語れない記憶
第35話 語れない記憶
あの日から、九年が過ぎた。
町には、あの日の後に生まれた子どもたちが増えていた。
津波を知らない子。
避難所の寒さを知らない子。
家族の名前を名簿から探す苦しみを知らない子。
それは、悪いことではなかった。
知らずに済むなら、それが一番いい。
けれど小百合は思っていた。
知らないままでは、守れない命もある。
*
高校の防災学習で、小百合は自分の体験を話すことになった。
教室の前に立つ。
手には原稿。
何度も書き直したものだった。
「私は、九歳の誕生日に……」
そこまで読んだところで、声が止まった。
喉が締まる。
目の奥が熱くなる。
山の上。
鳴り響く緊急地震速報。
先生の叫び声。
津波警報。
つながらない電話。
壊れた田中水産。
父、母、兄、美波。
全部が一気に戻ってくる。
「……ごめんなさい」
小百合の声は震えていた。
次の言葉が出ない。
涙がこぼれる。
教室は静かだった。
誰も笑わなかった。
誰も急かさなかった。
*
小百合は原稿を握りしめた。
本当は伝えたい。
逃げてほしい。
迷わないでほしい。
助かった後も、水と食べ物とトイレと暖かさが必要だと知ってほしい。
避難所で亡くなる人がいることも知ってほしい。
あのような悲劇を、誰にも経験してほしくない。
だから話したい。
けれど、話そうとすると、あの日の惨状が胸の中で暴れ出す。
言葉が壊れる。
声が消える。
小百合は、また九歳の自分に戻ってしまう。
*
授業のあと、栄子が迎えに来た。
「話せんかった」
小百合は、車の中でぽつりと言った。
「うん」
「伝えたいのに」
「うん」
「怖くて、声が出んかった」
栄子は、しばらく黙って運転していた。
そして、赤信号で車を止めると、小百合を見た。
「今日、前に立てた」
小百合は首を横に振った。
「でも、話せんかった」
「話せんでも、前に立った」
栄子は静かに言った。
「それは、逃げたんじゃないよ」
小百合の目に涙が浮かぶ。
「いつか話せる?」
「話せる日もある。話せない日もある」
「それでいいが?」
「それでいい」
栄子は少し微笑んだ。
「伝える方法は、声だけじゃないき」
*
その夜、小百合はノートを開いた。
人前では言えなかった言葉を、紙に書いた。
あの日のことを話そうとすると、声が出なくなる。
でも、忘れてほしくない。
逃げることを、恥ずかしいと思わないでほしい。
避難所で命を落とす人がいることも、知ってほしい。
美波みたいな子を、もう出したくない。
小百合は、鉛筆を置いた。
涙が一滴、ページに落ちた。
それでも、文字は残った。
声にならなかった記憶が、紙の上に残った。
*
まだ語れない。
でも、伝えたい。
その矛盾を抱えたまま、小百合は少しずつ前へ進んでいく。
あの日を知らない子どもたちの未来に、同じ悲しみを渡さないために。
次回予告
第36話「誰かを助けたい」
語れなかった小百合。
けれど、ノートに書いた言葉が防災担当の先生の目に留まる。
「これは、あなたにしか書けない言葉だよ」
話せなくても、書ける。
泣きながらでも、伝えられる。
小百合の中に、新しい願いが生まれる。
次回、
第36話「誰かを助けたい」




