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海の声が聞こえなくても・土讃線が止まった秋  作者: リンダ


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桂浜の風を追いかけて

■田中家(確定)


* 田中 小百合さゆり

 主人公/小学3年生

 海と坂道を全力で駆ける女の子

* 父:田中 まさる

 水産加工会社勤務

 無口で不器用だが家族思い

 口癖:「海はな、優しい顔ばっかりやないき」

* 母:田中 美紀みき

 明るくよく笑う家庭の中心

* 兄:田中 悠斗ゆうと

 18歳/就職したて

 妹には甘い兄貴



■親友・同級生


* 浜口 美波みなみ

 親友。おっとり系で絵が得意

* 岡村 大翔ひろと

 元気系男子。釣り好き

* 西野 陽菜ひな

 しっかり者の女子

* 松本 れん

 無口な“海の知識担当”



■近所の子どもたち


* 山下 たかし〈小5〉

 兄貴分。防波堤ジャンプの名人

* 中原 さくら〈小2〉

 小百合に憧れる妹分



■地域の大人(確定)


* 浜口 雄介ゆうすけ〈美波の父〉

 漁師

 口数は少ないが、海を誰より知っている

 小百合にもさりげなく目をかけている

* 浜口 直子なおこ〈美波の母〉

 世話焼きで温かい

 小百合を“もう一人の娘”のように扱う

* 佐伯さえき みのる

 元漁師/現在は船の修理や網の手入れ

 子どもたちに海の怖さと向き合い方を教える存在






第1話


桂浜の風を追いかけて


 高知市、桂浜の近く。


 朝の土佐湾は、まるで大きな生き物が眠っているように穏やかだった。


 水平線の向こうから差し込む光が、海の表面を銀色に揺らしている。波は高くも荒くもなく、ただ浜へ寄せては、そっと砂を撫で、また静かに沖へ帰っていく。


 潮の匂いを含んだ風が、海辺の集落へ流れ込む。


 坂道の多い町だった。


 家々は斜面に沿うように並び、細い道の向こうに、いつも海が見えた。洗濯物が風に揺れ、どこかの家から味噌汁の匂いが漂い、遠くでは港へ向かう軽トラックの音が聞こえていた。


 その坂道を、一人の少女が全力で駆け下りていた。


「待ちいやー! 隆兄ちゃん、ずるいちや!」


 田中小百合。


 小学三年生。


 日に焼けた頬。風に跳ねる短めの髪。すり傷の絶えない膝。服はいつも動きやすいものばかりで、スカートより短パン、リボンより虫取り網、上品なお人形遊びより、岩場のカニ捕りの方がずっと好きだった。


 近所のおばちゃんたちは、よく笑いながら言った。


「小百合ちゃんは、ほんまに女の子かえ?」


 そのたびに、小百合は胸を張って答える。


「女の子やき! けんど、走るんが好きなだけや!」


 その答え方があまりにも堂々としているので、大人たちはいつも負けたように笑うのだった。


 小百合の前を走っているのは、近所に住む小学五年生、山下隆だった。


 隆は小百合より二つ年上で、防波堤をひょいひょい歩くのが得意だった。細い体なのに足が速く、木登りも上手い。小百合にとっては、少し憎たらしく、少し頼もしく、そして絶対に追い越したい相手だった。


「遅いぞ、小百合!」


「遅うない! 隆兄ちゃんが先に走っただけやろ!」


「それを世の中では遅い言うがや」


「言わん!」


 小百合はさらに足を速めた。


 後ろからは、息を切らした声が追いかけてくる。


「小百合ちゃん……待ってえ……うち、もう足が笑いゆう……」


 浜口美波だった。


 小百合の親友で、同じ小学三年生。小百合とは正反対の女の子だった。走るより歩く方が好きで、海に入るより、海を眺めて絵を描く方が好き。声もやわらかく、怒る時でさえ、どこか困ったような顔をする。


