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海の声が聞こえなくても・土讃線が止まった秋  作者: リンダ


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23/30

海を見られない

発災から20日。


壊れたままだった世界が、ほんの少しだけ動き始めた。


高知市内では、路面電車が一部区間で運行を再開した。まだ全線ではない。車窓から見える町も、以前の町ではない。それでも、電車が走る音は、人々に「まだ戻れるものがある」と思わせた。


瀬戸大橋も運転を再開した。予讃線は高松から多度津まで、土讃線は多度津から琴平まで、ようやく電車で行けるようになった。高速道路も一部区間で突貫工事が進み、寸断されていた道に、細いけれど確かな線が戻り始める。


物資も、人も、少しずつ動き始めた。


けれど、そのニュースの後に流れる数字は、あまりにも重かった。


死者、五万人超。


行方不明者、二万人超。


小百合は江村家のテレビの前で、その数字を聞いていた。


夏菜子が隣に座っている。早苗は台所で手を止め、勝正は黙って画面を見つめていた。


「……そんなに」


早苗が、絞り出すようにつぶやいた。


小百合は何も言わなかった。


五万人。


二万人。


大きすぎて、数字に見えなかった。


でも、その中には父がいた。

母がいた。

兄がいた。

美波がいた。


ひとりひとりに名前があった。


誰かの朝ごはんがあった。

誰かの帰る家があった。

誰かの「行ってきます」があった。


小百合は膝の上で手を握りしめた。


テレビでは、復旧した路面電車がゆっくり走る映像が流れていた。


人々がそれを見上げ、泣きながら手を振っている。


小百合は、その音を聞きながら思った。


世界は、少しずつ動き始めている。


でも、自分の中の時間は、まだあの日のまま止まっている。


2062年11月1日。


九歳の誕生日。


海が牙をむいた日。


小百合は、窓の外を見ようとして、すぐに目を伏せた。


遠くに海がある。


まだ、見られなかった。






第23話


海を見られない


 発災から二十日が過ぎた。


 少しずつ、町は動き始めていた。


 高知市内では路面電車が一部区間で運行を再開した。瀬戸大橋も動き始め、予讃線は高松から多度津まで、土讃線は多度津から琴平まで、電車で行けるようになった。


 高速道路も、一部区間で突貫工事が進んでいた。


 壊れた世界に、細い糸のような道が戻り始めていた。


 けれど、ニュースの数字は重かった。


 死者、五万人超。


 行方不明者、二万人超。


 小百合は江村家のテレビの前で、その数字を聞いていた。


 何も言えなかった。


 五万人。


 二万人。


 大きすぎて、数字に見えなかった。


 でも、その中に父がいた。母がいた。兄がいた。美波がいた。


 小百合は、窓の外へ目を向けかけた。


 その先には、遠く海がある。


 けれど、見られなかった。


 体が固まった。


 すると、隣にいた夏菜子がそっと小百合の手を取った。


「小百合」


 小百合は顔を上げる。


「無理に見んでもえいからね」


 その言葉に、小百合の目が揺れた。


 夏菜子は続けた。


「見られる日が来たら、見たらえい。今は、見んでもえい」


 小百合は小さくうなずいた。


 声は出なかった。


 でも、夏菜子の手を握り返した。


     *


 気がつけば、十二月になっていた。


 町にはまだ、クリスマスどころではない空気が流れていた。


 壊れた家。

 青いシート。

 仮設の水場。

 配給の列。

 行方不明者を探す張り紙。


 それでも、夏菜子は小さな布を集めて、手作りのサンタのパッチワークを作った。


 赤い帽子。


 白いひげ。


 少し不格好な顔。


 でも、とてもあたたかかった。


「小百合」


 夏菜子は、それを小百合に渡した。


「今は、こんなことしかできんけど」


 小百合はパッチワークを見つめた。


「いつか、みんなでクリスマスを祝いたいね」


 その言葉を聞いた瞬間、小百合の頬を涙が伝った。


 ぽろぽろと。


 止まらなかった。


 夏菜子は何も言わず、小百合をそっと抱きしめた。


「泣いてえいよ」


 夏菜子の声も震えていた。


「小百合、泣いてえい」


 小百合はパッチワークを胸に抱いたまま、夏菜子の肩に顔をうずめた。


     *


 それから数日後。


 白田栄子先生から連絡が入った。


「小百合ちゃん」


 先生は、江村家の居間で小百合の前に座った。


「仮設住宅の入居が決まったよ」


 小百合は先生を見つめた。


「桂浜北中学校の北側にある、あの小高い山。そこに仮設住宅が建てられることになったの」


 あの山。


 小百合が助かった山。


 家族のもとへ走って行けなかった山。


 けれど、命をつないだ山。


「先生と一緒に、そこへ入ろうと思う」


 小百合はしばらく黙っていた。


 それから、小さくうなずいた。


「……うん」


 白田先生の目が少し潤んだ。


「一緒に暮らそうね」


     *


 十二月二十四日。


 クリスマスイブ。


 年末も押し迫ったその日、小百合は江村家を出ることになった。


 早苗は朝から何度も台所と居間を行き来していた。


「忘れ物ない?」


 勝正は段ボールに着替えや日用品を詰めていた。


「これも持って行き。タオルは多い方がえい」


 夏菜子は、小百合のリュックを整えていた。


 中には、小百合の大切なものが入っていた。


 母の弁当箱。

 美波の小さな絵。

 夏菜子が作ったサンタのパッチワーク。

 祖父母がくれた小さなお守り。

 そして、少しだけ残った田中家の記憶。


 小百合はリュックを背負った。


 重かった。


 けれど、それは荷物の重さだけではなかった。


「早苗おばちゃん」


 小百合は、小さな声で言った。


「勝正おじちゃん」


 二人は小百合を見た。


「夏菜子ちゃん」


 夏菜子の目が赤くなる。


「ありがとう」


 早苗はもう我慢できず、小百合を抱きしめた。


「小百合ちゃん……いつでも帰ってきてえいきね」


 勝正も静かに言った。


「困ったらすぐ来い。遠慮はいらん」


 夏菜子は小百合の手を握った。


「また会いに行くき」


 小百合はうなずいた。


「うん」


     *


 白田先生が迎えに来た。


 先生も、小さな荷物を持っていた。


 江村夫妻が着替えや必要なものを持ち、夏菜子も一緒に歩いた。


 仮設住宅までは、歩いて向かった。


 冬の風が冷たい。


 道にはまだ、災害の跡が残っていた。


 それでも、小百合は歩いた。


 白田先生の隣を。


 夏菜子の手を握りながら。


 背中には、大切なものを詰めたリュック。


 前には、まだ知らない新しい暮らし。


 クリスマスイブの空は、薄く曇っていた。


 華やかな灯りはない。


 ケーキもない。


 家族四人の食卓もない。


 でも、小百合の隣には白田先生がいた。


 後ろには、見送ってくれる人たちがいた。


 そして胸には、手作りのサンタがいた。


 小百合は、ほんの少しだけ空を見上げた。


 海の方角は、まだ見られない。


 けれど、前へは歩けた。



次回予告


第24話「それでも朝は来る」


 クリスマスイブに、仮設住宅へ移った小百合と白田先生。


 薄い壁。

 小さな部屋。

 最低限の家具。

 慣れない布団。


 そこは家ではない。


 けれど、二人がこれから生きていく場所だった。


 夜が明ければ、また朝が来る。


 父も母も兄もいない朝。

 美波もいない朝。

 それでも、朝は来る。


 次回、

 第24話「それでも朝は来る」


 失ったものを抱えたまま、新しい一日が始まる。

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