高校生になった小百合
第33話
高校生になった小百合
あの大災害から、九年が過ぎた。
小百合は、高校に合格した。
合格通知を手にした日、彼女はしばらく何も言えなかった。
そして、隣にいた白田先生――今では小百合にとって本当の母である栄子に向かって、深く頭を下げた。
「お母さん」
「うん?」
「ありがとう」
栄子は一瞬、言葉を失った。
あの日、避難所で声を失っていた少女が。
泣くこともできず、食べることもできず、ただ座り込んでいた少女が。
今、自分の言葉で「ありがとう」と言っている。
栄子は笑おうとして、少し泣いた。
「小百合が、がんばったがよ」
「お母さんがいてくれたき」
小百合は、静かにそう言った。
*
仮設住宅での生活は終わり、二人は県が整備した災害復興住宅へ移り住んでいた。
小さくても、ちゃんとした家だった。
玄関。
台所。
小百合の部屋。
栄子の部屋。
壁には、家族の写真が飾られていた。
田中勝。
田中美紀。
田中悠斗。
浜口美波の描いた小百合の絵。
兄のグローブ。
タイガースのサインボール。
失ったものは戻らない。
けれど、忘れない形で、そこにあった。
*
栄子は、桂浜東小学校へ異動になっていた。
通勤には時間がかかるようになったため、小型車を買った。
「お母さん、車似合うね」
「ほんま?」
「うん。先生っていうより、戦う通勤戦士みたい」
「なんか強そうやね」
「強いお母さんやき」
小百合がそう言うと、栄子は照れたように笑った。
*
高校入学を前にしたある夜。
小百合は、栄子に将来の夢を話した。
「お母さん」
「うん」
「私、タイガースの球団職員になりたい」
栄子は、静かに小百合を見た。
「うん」
「選手になるんじゃなくて、球団を支える人になりたい」
小百合は、机の上に置かれたサインボールを見た。
「あの時、タイガースの人たちが私を励ましてくれた。声が出なかった私に、名前を呼んでくれた」
栄子はうなずいた。
「今度は、私が誰かを支える側になりたい」
小百合の声は、もう震えていなかった。
「海外から来る選手の通訳とか、インバウンドで来る海外のお客さんの対応とか。そういう仕事ができるようになりたい。だから、高校では英語をがんばる」
栄子は、少し驚いたように目を細めた。
「そこまで考えちゅうがやね」
「うん」
小百合は照れくさそうに笑った。
「昔は田中水産で働きたかった」
「うん」
「その夢は、もう叶わん。でも、夢がなくなったわけやない」
栄子の目に涙が浮かんだ。
小百合は続けた。
「お父さんも、お母さんも、兄ちゃんも、美波も……たぶん、私がちゃんと生きることを望んじゅうと思うき」
栄子は、もうこらえなかった。
静かに涙を流した。
「小百合」
「うん」
「お母さん、応援する」
小百合は笑った。
九年前、声を失った少女とは違う。
悲しみを抱えたまま、それでも未来を見ている少女の笑顔だった。
*
春。
高校の制服に袖を通した小百合は、鏡の前に立った。
少し背が伸びた。
表情も大人びた。
けれど、胸の奥には、あの日の九歳の自分がまだいる。
海を怖がる自分。
家族を呼び続ける自分。
美波の絵を抱いて泣いた自分。
その全部を連れて、小百合は高校生になる。
「行ってきます」
玄関でそう言うと、栄子が笑った。
「行ってらっしゃい、小百合」
小百合は一度、壁の写真を見た。
「行ってきます」
今度は、父と母と兄と美波にも向けて。
そして、前を向いてドアを開けた。
次回予告
第34話「防災を学ぶ理由」
高校生になった小百合。
彼女が選んだ学びの一つは、防災だった。
なぜ逃げなければならないのか。
なぜ情報が届かなかったのか。
なぜ助かった命のあとにも、命が失われたのか。
小百合は、あの日の記憶と向き合いながら、防災を学び始める。
次回、
第34話「防災を学ぶ理由」