 でも小百合にとって、美波は誰より大切な友達だった。


「美波、がんばりや! 今日こそ大きいカニ見つけるがやき!」


「小百合ちゃん、大きいらカニいうても、挟まれたら泣くやん」


「泣かん!」


「この前泣いたやん」


「泣いてない! 目から海水が出ただけ!」


 美波は走りながら吹き出した。


「それ、泣いちゅうがよ」


 坂を下りきると、目の前に海が開けた。


 土佐湾。


 広くて、大きくて、毎日見ているのに、毎朝少し違う顔をする海。


 小百合は、この海が好きだった。


 学校へ行く前に見える海。遊び場の海。父や母や兄が働く港へ続く海。夕方になると赤く光る海。雨の日には灰色になり、晴れた日には空の青さを全部抱え込む海。


 小百合にとって海は、景色ではなかった。


 家族みたいなものだった。


 浜辺の岩場には、すでに岡村大翔がいた。釣り竿を持って、妙に得意そうな顔をしている。


「おーい、小百合! 今日は俺が先に来たき!」


「で、釣れたが?」


「……まだや」


「釣れてないやん!」


「今から釣れるがや!」


 小百合が笑うと、大翔はむきになって釣り糸を海へ投げた。


 その横では、西野陽菜が小さなバケツを持って立っていた。陽菜はしっかり者で、学校では先生の手伝いをよくしている。けれど、遊ぶ時は意外と全力で、小百合に負けず劣らず泥だらけになることもあった。


