にいちゃんと走った防波堤
第3話
兄ちゃんと走った防波堤
田中家の夜は、時々、甲子園になる。
「打てー! そこや、そこ!」
テレビの前で、田中小百合は立ち上がっていた。
小学三年生にして、無類の阪神タイガースファン。
きっかけは父の勝だった。
高知県出身の藤川選手が、かつてタイガースの守護神として活躍していたこと。高知県安芸市でタイガースのキャンプが行われること。そんな話を父から聞くうちに、小百合の心には、いつの間にか黄色と黒の縦じまが住みついていた。
「小百合、座って見いや。ご飯こぼすで」
母の美紀が呆れたように言う。
「今それどころやない! チャンスなが!」
兄の悠斗は、茶碗を持ったまま笑った。
「家の中に甲子園できちゅうやん」
「うちは応援団長やき!」
「声だけはライトスタンド級やな」
「兄ちゃん、うるさい!」
その瞬間、テレビの中で打球が外野へ抜けた。
「やったああああ!」
小百合は跳び上がった。
美紀もつられて手を叩く。
「入った! 点入った!」
勝は静かに箸を置き、低い声で言った。
「よし」
その一言だけなのに、父の目は完全に笑っていた。
悠斗が笑いながら言う。
「ほんま、タイガースが点取っただけで祭りやな」
「当たり前やき! 高知とタイガースはつながっちゅうが!」
「また始まった」
「藤川さんは高知の誇りながで!」
「小百合、何回目やその話」
「大事なことは何回でも言うが!」
勝が少しだけうなずいた。
「それは正しい」
「お父さんも乗らんでえい」
悠斗が苦笑いする。
小百合はテレビに向かって、両手を口に添えた。
「次も打てー! 遠慮せんと全部打てー!」
「近所迷惑やき、少し声落としなさい!」
美紀が言っても、小百合の声は少しも小さくならなかった。
家族四人の笑い声が、潮の匂いのする台所いっぱいに広がった。
*
翌朝。
小百合は港近くの水産加工会社へ向かっていた。
昨日のタイガース勝利の余韻で、足取りはいつも以上に軽い。
「六甲おろしにー」
小さく歌いながら歩いていると、作業着姿の悠斗が会社の前にいた。
「朝からうるさい」
「兄ちゃん、おはよう!」
「おはよう。昨日の続きか」
「勝った翌朝は歌うもんやき」
「誰が決めたが」
「うち」
「権力強いな」
悠斗は高校を卒業して、この春から父と母と同じ水産加工会社で働き始めた。
まだ慣れないことも多いらしく、時々、疲れた顔をしている。けれど小百合から見れば、作業着を着て港に立つ兄はとても大人に見えた。
父と同じ場所で働く兄。
母と同じ朝を過ごす兄。
その背中を見るたびに、小百合の胸には同じ夢が膨らんだ。
「うちも、大きくなったらここで働く」
悠斗は箱を持ち上げながら、ちらっと小百合を見た。
「また言いゆう」
「本気やき」
「魚重いぞ」
「持てる」
「朝早いぞ」
「起きる」
「冬は寒いぞ」
「厚着する」
「手、冷たいぞ」
「気合いで温める」
悠斗は笑った。
「気合いでどうにもならんこともある」
「兄ちゃんはどうしゆうが?」
「我慢」
「ほら、気合いやん!」
「違う」
小百合は会社の中をのぞいた。
魚の入った箱が積まれ、氷が白く光り、機械の音が低く響いている。大人たちが忙しそうに動き、魚を仕分け、運び、出荷の準備をしていた。
そこにいる父の勝は、いつも家で見る父より大きく見えた。
母の美紀は、近所で笑っている時と同じように明るく声をかけながらも、手元の仕事は驚くほど早かった。
そして悠斗も、その中にいた。
小百合は、少し誇らしかった。
「兄ちゃん、かっこえいね」
ぽつりと言うと、悠斗は箱を落としそうになった。
「は?」
「作業着、似合う」
「急に何言いゆうが」
「ほんまのことやき」
「やめろ。気持ち悪い」
「褒めたのに!」
悠斗は照れ隠しのように、小百合の額を指で軽く弾いた。
「おまえはまず、宿題と漢字をちゃんとやれ」
「兄ちゃん、夢がない」
「夢を見るにも足元がいるがや」
その言葉は、いつものからかいとは少し違って聞こえた。
小百合は悠斗を見上げた。
「兄ちゃん、大人みたい」
「働きゆうきな」
「うちも早く大人になりたい」
「焦らんでえい」
「なんで?」
「子どもでおれる時間は、短いき」
悠斗はそう言って、すぐにそっぽを向いた。
小百合には、その意味がまだよくわからなかった。
ただ、兄が少し遠くへ行ったような気がして、胸の奥が小さくざわついた。
*
その日の夕方。
