彼との出会い
第38話
彼との出会い
大学二年の春。
小百合は、英語と防災、そしてスポーツビジネスを学ぶ日々を送っていた。
将来は、阪神タイガースの球団職員になる。
海外から来る選手の通訳。
外国人観客への案内。
災害時にも球場で人を守れる運営。
その夢に向かって、小百合は少しずつ歩いていた。
*
彼と出会ったのは、大学の防災ボランティア講座だった。
名前は、森川航平。
同じ大学の学生で、地域防災と福祉を学んでいた。
背が高く、声は穏やかで、話す時に相手の返事を急がせない人だった。
「白田さん、ここ座ってもえい?」
小百合は少し驚いた。
「……どうぞ」
航平は隣に座った。
それ以上、すぐに話しかけてこなかった。
ただ、講義の資料を広げ、静かにメモを取っていた。
その距離感が、小百合には少し楽だった。
*
講座のあと、グループワークがあった。
避難所で必要な支援について話し合う内容だった。
小百合は、ホワイトボードに書かれた言葉を見つめた。
水。
食料。
トイレ。
毛布。
医療。
心のケア。
胸が少し苦しくなる。
美波のことを思い出した。
避難所で助かったはずの命が、失われていったこと。
小百合の手が止まる。
航平はそれに気づいたが、何も聞かなかった。
代わりに、静かに言った。
「休む?」
小百合は顔を上げた。
「大丈夫?」
その聞き方が、やさしかった。
大丈夫と言わせる圧ではなく、本当に逃げ道を用意してくれる声だった。
「……少しだけ」
「うん」
航平は先生に声をかけ、小百合が外へ出られるようにしてくれた。
*
廊下の窓から、春の光が入っていた。
小百合は深呼吸した。
航平は少し離れた場所に立っていた。
近すぎない。
遠すぎない。
「ごめん」
小百合が言うと、航平は首を横に振った。
「謝らんでえいよ」
「迷惑かけた」
「迷惑やない」
航平は窓の外を見た。
「苦しくなること、誰にでもあると思う。白田さんには、白田さんの理由があるんやろうし」
小百合は黙った。
航平は、それ以上聞かなかった。
過去を掘り返そうとしない。
沈黙を急がせない。
そのことが、小百合には不思議だった。
*
それから、航平とは少しずつ話すようになった。
授業のこと。
英語の課題。
防災ボランティア。
好きな野球チーム。
「白田さん、タイガース好きなんや」
「うん」
「めっちゃ好き?」
「……人生レベルで」
航平は少し笑った。
「それは強い」
小百合も、少しだけ笑った。
昔なら、大声で六甲おろしを歌い出していたかもしれない。
今はまだ、そこまではできない。
でも、笑えた。
*
ある日、航平が言った。
「今度、試合見に行かん?」
小百合は固まった。
甲子園。
あの場所は、特別だった。
父と母と兄と美波の記憶がつながる場所。
好きだけれど、痛い場所。
航平は小百合の表情を見て、すぐに言った。
「無理なら全然えいよ」
小百合は、ゆっくり息をした。
「……考えてもえい?」
「もちろん」
航平は笑った。
「返事は急がんでえい」
その言葉に、小百合の胸が少し温かくなった。
*
その夜、小百合は栄子に話した。
「お母さん」
「うん?」
「同じ講座の人に、試合見に行かんかって誘われた」
栄子は少し目を丸くして、それから穏やかに笑った。
「そう」
「まだ、行けるかわからん」
「うん」
「でも……嫌ではなかった」
栄子は、小百合の表情を見た。
そこには、戸惑いと不安と、ほんの少しの光があった。
「その人、どんな人?」
「急がせん人」
小百合はぽつりと言った。
「聞きすぎん人。黙ってても、変な顔せん人」
栄子は静かにうなずいた。
「えい人やね」
「うん」
小百合は少し照れたように目を伏せた。
「たぶん」
*
小百合の恋の時間は、九歳の日から止まっていた。
隆のことを気にしていた、幼い頃の小さな胸の高鳴り。
好きという言葉も知らなかった、あの頃の気持ち。
それから長い間、小百合は誰かを好きになる余裕などなかった。
生きることで精一杯だった。
でも今。
航平といると、少しだけ呼吸がしやすい。
沈黙が怖くない。
無理に笑わなくていい。
それが、恋なのかどうかはまだわからなかった。
でも、小百合の止まっていた時間が、少しだけ動き始めていた。
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次回予告
第39話「声にならない会話」
航平と少しずつ距離を縮めていく小百合。
けれど、自分の過去を話すことはまだ怖かった。
声にできない記憶。
言葉にすると崩れそうな心。
そんな小百合に、航平は言う。
「話せんことは、話さんでえい」
沈黙の中でも伝わるものがある。
次回、
第39話「声にならない会話」




