本当に女の子かと言われた日
第2話
本当に女の子かと言われた日
朝から、小百合は全力だった。
坂道を駆け下り、砂浜を走り、岩場を跳び、潮だまりをのぞき込み、カニを見つけるたびに叫ぶ。
「おった! 今度こそ捕まえるき!」
その声は、桂浜の風に乗って、海の向こうまで飛んでいきそうだった。
浜口美波は、スケッチブックを抱えたまま、小百合の後ろをゆっくり歩いていた。
「小百合ちゃん、今日も元気やねえ」
「元気しか取り柄ないき!」
「そんなことないよ」
「え?」
「小百合ちゃんは、笑うたら周りも明るうなる」
そう言われて、小百合は少し照れた。
「美波は、急にそういうこと言うき困る」
「ほんまのことやもん」
美波はにこっと笑った。
小百合は返事に困って、わざと岩場へ駆け出した。
「隆兄ちゃん! 勝負!」
山下隆は、防波堤の上で腕を組んでいた。
小学五年生の隆は、小百合より背が高く、足も速い。いつも少し偉そうで、小百合を子ども扱いする。小百合はそれが悔しくて、何度も勝負を挑んでいた。
「またか」
「またや!」
「昨日も負けたろ」
「昨日は靴が砂に取られただけ!」
「言い訳が多いなあ」
「今日は勝つ!」
小百合は防波堤の端に立った。
隆も隣に並ぶ。
海風が二人の間を吹き抜けた。
小百合はちらっと隆を見た。
日に焼けた横顔。少し乱れた髪。余裕そうな目。
なぜだろう。
いつもなら「絶対負かす」と思うだけなのに、その日は少しだけ胸が変な感じになった。
苦しいわけではない。
嫌な感じでもない。
ただ、心臓がいつもより元気に跳ねている。
「どうした、小百合。怖いがか?」
「怖うない!」
「ほいたら、いくぞ」
「うん!」
美波が少し離れたところで手を上げた。
「よーい……どん!」
二人は同時に走り出した。
防波堤の上を、風を切って走る。
小百合は必死だった。
足を前へ出す。腕を振る。隆の背中を見る。追いつきたい。追い越したい。
けれど、隆は速かった。
あと少し。
あと少しで肩に並ぶ。
そう思った瞬間、小百合の足がわずかに滑った。
「わっ!」
体が横に傾く。
海側へ落ちそうになった、その時。
隆が振り向き、小百合の腕をつかんだ。
「危ない!」
ぐいっと引っ張られ、小百合は隆の胸にぶつかるようにして止まった。
ほんの一瞬、波の音が遠くなった。
小百合の耳には、自分の心臓の音だけが聞こえた。
どきん。
どきん。
どきん。
「おまえ、何しゆうが」
隆は少し怒った顔をしていた。
「ご、ごめん」
「勝負に夢中になりすぎや。落ちたらどうする」
「うん……」
小百合は珍しく素直にうなずいた。
隆の手は、まだ小百合の腕をつかんでいた。
強くて、あたたかい手だった。
小百合は急に恥ずかしくなり、慌てて腕を引いた。
「もう大丈夫やき!」
「ほんまか?」
「ほんま!」
隆は小百合の顔を見て、少し笑った。
「顔、赤いぞ」
「走ったき!」
「ふうん」
「なにその顔!」
「別に」
隆が笑う。
小百合は腹が立った。
でも、なぜか胸の奥がふわふわした。
*
昼前、子どもたちは秘密基地に集まっていた。
大翔は釣り竿を修理している。
陽菜は貝殻を並べ直している。
蓮は潮の満ち引きを書いた紙に、何かを付け足していた。
美波は小百合と隆が防波堤を走っている絵を描いていた。
「美波、それ何?」
「今日の小百合ちゃん」
小百合はスケッチブックをのぞき込んだ。
そこには、防波堤の上を走る小百合が描かれていた。髪を風になびかせ、腕を振り、まっすぐ前を向いている。
隣には隆もいた。
小百合は思わず顔を近づけた。
