もう一度、桂浜へ
第32話
もう一度、桂浜へ
その朝、小百合は白田先生に言った。
「桂浜に……行ってみたい」
白田先生は、すぐには答えなかった。
怖いはずだった。
見たくないはずだった。
それでも、小百合は自分から言った。
「うん」
白田先生は、そっと小百合の手を握った。
「一緒に行こう」
*
桂浜へ向かう道は、まだ元通りではなかった。
ところどころに工事車両があり、壊れた建物の跡には更地が増えていた。青いシートも、折れた看板も、泥の跡も残っている。
小百合は何度も足を止めた。
そのたびに、白田先生は急かさず待った。
「大丈夫。戻ってもえいよ」
小百合は首を横に振った。
「行く」
声は小さかった。
でも、確かだった。
*
最初に向かったのは、田中水産があった場所だった。
父が働いていた場所。
母が笑っていた場所。
兄が作業着で箱を運んでいた場所。
小百合が、いつか自分も働きたいと夢見ていた場所。
もう工場はなかった。
鉄骨も流され、残っているのは、地面と瓦礫の跡だけだった。
小百合は、そこに立った。
長い間、何も言わなかった。
風が吹いた。
遠くで波の音がした。
小百合は、両手を合わせた。
「お父さん……お母さん……兄ちゃん……」
声が震えた。
「小百合、四年生になったよ」
白田先生は、隣で静かに聞いていた。
「今は……白田先生が、お母さんになってくれた」
小百合は涙をこらえながら続けた。
「仮設住宅に住んじゅう。仮設の学校にも行きゆう。まだ、怖いこといっぱいあるけど……」
言葉が詰まる。
白田先生が、そっと背中に手を添えた。
小百合は息を吸った。
「でも、生きちゅう」
その言葉を言えた瞬間、小百合の目から涙が落ちた。
「お父さん、お母さん、兄ちゃん……ごめんね。小百合だけ、生きちゅう」
白田先生は、首を横に振った。
でも、今は遮らなかった。
小百合が自分の言葉で話しているから。
「でも……お母さんが、生きてていいって言ってくれたき」
小百合は、白田先生を見た。
そしてまた、田中水産の跡へ向き直った。
「だから、もう少し、生きてみる」
*
白田先生も、両手を合わせた。
「田中勝さん、美紀さん、悠斗さん」
先生の声も震えていた。
「小百合を、責任を持って育てていきます」
小百合は先生を見上げた。
「本当のお母さんの代わりには、なれないかもしれません。でも、毎日ご飯を作って、学校へ送り出して、怖い夜はそばにいて……小百合が大人になるまで、ちゃんと守ります」
白田先生は深く頭を下げた。
「どうか、見守ってください」
小百合の涙は止まらなかった。
でも、その涙は以前のようにただ崩れるだけの涙ではなかった。
父と母と兄に、今の自分を伝える涙だった。
*
その後、小百合は少し離れた場所から海を見た。
まだ近づけない。
波打ち際までは行けない。
それでも、初めて正面から見た。
海は静かだった。
何も知らないような顔で、ただ広がっていた。
小百合は震えた。
白田先生の手を強く握った。
「怖い」
「うん」
「まだ、怖い」
「それでえい」
白田先生は言った。
「怖いままでも、見られたね」
小百合は、泣きながらうなずいた。
逃げ続けたくない。
でも、すぐに許せるわけではない。
大好きだった海。
すべてを奪った海。
その二つが、小百合の中でまだぶつかっていた。
*
帰り道、小百合は一度だけ振り返った。
田中水産があった場所。
そこにはもう、建物も声もない。
けれど、小百合は思った。
何もない場所ではない。
父がいた。
母がいた。
兄がいた。
自分の夢があった。
それは、流されても消えない。
小百合は白田先生の手を握り直した。
「お母さん」
「うん」
「また、来てもえい?」
白田先生は、やさしくうなずいた。
「もちろん」
小百合は小さく息を吐いた。
桂浜の風が、二人の背中をそっと押した。
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次回予告
第33話「高校生になった小百合」
時は流れ、小百合は高校生になる。
白田先生に支えられながら、少しずつ日常を取り戻していく小百合。
けれど、あの日の記憶は消えない。
防災を学ぶ理由。
タイガースへの想い。
家族と親友の記憶。
そして、彼女は未来へ向けて歩き始める。
次回、
第33話「高校生になった小百合」




