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海の声が聞こえなくても・土讃線が止まった秋  作者: リンダ


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言葉を失った少女

 第20話

 言葉を失った少女


 小百合は、ほとんど話さなくなっていた。


 名前を呼ばれれば、目だけを動かす。

 水を差し出されれば、受け取る。

 食べ物を勧められれば、ほんの少し口にする。


 けれど、言葉は出ない。


 避難所に入った心理士は、小百合の様子を見て、白田栄子先生に静かに告げた。


「心が、声を止めているのかもしれません」


 白田先生は、小百合の方を見た。


 小さな背中。

 痩せた頬。

 何も映していないような目。


 先生は、無理に話させることをやめた。


 声が戻らなくてもいい。


 今は、生きていてくれればいい。


 *


 その日、避難所に自衛隊の車両が到着した。


 駆けつけてきたのは、北海道の千年駐屯地から派遣された隊員たちだった。


 遠い北の地から、壊れた道路と寸断された町を越え、ヘリや輸送手段を使って、ようやくここまでたどり着いた人たちだった。


「お風呂の支援が始まります!」


「炊き出しを行います!」


 その声に、避難所の空気が少しだけ動いた。


 風呂。


 温かい食べ物。


 それは、ただの生活支援ではなかった。


 人間に戻るためのものだった。


 *


 白田先生は、小百合の前にしゃがんだ。


「小百合ちゃん」


 小百合がゆっくり顔を上げる。


「お風呂に入れるって」


 小百合は瞬きした。


「先生と一緒に入りに行こうか」


 長い沈黙。


 そして、小百合は小さく唇を動かした。


「……うん」


 白田先生は息を止めた。


 声だった。


 ほんの小さな、消えそうな声。


 でも確かに、小百合の声だった。


「うん。行こう」


 先生は泣きそうになるのをこらえて、小百合の手を取った。


 *


 仮設の入浴施設には、湯気が満ちていた。


 久しぶりの温かい湯。


 体についた泥と汗と避難所の匂いが、少しずつ流れていく。


 小百合は黙って湯に浸かった。


 白田先生は、その体を見て胸が締めつけられた。


 あれほど走り回っていた子だった。


 運動会で風のように走り、海辺でカニを追い、タイガースの応援で家中を揺らしていた子。


 その小百合の体が、今は痩せ細っていた。


 肩は小さく、肋骨が浮き、腕も脚も細くなっている。


 このままでは危ない。


 先生は、そう感じた。


「小百合ちゃん」


 小百合は先生を見た。


「少しずつでいいから、食べよう」


 返事はなかった。


 けれど、小百合は目をそらさなかった。


 *


 炊き出しでは、温かい汁物とご飯が配られた。


 野菜の甘い匂いが、避難所に広がる。


 それだけで泣き出す人もいた。


 白田先生は小百合の前に器を置いた。


「一口でいい」


 小百合は、ゆっくり箸を持った。


 ほんの少し口に入れる。


 飲み込む。


 先生は何も言わなかった。


 褒めすぎれば、小百合が苦しくなる気がした。


 ただ、隣にいた。


 *


 その午後だった。


 避難所の入り口がざわついた。


 一台の軽トラックが、泥だらけになって高台へ上がってきた。


 荷台には、野菜が積まれていた。


 大根。

 白菜。

 芋。

 葉物。

 形は不揃いでも、土の匂いがした。


 運転席から降りてきた老人が、息を切らして叫んだ。


「小百合! 田中小百合はおるか!」


 小百合の体が震えた。


 その声。


 聞き覚えのある声。


 白田先生が顔を上げる。


 避難所の人々が道を開けた。


 そこに立っていたのは、小百合の祖父母だった。


 祖父、田中芳雄。

 祖母、田中正恵。


 家は全壊していた。


 けれど、家の裏手の少し小高い場所で育てていた野菜畑は、奇跡的に無事だった。


 二人は、かき集められるだけの野菜を軽トラックに積み込み、小百合の居場所を探し続け、ようやくここまで来たのだった。


「小百合……!」


 正恵が叫んだ。


 小百合は、立ち上がった。


 足元がふらつく。


 白田先生が支えようとした。


 けれど、小百合は一歩、また一歩と進んだ。


「……おじい……ちゃん」


 声が出た。


 かすれていた。


 でも、確かに出た。


「おばあ……ちゃん……」


 正恵が両手を広げた。


 小百合は、その胸に飛び込んだ。


 *


 その瞬間。


 小百合の中で、堰が切れた。


「うわあああああ!」


 泣き声だった。


 ようやく出た、泣き声だった。


「お父さんが! お母さんが! 兄ちゃんが!」


 言葉があふれた。


「美波も! 家も! 学校も! 全部なくなったが!」


 小百合は正恵にしがみつき、芳雄の服を握りしめた。


「いやや! いやや! 帰りたい! お母さんのご飯食べたい! 兄ちゃんにからかわれたい! お父さんに頭撫でてほしい!」


 正恵は小百合を抱きしめ、声をあげて泣いた。


「小百合……よう生きちょった……よう生きちょったねえ……!」


 芳雄も顔をくしゃくしゃにして、小百合の背中を撫でた。


「すまん……すまんのう……もっと早う来たかった……!」


 白田先生は、その光景を少し離れた場所で見ていた。


 涙が止まらなかった。


 泣けなかった小百合が、泣いている。


 声を失った小百合が、叫んでいる。


 それは回復ではなかった。


 悲しみの始まりだった。


 けれど同時に、小百合の心が完全に凍りつく前に、ようやく割れ目が入った瞬間でもあった。


 *


 祖父母が持ってきた野菜は、避難所の炊き出しに使われることになった。


 田中家の畑で育った野菜。


 小百合の家族とつながる、わずかに残った命のかけら。


 その夜、小百合は野菜の入った温かい汁を、少しだけ食べた。


 泣き腫らした目で、器を両手で持ちながら。


 白田先生が隣に座る。


 正恵が小百合の背中をさすり、芳雄が黙って見守る。


 小百合は小さく言った。


「……おいしい」


 白田先生は、そっと目を閉じた。


 その一言が、どれほど尊いものか知っていた。


 沈黙の中で、小百合は深い喪失を抱え続けていた。


 けれどその夜、失った家族の代わりにはならないとしても、まだ小百合を抱きしめる腕があった。


 まだ、小百合の名前を呼ぶ声があった。


 次回予告

 第21話「避難所の白い毛布」


 祖父母との再会で、初めて泣くことができた小百合。


 けれど、悲しみが消えたわけではなかった。


 白い毛布。

 冷たい床。

 眠れない夜。

 何度も戻ってくる津波の記憶。


 祖父母は小百合を引き取りたいと願う。

 白田先生も、小百合を一人にしたくないと願う。


 誰が小百合を支えるのか。

 小百合はどこで生きていくのか。


 次回、

 第21話「避難所の白い毛布」


 失われた家族のあとに、残された人々が小百合の未来を考え始める。

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