「小百合ちゃん、今日はカニ捕るが? 魚釣るが?」


「どっちも!」


「欲張りやねえ」


「人生は欲張らんと損やき!」


「誰に教わったが、それ」


「兄ちゃん!」


 陽菜は納得したようにうなずいた。


「悠斗兄ちゃんなら言いそう」


 少し離れた岩の上では、松本蓮が黙って海を見ていた。


 蓮はあまりしゃべらない。けれど、海の生き物には誰より詳しかった。小さな貝の名前も、潮だまりにいる魚の習性も、どの岩の下にカニが隠れやすいかも知っている。


 小百合は蓮の横へ駆け寄った。


「蓮、今日どこにカニおる?」


 蓮は黙って岩場を指さした。


「あそこ。けど、手ぇ入れる時、気ぃつけて」


「なんで?」


「大きいのがおる」


「よっしゃ!」


 小百合の目が輝いた。


 美波が慌てて止める。


「小百合ちゃん、気ぃつけてよ」


「大丈夫、大丈夫!」


「小百合ちゃんの大丈夫は、だいたい大丈夫やない」


 隆が岩の上から笑った。


「ほいたら、俺が先に捕るぞ」


「だめ! うちが捕る!」


 小百合は潮だまりのそばにしゃがみ込み、岩の隙間をのぞいた。そこには、確かに赤茶色の大きなカニがいた。


 そろり、そろりと手を伸ばす。


 みんなが息を止める。


 小百合の指先がカニの甲羅に触れた。


「捕まえ――」


 次の瞬間。


「いたああああ!」


 カニが小百合の指を見事に挟んだ。


 小百合は飛び上がり、腕を振り回した。


「取って! 誰か取って!」


 隆が腹を抱えて笑う。


「大物に負けちゅう!」


 大翔も笑いすぎて釣り竿を落としそうになった。


「小百合、カニに釣られた!」


「うるさい!」


 美波だけが本気で心配して、小百合の手を取った。


「痛い? 大丈夫?」


「痛い……けど、大丈夫……たぶん……」


 蓮が静かにカニを外してやった。


 カニは潮だまりへ戻ると、何事もなかったように横歩きで岩陰へ消えた。


 小百合は赤くなった指を見つめ、それから海へ向かって叫んだ。


「今日は負けたけど、明日は勝つきね!」


 みんながまた笑った。


 笑い声は、風に乗って海の方へ流れていった。


 その時の海は、本当に穏やかだった。


 まるで、子どもたちの笑い声を聞いているかのように。


     *


 昼前になると、港の方から水産加工会社の音が聞こえてきた。


 機械の低い音。箱を運ぶ音。トラックのエンジン。人の掛け声。


 田中家にとって、その音は日常の音だった。


 小百合の父、田中勝。母、美紀。そして高校を卒業したばかりの兄、悠斗は、港近くの水産加工会社で働いている。


 勝は魚の仕分けや出荷を担当していた。無口で、顔も少し怖い。初対面の子どもなら泣いてしまいそうなほど表情が硬い時もある。


 でも小百合は知っている。


 父の手は大きくて、魚の匂いがして、頭を撫でる時だけ少し力が弱くなる。


 母の美紀は、パック詰めや品質管理の仕事をしていた。明るくて、よく笑う。近所の人にもすぐ声をかけるので、田中家の周りでは美紀の知らない話はないと言われるほどだった。


 兄の悠斗は、この春に高校を卒業し、同じ会社へ就職したばかりだった。


 小百合にとって悠斗は、自慢の兄だった。


 少しぶっきらぼうで、すぐ「うるさい」と言う。けれど、休みの日には釣りに連れて行ってくれるし、自転車の練習も最後まで付き合ってくれた。小百合が転んで泣いた時、母より先に飛んできたのも悠斗だった。