仕事を終えた悠斗は、家へ帰る途中で小百合を見つけた。
小百合は防波堤の近くで、浜口美波と一緒に貝殻を並べていた。
「小百合」
「あ、兄ちゃん!」
小百合はぱっと顔を上げた。
「何しゆうが」
「美波と貝殻屋さん」
「誰が買うが」
「心のきれいな人」
「商売にならんな」
美波がくすっと笑った。
「悠斗兄ちゃん、ひどい」
「ほんまのことや」
小百合は立ち上がり、悠斗の周りをぐるっと回った。
「兄ちゃん、今日はもう仕事終わり?」
「終わり」
「疲れた?」
「まあまあ」
「ほいたら、勝負しよう!」
「なんでそうなる」
「疲れた時こそ走るがや!」
「おまえの理論はだいたい雑や」
小百合は防波堤を指差した。
「端っこまで競争!」
「危ないき、やめとけ」
「昔は兄ちゃん、走ってくれたやん」
「昔は昔。今は俺も大人や」
「大人は逃げるが?」
悠斗の眉が動いた。
「言うたな」
「言うた!」
「負けても泣くなよ」
「泣かん!」
美波が心配そうに言った。
「小百合ちゃん、転ばんようにね」
「大丈夫!」
「小百合ちゃんの大丈夫は信用ならん」
「美波まで!」
悠斗は靴ひもを結び直した。
「防波堤の上は走らん。横の道や。海側には近づくな」
「わかっちゅう」
「ほんまか」
「ほんま!」
兄妹は並んだ。
海は夕日を受けて金色に光っていた。
波は静かだった。
美波が手を上げる。
「よーい……どん!」
小百合は飛び出した。
悠斗も走る。
兄の背中は、やはり速かった。
小さい頃、小百合にとって悠斗の背中は、どれだけ走っても届かない場所にあった。追いかけても追いかけても離されて、悔しくて泣いたこともある。
でも今は違う。
まだ届かない。
でも、前より近い。
小百合は必死に足を動かした。
「兄ちゃん、待ちいや!」
「勝負で待つやつがおるか!」
「おる! 優しい兄ちゃん!」
「俺は優しくない!」
「嘘や!」
悠斗が笑った。
小百合も笑った。
笑いながら走った。
風が顔に当たる。
海の匂いがする。
夕日の光が目に入る。
防波堤の先、港の方でカモメが鳴いた。
あと少し。
あと少しで、悠斗の背中に追いつく。
小百合は最後の力を振り絞った。
「うおおおお!」
「声で走るな!」
悠斗が振り向いた瞬間、小百合の足が小さな石につまずいた。
「あっ」
体が前へ傾く。
地面が近づく。
転ぶ。
そう思った瞬間、悠斗の腕が伸びた。
けれど間に合わず、小百合は両手をついて転んだ。
「いたっ……!」
「小百合!」
悠斗がすぐに駆け寄った。
美波も走ってくる。
「小百合ちゃん!」
膝から血がにじんでいた。
手のひらにも小さな擦り傷がある。
小百合は唇を噛んだ。
泣きたくない。
兄の前では泣きたくない。
でも痛い。
「……泣いてない」
「まだ何も言うてない」
悠斗はしゃがみ込み、小百合の膝を見た。
「派手にやったな」
「ちょっとだけ」
「ちょっとやない」
「勝負は?」
「中止」
「えー!」
「えーやない。怪我したら終わり」
「兄ちゃんが勝ち逃げした!」
「この状態でまだ勝負の話するがか」
悠斗は呆れながらも、小百合の手を取った。
「立てるか」
「立てる」
小百合は立とうとしたが、膝が痛んで顔をしかめた。
悠斗はため息をついた。
「ほら」
そう言って、小百合の前に背中を向けた。
「え?」
「おぶっちゃる」
「ええ! 小学生やで!」
「小学三年生やろ。まだ軽い」
「軽くない!」
「重いがか?」
「軽い!」
「ほいたら乗れ」
小百合は少し迷った。
美波がにこにこしながら見ている。
「小百合ちゃん、えいね」
「美波、笑わんとって」
「笑ってないよ」
「笑いゆう!」
小百合は恥ずかしそうにしながらも、悠斗の背中に乗った。
兄の背中は、昔より大きかった。
作業着からは、魚と汗と潮の匂いがした。
小百合はその匂いを、嫌だとは思わなかった。
むしろ、安心した。
「兄ちゃん」
「なんや」
「うち、重くない?」
「まあまあ」
「そこは軽いって言うところやろ」
「嘘はよくない」
「ひどい!」
悠斗は笑いながら歩き出した。
夕暮れの防波堤沿いを、兄が妹をおぶって歩く。
美波は二人の後ろを歩きながら、その光景をじっと見ていた。
「絵にしたいなあ」
「描かんでえい!」
小百合が叫ぶ。
「描く」
「美波!」
悠斗が言った。
「描いちゃれ。タイトルは『走って転んだタイガース娘』」
「兄ちゃん!」
「えいタイトルやろ」