「うち、こんな顔しちゅう?」
「うん。走りゆう時の小百合ちゃん、すごくえい顔しちゅう」
「ほんま?」
「うん」
大翔が横からのぞいて言った。
「男の子みたいやな」
「はあ?」
小百合の眉が跳ね上がった。
陽菜が慌てる。
「大翔、それ言うたら怒るで」
「だってほんまやん。小百合、走るし、カニ捕るし、魚釣るし、けんか強いし」
「それがなんなが!」
「ほんまに女の子か?」
その一言に、周りが少し静かになった。
いつもなら、小百合はすぐ言い返す。
女の子やき。
走るのが好きなだけやき。
カニ捕って何が悪いが。
そう言うはずだった。
けれどその日は、なぜか言葉が出るまでに少し時間がかかった。
朝、隆に腕をつかまれた時のことを思い出したからだった。
顔が熱くなったこと。
心臓が変な音を立てたこと。
隆に「危ない」と言われて、少し嬉しかったこと。
それを思い出すと、いつものように大声で怒れなかった。
「……女の子やもん」
小百合は小さく言った。
大翔が目を丸くした。
「え?」
「うちは、女の子やもん」
その声は、いつもの小百合にしてはずいぶん小さかった。
美波がそっと小百合の横に座った。
「うん。小百合ちゃんは女の子や」
陽菜も言った。
「元気な女の子やね」
蓮がぼそっとつぶやいた。
「カニに勝てない女の子」
「蓮!」
小百合が叫ぶと、秘密基地に笑いが戻った。
大翔も頭をかいた。
「悪かったって。別にからかっただけやき」
「からかい方が悪い!」
「ごめん」
「次言うたら、潮だまりに沈める」
「それは怖い」
隆は少し離れたところで、そのやり取りを見ていた。
そして大翔に言った。
「小百合は女の子やろ」
小百合は振り向いた。
隆は何でもない顔をしていた。
「足は速いし、声はでかいし、カニには負けるけど」
「最後いらん!」
「けど、女の子や」
小百合はまた顔が熱くなるのを感じた。
なんで隆兄ちゃんに言われると、こんなに落ち着かなくなるがやろう。
胸の中に、小さな魚が入り込んで跳ねているみたいだった。
*
夕方、小百合と美波は並んで坂道を上っていた。
空は薄い橙色に染まり、海は一日の終わりを映して静かに光っていた。
美波が言った。
「小百合ちゃん、今日ちょっと元気なかった?」
「え? うちが?」
「うん。大翔くんに言われた時」
「別に……」
小百合は石ころを蹴った。
ころころと坂道を転がり、道端の草にぶつかって止まった。
「うちは、女の子っぽくないがかな」
美波は少し考えた。
「女の子っぽいって、何ながやろうね」
「え?」
「静かにしちゅうこと? 走らんこと? カニ捕らんこと?」
「……わからん」
「うちは、小百合ちゃんみたいな女の子、好きやけど」
小百合は美波を見た。
「ほんま?」
「ほんま。小百合ちゃんが走りゆうと、風みたいやもん」
「風?」
「うん。見よったら、こっちまで楽しくなる」
小百合は少し笑った。
「美波は、ほんまに急にえいこと言う」
「えいことしか言わんき」
「それ自分で言う?」
二人は笑った。
その時、後ろから声がした。
「小百合!」
振り返ると、隆が走ってきた。
「これ、忘れちょったぞ」
隆が差し出したのは、小百合の虫取り網だった。
「あっ」
「秘密基地に置きっぱなし」
「ありがとう」
「明日も来るが?」
「行く」
「ほいたら、明日は防波堤の競争、最後まで走れよ」
「今度は勝つき」
「言うなあ」
隆は笑った。
夕日の中で、その笑顔が少しまぶしく見えた。
小百合は虫取り網を握りしめた。
胸が、また少し跳ねた。
「隆兄ちゃん」
「ん?」
