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海の声が聞こえなくても・土讃線が止まった秋  作者: リンダ


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叔母の家へ

 第22話

 叔母の家へ


 白田先生と暮らす。


 小百合は、そう決めた。


 けれど、すぐに一緒の生活が始まるわけではなかった。


 住む場所。

 手続き。

 親族との話し合い。

 学校のこと。

 心のケア。


 壊れた町の中で、一つひとつ決めなければならないことが多すぎた。


 その間、小百合は一時的に親族の家へ身を寄せることになった。


 *


 迎えに来たのは、母・美紀の妹、江村早苗だった。


 夫の勝正、そして中学生の娘・夏菜子も一緒だった。


「小百合ちゃん……」


 早苗は、小百合を見るなり涙をこらえきれなかった。


 けれど、泣き崩れはしなかった。


 小百合を怖がらせないように、震える声で言った。


「うちにおいで。何も心配せんでえいきね」


 勝正も深く頭を下げた。


「狭い家やけど、ゆっくり休んだらえい」


 江村夫妻もまた、津波で両親を亡くしていた。


 早苗にとっては、実の親を失ったばかりだった。


 それでも、小百合を迎えると言ってくれた。


 混乱の中で、悲しみの中で、それでも。


「小百合ちゃんは、美紀姉ちゃんの大事な子やき」


 早苗はそう言った。


 *


 夏菜子は、中学生だった。


 背が高く、少し落ち着いた雰囲気がある。


 けれど小百合を見る目は、とてもやわらかかった。


「小百合、覚えちゅう?」


 小百合は小さくうなずいた。


「……夏菜子ちゃん」


「うん。久しぶり」


 夏菜子は無理に笑わせようとはしなかった。


 ただ、小百合の隣にしゃがんで言った。


「うちの部屋、半分使ってえいき」


 小百合は目を上げた。


「……えいが?」


「えいよ。漫画もあるし、ぬいぐるみもあるし。小百合が嫌じゃなかったら、一緒に寝てもえい」


 小百合はすぐには答えられなかった。


 でも、夏菜子の声は不思議と怖くなかった。


 昔から、夏菜子とは気が合った。


 年は離れているけれど、姉妹のように遊んだことがあった。


 小百合が小さい頃、夏菜子はよく髪を結んでくれた。

 走り回る小百合を見て、「ほんま元気やねえ」と笑ってくれた。


 その記憶が、小百合の胸の奥で小さく灯った。


 *


 江村家へ向かう道の途中、小百合は車の窓から外を見ていた。


 壊れた町。

 泥の跡。

 傾いた看板。

 青いシート。

 自衛隊の車両。


 もう、どこを見ても前の景色ではなかった。


 早苗は助手席で、何度もハンカチを握りしめていた。


 勝正は黙って運転していた。


 夏菜子は後部座席で、小百合の隣に座っていた。


「寒くない?」


 小百合は首を横に振った。


「お腹すいてない?」


 また首を横に振る。


「しゃべりたくなかったら、しゃべらんでえいよ」


 小百合は、夏菜子を見た。


 夏菜子は前を見たまま言った。


「うちは、そばにおるだけでもえいき」


 小百合の目が少し揺れた。


 *


 江村家は、被害を受けながらも住める状態だった。


 玄関に入ると、知らない家の匂いがした。


 洗剤の匂い。

 畳の匂い。

 夏菜子の部屋からする本と布の匂い。


 田中家の匂いではなかった。


 魚の匂いも、母の味噌汁の匂いも、兄の作業着の匂いもない。


 小百合は玄関で立ち止まった。


 早苗が振り返る。


「小百合ちゃん?」


 小百合は小さく首を振った。


 大丈夫。


 そう言いたかった。


 でも声が出なかった。


 夏菜子がそっと手を差し出した。


「部屋、行こか」


 小百合はその手を握った。


 *


 夏菜子の部屋には、布団が二つ並べられていた。


「今日からここ。嫌やったら言うてね」


 小百合は布団を見た。


 慣れない布団。


 知らない枕。


 家族ではない家。


 胸が苦しくなった。


 夏菜子は何も言わず、引き出しから小さなぬいぐるみを取り出した。


「これ、貸しちゃる」


 小百合はぬいぐるみを受け取った。


 少し古い、犬のぬいぐるみだった。


「名前は?」


 小百合がかすかに聞いた。


 夏菜子は少し驚いて、それから笑った。


「ぽち丸」


「……そのまま」


「昔のうちのセンスやき」


 小百合の口元が、ほんの少しだけ動いた。


 笑ったのかもしれない。


 夏菜子はそれ以上、何も言わなかった。


 *


 夜。


 早苗は温かい味噌汁を出してくれた。


「少しでえいき、食べてみて」


 勝正は静かにご飯をよそった。


「無理せんでえい」


 夏菜子は小百合の隣に座った。


 小百合は箸を持った。


 ひと口。


 味噌汁を飲む。


 おいしかった。


 でも、母の味ではなかった。


 そのことが悲しくて、小百合の手が止まった。


 早苗は気づいた。


 けれど、急がせなかった。


「美紀姉ちゃんの味とは違うろうね」


 小百合の目に涙が浮かんだ。


 早苗も泣きそうな顔で笑った。


「いつか、小百合ちゃんが覚えちゅう味、教えてね。うち、作れるようになりたい」


 小百合は、箸を握ったまま小さくうなずいた。


 *


 その夜、小百合は夏菜子の隣で布団に入った。


 白田先生はいない。


 祖父母もいない。


 父も母も兄も、もちろんいない。


 知らない天井。


 知らない夜の音。


 知らない家の匂い。


 小百合はまた、少し言葉を失った。


 夏菜子が小さな声で言った。


「小百合」


 返事はない。


「眠れんかったら、起こしてえいきね」


 小百合は、ほんの少しだけ夏菜子の方へ体を寄せた。


 夏菜子は布団の中で、小百合の手をそっと握った。


「大丈夫とは言わん」


 夏菜子は静かに言った。


「でも、一人にはせんき」


 小百合の目から、涙がこぼれた。


 声は出なかった。


 でも、夏菜子の手を握り返した。


 *


 生きていく場所を探す日々が始まった。


 それは、家を見つけることだけではなかった。


 誰の隣なら眠れるのか。

 どの匂いなら息ができるのか。

 どの声なら怖くないのか。

 どこに立てば、自分がまだ生きていていいと思えるのか。


 小百合はまだ、何もわからなかった。


 けれど、江村家の小さな部屋で、夏菜子の手を握りながら、その夜を越えた。


 次回予告

 第23話「海を見られない」


 江村家での生活が始まった小百合。


 早苗、勝正、夏菜子は、できる限り小百合を温かく迎える。


 けれど、小百合は海の方角を見られなくなっていた。


 窓の向こうに広がる空。

 遠くから聞こえる波の音。

 テレビに映る被災した海岸線。


 そのすべてが、小百合の心を凍らせる。


 かつて大好きだった海。


 家族を奪った海。


 次回、

 第23話「海を見られない」


 少女は、海に背を向ける。

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