 小百合は、港の近くまで走っていった。


「兄ちゃーん!」


 作業着姿の悠斗が、会社の前で箱を運んでいた。


「おまえ、また来たがか」


「また来た!」


「学校休みやきいうて、朝から走り回りすぎやろ」


「兄ちゃんこそ、魚ばっかり運びすぎやろ」


「仕事や」


「うちも大きくなったらここで働くき」


 悠斗は箱を置き、小百合を見下ろした。


「おまえが?」


「うん」


「朝早いぞ」


「起きる」


「寒い日もあるぞ」


「着込む」


「魚の匂い、服につくぞ」


「えい。海の匂いやもん」


 悠斗は一瞬言葉に詰まり、それから小さく笑った。


「ほんま、変わっちゅうな」


「変わってない。田中家やき」


「意味わからん」


 そこへ、奥から母の美紀が出てきた。


「小百合! あんた、また膝すりむいちゅう!」


 小百合は反射的に膝を隠した。


「これは違う」


「何が違うが」


「これは……勲章」


「勲章だらけの小学生がどこにおるが!」


 美紀は腰に手を当てて怒った顔をしたが、すぐに笑ってしまった。


「ほんまにもう。女の子なんやき、ちょっとは大人しゅうしなさい」


「女の子でも走ってえいがやろ?」


「それはそうやけど」


「ほら!」


「ほら、やない」


 美紀は小百合の頬についた砂を指で払った。


 その手は、少し冷たくて、魚と石鹸の匂いがした。


 奥から父の勝も出てきた。


 勝は帽子を取り、額の汗を拭った。


「小百合」


「お父さん!」


「海で遊びよったがか」


「うん! カニ捕ろうとした!」


「捕れたか」


「……今日は、向こうが強かった」


 悠斗が吹き出した。


「カニに負けたがやと」


「負けてない。引き分け」


 勝は小百合の指を見た。


「挟まれたがか」


「ちょっとだけ」


「海のもんはな、小さいもんでも力がある」


「うん」


 勝は海の方へ目を向けた。


 その横顔は、いつもより少し真面目だった。


「海はな、優しい顔ばっかりやないき」


 小百合は何度も聞いたことのある言葉に、少し口を尖らせた。


「わかっちゅうって」


「わかっちゅうと思う時ほど、気ぃつけるがや」


「お父さん、心配性やね」


「親やきな」


 その言い方があまりに静かだったので、小百合は少しだけ黙った。


 でもすぐに笑う。


「ほいたら、うちが大きくなってここで働いたら、お父さんが心配せんでもえいようになるね」


「なんでや」


「うちが海を見張っちょくき!」


 美紀が笑った。


「小百合が見張ったら、海も騒がしゅうて寝られんね」


 悠斗が言った。


「津波より小百合の声の方が先に来そうや」


「兄ちゃん、ひどい!」


「ほんまのことや」


 小百合はむくれたが、みんなが笑うので、結局自分も笑ってしまった。


 この時、小百合の声は、港のどこまでも響いていた。


 父がいて、母がいて、兄がいて。


 美波がいて、隆がいて、大翔や陽菜や蓮がいて。


 海があって、坂道があって、毎日が同じように続いていく。


 小百合は、そう信じていた。


     *


 午後になると、子どもたちは秘密基地へ向かった。


 秘密基地といっても、山の中にあるわけではない。浜から少し離れた、防波堤の陰にある古い物置小屋の裏だった。大人たちから見ればただの狭い空き地だが、子どもたちにとっては立派な城だった。


 美波が拾った平たい石には、絵の具で小さな魚が描かれている。


 大翔が持ってきた割れた浮き球は、宝物扱い。


 陽菜が拾った貝殻は、きれいな順に並べられている。


 蓮は、潮の満ち引きを調べて書いた紙を壁に貼っていた。


 隆は木切れで作った看板を掲げている。


 そこには、子どもの字でこう書かれていた。


「海風団」


 小百合が考えた名前だった。


「今日の会議を始めます!」


 小百合が立ち上がると、隆が笑った。


「また会議か」


「大事なが!」


「何を決めるが?」


「明日の遊び!」


 大翔が手を挙げた。


「釣り!」


 陽菜も手を挙げる。


「カニ捕り!」


 美波は小さく言った。


「絵、描きたい」


 蓮は少し考えてから言った。


「潮だまり観察」


 隆は腕を組んだ。


「防波堤走り競争」


 小百合の目が輝いた。


「全部やろう!」


「全部!?」


 美波が驚く。


「朝から夕方まであればできる!」


「小百合ちゃん、体力おばけや……」


「おばけやない。人間」


 隆が言う。


「ほんまに女の子かえ?」


 小百合は隆を睨んだ。


「女の子やき!」


 みんなが笑った。


 美波も笑っていた。


 その笑顔を見て、小百合はなんだか嬉しくなった。


 美波は小百合ほど大きな声で笑わない。でも笑うと、目元がやわらかくなる。海の絵を描く時の美波は、いつも少し大人びて見えた。


「美波は、将来何になるが?」


 小百合が聞いた。


 美波は少し照れたように下を向いた。


「うちは……海の絵、描く人になりたい」


「画家?」


「そんなすごいもんやないけど……海を描きたい。ここの海」


「えいね!」


「小百合ちゃんは?」


「うちは、水産加工会社!」


 美波は目を丸くした。


「お父さんたちと同じ?」


「うん。お父さんとお母さんと兄ちゃんと一緒に働くが」


「小百合ちゃんらしいね」


「そう?」


「うん。小百合ちゃん、家族大好きやもん」


 そう言われて、小百合は少しだけ照れた。


「まあ……好きやけど」


 隆がからかう。


「お、照れちゅう」


「照れてない!」


 小百合は近くにあった砂を軽く投げた。


「わっ、こら!」


 秘密基地の中に、また笑い声が弾けた。


 遠くで波の音がしていた。


 静かな、静かな波の音。


     *


 夕方。


 空が赤く染まり始める頃、小百合は家へ帰った。


 坂道を上る足は、朝より少し重くなっていた。たくさん走って、笑って、カニに挟まれて、釣り糸を絡ませて、大翔とけんかして、すぐ仲直りして、美波の絵を見て褒めて。


 忙しい一日だった。


 家の前まで来ると、台所から母の声が聞こえた。


「小百合ー! 手ぇ洗いなさい!」


「はーい!」


 玄関を開けると、魚を煮る匂いがした。


 小百合はこの匂いが好きだった。


 普通の家の匂いがどんなものかは知らない。でも田中家の夕方は、いつも少し潮の匂いがした。父と母と兄の作業着から漂う匂い。食卓に並ぶ魚の匂い。開けた窓から入ってくる海風の匂い。