「うち、女の子に見える?」
聞いた瞬間、自分でも驚いた。
美波も目を丸くしている。
隆は少し考えてから、当たり前のように言った。
「見える」
「ほんま?」
「当たり前やろ」
「でも、走るし、カニ捕るし、魚釣るし」
「それと女の子は関係ないろ」
小百合は黙った。
隆は少し照れくさそうに海の方を見た。
「小百合は小百合やき」
その言葉は、風に混じって小百合の胸に届いた。
小百合はうまく返事ができなかった。
ただ、虫取り網をぎゅっと握った。
「……うん」
隆は手を振って帰っていった。
美波がにやっと笑う。
「小百合ちゃん」
「なに」
「顔、赤い」
「夕日のせいやき!」
「ふうん」
「ほんまやき!」
小百合は慌てて坂道を駆け上がった。
美波の笑い声が後ろから追いかけてくる。
*
その夜。
田中家の食卓で、小百合はいつもより少し静かだった。
母の美紀がすぐに気づく。
「小百合、どうしたが? 熱でもある?」
「ない」
兄の悠斗が言う。
「カニにまた負けたか」
「今日はカニやない」
「ほう。じゃあ何に負けた」
「負けてない!」
父の勝が静かに味噌汁を飲んでいた。
美紀が笑いながら聞く。
「学校で何かあった?」
「学校やない。浜」
「浜で?」
小百合は箸を持ったまま、少し考えた。
「お母さん」
「うん?」
「うち、女の子っぽくない?」
美紀の手が止まった。
悠斗も小百合を見た。
勝も、黙って顔を上げた。
美紀はすぐには答えなかった。
それから、やさしく笑った。
「小百合は、ちゃんと女の子よ」
「ほんま?」
「ほんま。元気で、よう走って、よう笑って、よう怒って、よう食べる女の子」
「最後、いる?」
「いる」
悠斗が言った。
「まあ、おまえは女の子やろ」
「兄ちゃんまで?」
「ただし、声は俺よりでかい」
「それは認める」
勝がぽつりと言った。
「小百合は、小百合でえい」
小百合は父を見た。
昼間、隆が言った言葉と少し似ていた。
小百合は胸の奥があたたかくなるのを感じた。
「うん」
その夜、布団に入った小百合は、なかなか眠れなかった。
隆に腕をつかまれたこと。
隆が「小百合は女の子やろ」と言ってくれたこと。
そして、「小百合は小百合やき」と言ってくれたこと。
何度も思い出してしまう。
これは何なのだろう。
うれしい。
でも、少し恥ずかしい。
楽しい。
でも、胸が落ち着かない。
恋、という言葉を小百合はまだよく知らなかった。
けれど、隆と一緒にいると嬉しい。
隆にからかわれると腹が立つ。
隆に認められると、なぜか一日中、心がふわふわする。
小百合は布団を頭までかぶった。
「……うちは、ちゃんと女の子やもん」
小さな声でそう言った。
窓の外では、今日も海が静かに鳴っていた。
波の音は、まるで小百合の秘密を知っているみたいに、やさしく寄せては返していた。
⸻
次回予告
第3話「兄ちゃんと走った防波堤」
小百合にとって、兄の悠斗は一番身近なヒーローだった。
ちょっと意地悪で、すぐからかってくる。
けれど、本当は誰より小百合を見てくれている。
水産加工会社に就職したばかりの悠斗。
父や母と同じ場所で働き始めた兄の背中を見て、小百合はますます思う。
「うちも、いつかここで働きたい」
そんなある日、兄妹は夕暮れの防波堤で競争する。
昔は遠かった兄の背中。
でも今は、少しだけ近づいている気がした。
走って、笑って、転んで、怒られて。
何でもない一日が、かけがえのない記憶になっていく。
次回、
第3話「兄ちゃんと走った防波堤」
小百合の大好きな兄ちゃんとの、忘れられない夕暮れ。