「全然よくない!」
小百合は怒ったふりをした。
でも本当は、少し嬉しかった。
*
家へ帰ると、美紀が玄関で声を上げた。
「小百合! また膝!」
「今日は兄ちゃんのせい!」
「なんで俺のせいや」
「兄ちゃんが速いき!」
「それはおまえが転んだ理由にならん」
勝も奥から出てきた。
小百合の膝を見て、眉をひそめる。
「防波堤で走ったがか」
悠斗がすぐに言った。
「横の道。海側には近づけてない」
勝は悠斗を見た。
そして小百合を見る。
「怪我で済んだからえい。海の近くでは、ふざけすぎるな」
「はい……」
小百合は素直にうなずいた。
父の声には怒りだけでなく、心配が混じっていた。
美紀は救急箱を持ってきて、小百合の膝を消毒した。
「痛い!」
「我慢しなさい」
「しみる!」
「カニに挟まれるよりましやろ」
「どっちも嫌!」
悠斗が横で笑う。
「おまえ、ほんま毎日忙しいな」
「兄ちゃんも笑うな!」
「元気な証拠や」
「お母さんと同じこと言いゆう」
美紀が絆創膏を貼りながら言った。
「小百合」
「なに?」
「走るのはえい。元気なのもえい。でも、危ない場所では自分の命を一番大事にしなさい」
小百合は黙った。
勝も静かに言った。
「命はな、走って取り戻せるもんやない」
その言葉は少し重かった。
小百合には、まだ全部はわからなかった。
でも父の顔が真剣だったので、ちゃんとうなずいた。
「うん。気をつける」
悠斗が小百合の頭に手を置いた。
「ほら、タイガース始まるぞ」
小百合の顔がぱっと明るくなる。
「ほんま!?」
「今日は負けたら、おまえの転倒のせいやな」
「なんで!」
「縁起が悪い」
「うちが応援したら勝つ!」
「ほいたら、ちゃんと座って応援しろ」
「それは無理!」
「無理ながか」
その夜も、田中家はにぎやかだった。
テレビの前で小百合は声を張り上げ、美紀は洗い物をしながら笑い、勝は静かに試合を見つめ、悠斗は小百合にツッコミを入れ続けた。
タイガースがチャンスを迎えると、小百合は立ち上がる。
「打てー! ここで打ったらヒーローやき!」
「小百合、座れ」
「無理!」
「膝怪我しちゅうろ」
「応援に膝は関係ない!」
悠斗が呆れて言った。
「ほんま、家の中に甲子園あるみたいや」
小百合は胸を張った。
「田中家甲子園やき!」
「近所から苦情来るぞ」
「来たら一緒に応援してもらう!」
勝が珍しく笑った。
美紀も笑った。
悠斗も笑った。
小百合は、その笑い声の真ん中にいた。
父がいる。
母がいる。
兄がいる。
テレビの中にはタイガースがいて、窓の外には海がある。
痛む膝も、からかわれる声も、夕暮れの防波堤も、兄の背中の匂いも。
全部が、今の小百合の世界だった。
*
寝る前、小百合は布団の中で膝の絆創膏を見た。
また傷が増えた。
母には怒られた。
父には静かに注意された。
兄にはからかわれた。
でも、今日の傷は少しだけ特別だった。
兄と走った防波堤の傷。
兄の背中におぶられて帰った傷。
いつか大きくなった時、きっと思い出す傷。
小百合は目を閉じた。
「うちも、兄ちゃんみたいに働くがやき……」
小さくつぶやいた。
窓の外では、土佐湾の波が静かに鳴っていた。
それは、今日の田中家のにぎやかさとは対照的なくらい、穏やかな音だった。
小百合は知らなかった。
何でもない一日ほど、あとになって何度も思い出すものになることを。
兄にからかわれた声も。
父に叱られた言葉も。
母に貼ってもらった絆創膏も。
テレビの前で叫んだタイガースへの応援も。
そのすべてが、いつか胸の奥で、二度と戻らない光になることを。
⸻
次回予告
第4話「親友・美波との秘密基地」
小百合にとって、浜口美波は特別な友達だった。
走ることが好きな小百合。
絵を描くことが好きな美波。
性格は正反対。
でも、二人でいると不思議と落ち着いた。
防波堤の陰に作った小さな秘密基地。
貝殻、流木、割れた浮き球。
美波のスケッチブックには、海と小百合の笑顔が少しずつ増えていく。
美波は言う。
「うち、いつか小百合ちゃんのこと、ちゃんと絵に描きたい」
小百合は笑って答える。
「ほいたら、世界一かっこよく描いてよ!」
何気ない約束。
子ども同士の小さな夢。
けれど、その秘密基地は、二人にとってかけがえのない場所になっていく。
次回、
第4話「親友・美波との秘密基地」
海辺の小さな空き地で、二人だけの宝物が増えていく。