 全部合わせて、家の匂いだった。


 食卓には、魚の煮付け、味噌汁、母の作った小鉢、ご飯が並んでいた。


 勝は少し疲れた顔で座っていた。


 美紀は台所と食卓を行き来している。


 悠斗はスマホを見ながら、片手で小百合の頭を軽く押さえた。


「邪魔」


「兄ちゃんこそ邪魔」


「俺は先に座っちゅう」


「うちは今から座るが」


「知らん」


 美紀が振り返る。


「こら、食べる前からけんかせん!」


「けんかやない」


 二人同時に言ったので、勝が小さく笑った。


 夕ごはんが始まった。


「いただきます!」


 小百合の声が一番大きい。


 美紀が言った。


「今日は何して遊んだが?」


「カニ捕り!」


「また?」


「今日は大物やった」


 悠斗がすかさず言う。


「捕れんかったけどな」


「兄ちゃん、言わんでえい!」


 勝が煮付けを口に運びながら聞いた。


「美波ちゃんも一緒やったがか」


「うん。美波、海の絵描きたいって」


「そうか」


「うちはここで働くって言うた」


 美紀が少し驚いたように顔を上げた。


「またその話?」


「またやない。本気」


 悠斗が笑う。


「本気なら、まず朝起きる練習やな」


「起きれる!」


「日曜でも?」


「……たぶん」


「ほら」


「兄ちゃん、うるさい」


 美紀は笑いながら、ご飯をよそった。


「でも、小百合がそう思ってくれるのは嬉しいね」


「お母さん、嬉しい?」


「そりゃ嬉しいよ。けど、まだ小学三年生やき、いろんな夢を見たらえい」


「うちは、ここがえい」


 小百合はきっぱり言った。


「海があって、お父さんがおって、お母さんがおって、兄ちゃんがおって、みんながおるき」


 食卓が一瞬だけ静かになった。


 それは寂しい沈黙ではなく、あたたかい沈黙だった。


 勝が、小さくうなずいた。


「そうか」


 たったそれだけ。


 けれど小百合にはわかった。


 父は嬉しいのだ。


 勝は感情を大きく表に出す人ではない。大声で褒めたり、抱きしめたりすることも少ない。でも、小百合にはわかる。父が嬉しい時、箸を置くタイミングが少し遅くなる。目元がほんの少しだけやわらかくなる。


 小百合は得意げに胸を張った。


「うち、魚の仕分けもできるようになる!」


「まず漢字の宿題を仕分けなさい」


 美紀が言う。


「あっ」


「忘れちょったね?」


「……海風団の会議が忙しくて」


「宿題より大事な会議なが?」


「明日の遊びを決める会議やき、重要」


 悠斗が呆れたように笑った。


「平和やな、おまえは」


「平和が一番やろ?」


 小百合が言うと、悠斗は一瞬黙り、それから少しだけ笑った。


「まあな」


     *


 夜。


 宿題をなんとか終えた小百合は、布団に入った。


 窓の外から、波の音が聞こえていた。


 ざあ、ざあ、というほど強くはない。


 もっとやさしい音。


 すう、すう、と眠る人の呼吸みたいな音だった。


 小百合は布団の中で、今日一日を思い出した。


 隆と競争したこと。


 美波が笑ったこと。


 大翔が魚を一匹も釣れなかったこと。


 陽菜が貝殻をきれいに並べていたこと。


 蓮がカニを外してくれたこと。


 父の大きな手。


 母の笑い声。


 兄の少し意地悪な顔。


 全部、当たり前だった。


 明日もきっと、同じように朝が来る。


 また坂道を走って、海へ行って、誰かと笑って、夕方には家へ帰る。


 その当たり前が、ずっと続くのだと思っていた。


 小百合は眠りに落ちる前、波の音を聞きながら小さくつぶやいた。


「明日は、カニに勝つき……」


 その声は、夜の部屋にやわらかく溶けた。


 外では、土佐湾が静かに広がっていた。


 あまりにも穏やかに。


 あまりにも優しく。


 まるで、何も起こらないと約束してくれているように。


 けれど海は、何も約束してはいなかった。

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