初めての涙
第31話
初めての涙
遠足を終えてから、小百合は少しだけ明るくなったように見えた。
保健室に行く日もある。
急に息が苦しくなる日もある。
音に体がすくむこともある。
それでも、学校へ行き、給食を少し食べ、友達に小さくうなずくことができるようになっていた。
白田先生は、それを急かさなかった。
「今日は行けたね」
「今日は食べられたね」
「今日は笑えたね」
ひとつひとつを、静かに受け止めてくれた。
*
けれど、夜は違った。
布団に入ると、記憶が戻ってくる。
地震の揺れ。
防災無線。
海の映像。
壊れた家。
鉄骨だけになった田中水産。
父と母と兄の名前。
美波のスケッチブック。
遠足で笑えた日の夜ほど、反動は大きかった。
その夜、小百合は突然、布団の中で震え出した。
「……いや」
白田先生がすぐに気づいた。
「小百合?」
「いや……いやや……」
小百合は両手で耳をふさいだ。
「お父さん……お母さん……兄ちゃん……」
声が震え、涙が一気にあふれた。
「なんで……なんで私だけ……」
白田先生は小百合を抱きしめた。
「うん」
「なんで私だけ助かったが……!」
「うん」
「お父さんも、お母さんも、兄ちゃんも、美波も……みんなおらんなったのに……!」
小百合は白田先生の胸を小さな拳で叩いた。
「私だけ生きちゅう! なんで! なんで!」
白田先生は受け止めた。
止めなかった。
叱らなかった。
ただ、抱きしめた。
「わからんよね」
先生の声は、とてもやさしかった。
「納得なんかできんよね」
「会いたい……!」
「うん」
「お母さんに会いたい! 美紀お母さんに会いたい! 兄ちゃんにからかわれたい! お父さんに頭なでてほしい!」
「うん。会いたいね」
小百合は声を上げて泣いた。
初めて、自分の悲しみをそのまま外へ出した。
*
白田先生は、何度も小百合の背中をさすった。
「小百合は悪くない」
小百合は泣きながら首を振った。
「でも……」
「悪くない」
「私だけ……」
「生きてていい」
白田先生は、小百合の顔を両手で包んだ。
「小百合は、生きてていい」
小百合は崩れるように先生にしがみついた。
「怖かった……」
「怖かったね」
「ずっと怖い……」
「うん。ずっと怖いよね」
「忘れたいのに、忘れられん……」
「忘れなくていい。急がなくていい」
白田先生は、ゆっくり言った。
「怖いままでも、悲しいままでも、お母さんが一緒にいる」
小百合は泣き続けた。
涙が止まらなかった。
でも、その涙は、心が少しずつ動き出した証でもあった。
*
小百合が泣き疲れて眠ったあと。
白田先生は、そっと布団をかけ直した。
小百合の頬には涙の跡が残っていた。
先生は、その寝顔をしばらく見つめた。
「よく泣けたね」
小さくつぶやいた。
そして、部屋を出た。
*
仮設住宅の外は、冷えていた。
白田先生は、誰にも聞こえないように、口元を押さえた。
そして、泣いた。
声を殺して。
両親を失ったこと。
夫を失ったこと。
自分の家が消えたこと。
それでも母になろうとしていること。
小百合の前では、泣けなかったこと。
全部が、一気に押し寄せた。
「私も……会いたい……」
白田先生は、夜空を見上げた。
小百合の前では、優しい母でいようと決めていた。
でも、先生もまた、深く傷ついた一人の人間だった。
*
しばらくして、白田先生は涙を拭いた。
部屋へ戻る。
小百合は眠っていた。
先生は、そっと隣に横になった。
小百合が無意識に手を伸ばす。
白田先生はその手を握った。
「いるよ」
小さな声で言った。
「お母さん、ここにいるよ」
小百合は眠ったまま、少しだけ安心したように息を吐いた。
初めての涙の夜。
小百合は、心の奥に閉じ込めていたものと、少しだけ向き合った。
そして白田先生もまた、見えない場所で、自分の悲しみと向き合っていた。
次回予告
第32話「もう一度、桂浜へ」
少しずつ涙を流せるようになった小百合。
けれど、まだ海を見ることはできない。
ある日、小百合は白田先生に言う。
「桂浜に……行ってみたい」
怖い。
見たくない。
でも、逃げ続けたくない。
父と母と兄がいた町。
美波と遊んだ浜。
小百合が走っていた海辺。
次回、
第32話「もう一度、桂浜へ」
少女は、奪われた海と向き合うために、一歩を踏み出す。




