑んだ。
「えいお母さんやね」
「うん」
小百合は強くうなずいた。
「今も、怖いことは消えてない。急に思い出すし、音も怖いし、海もまだ全部は見れん」
航平は静かに聞いていた。
「でも……」
小百合は航平を見た。
「航平くんには、ちゃんと知ってほしかった」
*
しばらく沈黙があった。
風が通り過ぎる。
木の葉が揺れる。
航平は、小百合の手を少し強く握った。
「話してくれて、ありがとう」
小百合は、少し驚いた顔をした。
「……怖くなかった?」
「怖かったと思う。でも、それでも話してくれた」
航平は、まっすぐに言った。
「それが大事やと思う」
小百合の目から涙がこぼれた。
でも、その涙は少しやわらかかった。
*
「全部は、まだ話せんと思う」
小百合は言った。
「えいよ」
「ゆっくりになる」
「えいよ」
「途中で止まるかもしれん」
「えいよ」
航平は、少しだけ笑った。
「俺、待つの得意やき」
小百合は、涙の中で笑った。
*
その日、小百合は初めて、自分の過去を「誰かに話した」。
全部ではない。
断片だけ。
途中で止まりながら。
涙をこぼしながら。
それでも、確かに「言葉にした」。
*
夜。
小百合はノートを開いた。
新しいページに書いた。
今日、航平くんに話した。
少し考えて、続けた。
全部じゃないけど、少し話せた。
さらに書いた。
怖かったけど、逃げなかった。
最後に、ゆっくりと書いた。
少しずつでいい。
*
小百合の声は、完全には戻っていない。
過去も消えていない。
悲しみも終わっていない。
でも。
言葉にできるものが、少しずつ増えていた。
誰かに届く声が、少しずつ育っていた。
それは、小百合が前に進んでいる証だった。
⸻
次回予告
第42話「海を怖がる私を好きだと言った人」
自分の過去を話し始めた小百合。
それでも、海への恐怖は消えない。
そんな小百合に、航平は言う。
「海が怖くてもえい。そのままの小百合がえい」
逃げたくなる心も、震える体も、そのままでいい。
次回、
第42話「海を怖がる私を好きだと言った人」
小百合は、ありのままの自分を受け入れられていく。




