海を見られない
発災から20日。
壊れたままだった世界が、ほんの少しだけ動き始めた。
高知市内では、路面電車が一部区間で運行を再開した。まだ全線ではない。車窓から見える町も、以前の町ではない。それでも、電車が走る音は、人々に「まだ戻れるものがある」と思わせた。
瀬戸大橋も運転を再開した。予讃線は高松から多度津まで、土讃線は多度津から琴平まで、ようやく電車で行けるようになった。高速道路も一部区間で突貫工事が進み、寸断されていた道に、細いけれど確かな線が戻り始める。
物資も、人も、少しずつ動き始めた。
けれど、そのニュースの後に流れる数字は、あまりにも重かった。
死者、五万人超。
行方不明者、二万人超。
小百合は江村家のテレビの前で、その数字を聞いていた。
夏菜子が隣に座っている。早苗は台所で手を止め、勝正は黙って画面を見つめていた。
「……そんなに」
早苗が、絞り出すようにつぶやいた。
小百合は何も言わなかった。
五万人。
二万人。
大きすぎて、数字に見えなかった。
でも、その中には父がいた。
母がいた。
兄がいた。
美波がいた。
ひとりひとりに名前があった。
誰かの朝ごはんがあった。
誰かの帰る家があった。
誰かの「行ってきます」があった。
小百合は膝の上で手を握りしめた。
テレビでは、復旧した路面電車がゆっくり走る映像が流れていた。
人々がそれを見上げ、泣きながら手を振っている。
小百合は、その音を聞きながら思った。
世界は、少しずつ動き始めている。
でも、自分の中の時間は、まだあの日のまま止まっている。
2062年11月1日。
九歳の誕生日。
海が牙をむいた日。
小百合は、窓の外を見ようとして、すぐに目を伏せた。
遠くに海がある。
まだ、見られなかった。
第23話
海を見られない
発災から二十日が過ぎた。
少しずつ、町は動き始めていた。
高知市内では路面電車が一部区間で運行を再開した。瀬戸大橋も動き始め、予讃線は高松から多度津まで、土讃線は多度津から琴平まで、電車で行けるようになった。
高速道路も、一部区間で突貫工事が進んでいた。
壊れた世界に、細い糸のような道が戻り始めていた。
けれど、ニュースの数字は重かった。
死者、五万人超。
行方不明者、二万人超。
小百合は江村家のテレビの前で、その数字を聞いていた。
何も言えなかった。
五万人。
二万人。
大きすぎて、数字に見えなかった。
でも、その中に父がいた。母がいた。兄がいた。美波がいた。
小百合は、窓の外へ目を向けかけた。
その先には、遠く海がある。
けれど、見られなかった。
体が固まった。
すると、隣にいた夏菜子がそっと小百合の手を取った。
「小百合」
小百合は顔を上げる。
「無理に見んでもえいからね」
その言葉に、小百合の目が揺れた。
夏菜子は続けた。
「見られる日が来たら、見たらえい。今は、見んでもえい」
小百合は小さくうなずいた。
声は出なかった。
でも、夏菜子の手を握り返した。
*
気がつけば、十二月になっていた。
町にはまだ、クリスマスどころではない空気が流れていた。
壊れた家。
青いシート。
仮設の水場。
配給の列。
行方不明者を探す張り紙。
それでも、夏菜子は小さな布を集めて、手作りのサンタのパッチワークを作った。
赤い帽子。
白いひげ。
少し不格好な顔。
でも、とてもあたたかかった。
「小百合」
夏菜子は、それを小百合に渡した。
「今は、こんなことしかできんけど」
小百合はパッチワークを見つめた。
「いつか、みんなでクリスマスを祝いたいね」
その言葉を聞いた瞬間、小百合の頬を涙が伝った。
ぽろぽろと。
止まらなかった。
夏菜子は何も言わず、小百合をそっと抱きしめた。
「泣いてえいよ」
夏菜子の声も震えていた。
「小百合、泣いてえい」
小百合はパッチワークを胸に抱いたまま、夏菜子の肩に顔をうずめた。
*
それから数日後。
白田栄子先生から連絡が入った。
「小百合ちゃん」
先生は、江村家の居間で小百合の前に座った。
「仮設住宅の入居が決まったよ」
小百合は先生を見つめた。
「桂浜北中学校の北側にある、あの小高い山。そこに仮設住宅が建てられることになったの」
あの山。
小百合が助かった山。
家族のもとへ走って行けなかった山。
けれど、命をつないだ山。
「先生と一緒に、そこへ入ろうと思う」
小百合はしばらく黙っていた。
それから、小さくうなずいた。
「……うん」
白田先生の目が少し潤んだ。
「一緒に暮らそうね」
*
十二月二十四日。
クリスマスイブ。
年末も押し迫ったその日、小百合は江村家を出ることになった。
早苗は朝から何度も台所と居間を行き来していた。
「忘れ物ない?」
勝正は段ボールに着替えや日用品を詰めていた。
「これも持って行き。タオルは多い方がえい」
夏菜子は、小百合のリュックを整えていた。
中には、小百合の大切なものが入っていた。
母の弁当箱。
美波の小さな絵。
夏菜子が作ったサンタのパッチワーク。
祖父母がくれた小さなお守り。
そして、少しだけ残った田中家の記憶。
小百合はリュックを背負った。
重かった。
けれど、それは荷物の重さだけではなかった。
「早苗おばちゃん」
小百合は、小さな声で言った。
「勝正おじちゃん」
二人は小百合を見た。
「夏菜子ちゃん」
夏菜子の目が赤くなる。
「ありがとう」
早苗はもう我慢できず、小百合を抱きしめた。
「小百合ちゃん……いつでも帰ってきてえいきね」
勝正も静かに言った。
「困ったらすぐ来い。遠慮はいらん」
夏菜子は小百合の手を握った。
「また会いに行くき」
小百合はうなずいた。
「うん」
*
白田先生が迎えに来た。
先生も、小さな荷物を持っていた。
江村夫妻が着替えや必要なものを持ち、夏菜子も一緒に歩いた。
仮設住宅までは、歩いて向かった。
冬の風が冷たい。
道にはまだ、災害の跡が残っていた。
それでも、小百合は歩いた。
白田先生の隣を。
夏菜子の手を握りながら。
背中には、大切なものを詰めたリュック。
前には、まだ知らない新しい暮らし。
クリスマスイブの空は、薄く曇っていた。
華やかな灯りはない。
ケーキもない。
家族四人の食卓もない。
でも、小百合の隣には白田先生がいた。
後ろには、見送ってくれる人たちがいた。
そして胸には、手作りのサンタがいた。
小百合は、ほんの少しだけ空を見上げた。
海の方角は、まだ見られない。
けれど、前へは歩けた。
⸻
次回予告
第24話「それでも朝は来る」
クリスマスイブに、仮設住宅へ移った小百合と白田先生。
薄い壁。
小さな部屋。
最低限の家具。
慣れない布団。
そこは家ではない。
けれど、二人がこれから生きていく場所だった。
夜が明ければ、また朝が来る。
父も母も兄もいない朝。
美波もいない朝。
それでも、朝は来る。
次回、
第24話「それでも朝は来る」
失ったものを抱えたまま、新しい一日が始まる。




