海から離れた遠足後編
第30話
海から離れた遠足
四月の終わり。
仮設の教室に、少しだけ明るい空気が流れた。
「遠足の話、するよ」
担任の先生が黒板に大きく書いた。
――遠足
教室がざわつく。
久しぶりの行事。
少しだけ、子どもたちの顔に「普通の時間」が戻ってきた。
*
「行き先はね――」
先生はゆっくり言った。
「海じゃない場所です」
一瞬、教室が静かになった。
それは、先生なりの配慮だった。
海が怖くなってしまった子がいる。
海で家族を失った子がいる。
海の音を思い出すだけで、苦しくなる子がいる。
だから、海ではない場所。
山。
公園。
内陸の町。
「海に行かなくてもいい遠足」
その言葉に、小百合の肩の力がほんの少し抜けた。
*
遠足当日。
小百合はリュックを背負って、白田先生と一緒に家を出た。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
声は小さい。
でも、ちゃんとしたやり取りだった。
白田先生は、小百合の背中を軽く押した。
「楽しんできてね」
小百合はうなずいた。
*
集合場所には、同級生たちがいた。
まだ少しぎこちない空気。
以前のように騒ぐことはない。
でも、誰もが少しずつ、外へ出ようとしていた。
「小百合」
声をかけてきたのは、陽菜だった。
「一緒に行こ」
小百合は少し驚いて、それから小さくうなずいた。
「……うん」
*
バスに乗る。
内陸へ向かう道。
海の見えない道。
山の緑が広がる景色。
小百合は窓の外を見ていた。
揺れは怖くなかった。
むしろ、前へ進んでいる感じがした。
*
到着したのは、小さな山の公園だった。
広い芝生。
遊具。
木々の間を抜ける風。
遠くに見える町並み。
海は見えなかった。
それだけで、小百合は少し安心した。
「お弁当、ここで食べるよー」
先生の声。
子どもたちがシートを広げる。
小百合は、白田先生が作ってくれたお弁当を取り出した。
少しずつ、丁寧に詰められたもの。
母の味とは違う。
でも、ちゃんと“お弁当”だった。
*
「いただきます」
小百合は小さく言った。
陽菜が隣で笑う。
「おいしそうやね」
小百合は少し照れたようにうなずいた。
ひと口。
もうひと口。
ゆっくり食べる。
その時だった。
風が強く吹いた。
ビニールがカサカサと鳴る。
木が揺れる音。
遠くで何かが倒れる音。
――ガタン
その瞬間、小百合の体が固まった。
呼吸が止まる。
音が重なる。
揺れの記憶。
崩れる音。
叫び声。
「……っ」
箸が落ちた。
「小百合!」
陽菜がすぐに気づいた。
小百合は、目を見開いたまま動けなかった。
先生が駆け寄る。
「大丈夫、大丈夫」
やさしい声。
「ここは揺れてない。大丈夫」
小百合は息を吸おうとした。
うまくできない。
でも、陽菜が手を握った。
「小百合、ここやき」
その言葉に、小百合の目が少し動いた。
ここ。
山の上。
公園。
揺れていない場所。
ゆっくり、息を吸う。
吐く。
また吸う。
*
しばらくして、小百合は落ち着いた。
「……ごめん」
小さな声。
陽菜は首を振った。
「謝らんでえいよ」
先生もやさしく言った。
「怖かったね。でも、ちゃんと戻ってこれたね」
小百合は、少しだけうなずいた。
*
午後。
子どもたちは遊具で遊び始めた。
最初は遠くから見ていた小百合。
でも、陽菜が手を引いた。
「ちょっとだけ行こ」
小百合は迷った。
でも、一歩踏み出した。
ブランコ。
ゆっくり揺れる。
最初は怖かった。
でも、揺れは穏やかだった。
空が見える。
風がやさしい。
小百合の口元が、ほんの少し動いた。
笑ったのかもしれない。
*
帰りのバス。
小百合は窓の外を見ていた。
山の景色。
遠くの町。
夕焼け。
海は見えない。
でも、小百合は思った。
外の世界は、まだ怖い。
でも、全部が怖いわけじゃない。
安心できる場所もある。
笑える瞬間も、少しだけある。
*
家に帰ると、白田先生が待っていた。
「どうやった?」
小百合は、少し考えてから言った。
「……怖かった」
「うん」
「でも……ちょっとだけ、楽しかった」
白田先生は微笑んだ。
「それで十分」
小百合は、ほんの少しだけ笑った。
声の代わりの笑顔。
それはまだ小さい。
でも、確かに前へ進んでいた。
⸻
次回予告
第31話「初めての涙」
遠足を終えた小百合。
少しずつ前に進んでいるように見えた。
けれど、その夜。
押さえていた感情が、突然あふれ出す。
止まらない涙。
崩れる心。
「どうして私だけ」
初めて、自分の気持ちをぶつける夜。
次回、
第31話「初めての涙」
小百合は、心の奥に閉じ込めていたものと向き合う。




