泣けない夜
第19話
泣けない夜
夜になると、避難所は少しだけ静かになった。
けれど、それは安心の静けさではなかった。
泣く力を失った人たちの沈黙。
疲れ果てた体が、ただ横たわっているだけの静けさ。
小百合は、白田栄子先生の隣で毛布にくるまっていた。
眠れなかった。
目を閉じると、父の顔が浮かぶ。
母の声が聞こえる。
兄のからかう声が戻ってくる。
美波の笑顔が見える。
でも、目を開けると、そこには避難所の天井しかなかった。
泣きたい。
叫びたい。
けれど、涙も声も出なかった。
*
小百合の通っていた小学校でも、亡くなった児童が何人もいた。
地震や津波で命を落とした子。
そして、発災当時は助かっていたのに、長引く避難所生活の中で亡くなった子。
栄養不足。
寒さ。
衛生環境の悪化。
トイレの問題。
同じ姿勢を続けることで起きるエコノミークラス症候群。
避難所は、安全な場所のはずだった。
でも、安全と呼ぶには、あまりにも過酷だった。
生き残った者たちも、ずっと命の端に立たされていた。
*
鉄道はまだ動かなかった。
道路も、あちこちで崩れ、橋は落ち、トンネルは塞がっていた。
港は、激しい揺れと津波の直撃で壊滅的な被害を受けていた。船が着ける状態ではなかった。
空港も使えなかった。
管制塔に被害が出て、滑走路にも大きな損傷があった。
外から物が入ってこない。
食料も、水も、薬も、毛布も、足りない。
田畑は津波をかぶり、海水と泥に覆われていた。
町は、生きるための道をいくつも断たれていた。
*
唯一の頼りは、自衛隊のヘリだった。
高台の近くに、簡易のヘリポートが作られた。
地面をならし、目印を置き、周囲の瓦礫をどける。
そして、空から音が聞こえた。
ばらばらばらばら――
避難所にいた人々が、顔を上げた。
「ヘリや!」
「物資が来た!」
大人たちが外へ走る。
子どもたちも、窓の近くに集まった。
ヘリは強い風を起こしながら、ゆっくりと近づいてきた。
物資が降ろされる。
水。
保存食。
毛布。
簡易トイレ。
医薬品。
それは、十分ではなかった。
でも、命をつなぐものだった。
*
白田先生は、小百合の肩に毛布をかけ直した。
「小百合ちゃん」
小百合は先生を見た。
「少しだけ、温かいものが配られるかもしれない」
小百合は何も言わなかった。
「飲めそうなら、飲もうね」
小百合は、ほんの少しだけうなずいた。
先生はそれだけで、静かに息をついた。
今の小百合にとって、うなずくことさえ大きな一歩だった。
*
夜。
避難所に、薄いスープが配られた。
具はほとんどなかった。
それでも、湯気が立っていた。
白田先生は小さな器を持って、小百合の前に座った。
「一口だけ」
小百合は器を見た。
湯気の向こうに、母の味噌汁が見えた気がした。
毎朝の味噌汁。
夕ごはんの湯気。
家族四人の食卓。
小百合の手が震えた。
白田先生がそっと支える。
「大丈夫」
小百合は、ほんの少しだけスープを口に含んだ。
温かかった。
その温かさが、悲しかった。
小百合の目に涙が浮かんだ。
けれど、やはり泣き声は出なかった。
*
「泣けないんだね」
白田先生が静かに言った。
小百合の目が揺れた。
「泣かなくていいよ」
先生は続けた。
「泣ける時が来たら、泣けばいい」
小百合は器を握ったまま、動かなかった。
「先生もね」
白田先生は、少しだけ笑おうとした。
「泣けない夜がある」
小百合は先生を見た。
先生の目にも、深い疲れと悲しみがあった。
「でも、泣けないから悲しくないわけじゃない」
白田先生は、小百合の手に自分の手を重ねた。
「声が出ないから、何も感じてないわけでもない」
小百合の唇がわずかに震えた。
言葉にはならなかった。
でも、先生には伝わった。
*
その夜、小百合は少しだけ眠った。
ほんの短い時間だった。
夢の中で、家にいた。
父が新聞を読んでいた。
母が味噌汁をよそっていた。
兄が「小百合、声でかい」と笑っていた。
美波がスケッチブックを持っていた。
小百合は走っていこうとした。
でも、足が動かなかった。
声を出そうとした。
でも、声が出なかった。
目が覚めた時、小百合は白田先生の服を握っていた。
先生は眠らずに、小百合のそばにいた。
「ここにいるよ」
白田先生は小さく言った。
「先生、ここにいる」
小百合は返事をしなかった。
けれど、握った手を離さなかった。
*
泣けない夜は、長かった。
でも、その夜を越えるための小さな灯りが、ひとつだけあった。
それは、物資を運んできたヘリの音でも、配られた温かいスープでもあった。
そして何より、白田先生の手だった。
すべてを失った先生と、すべてを失った少女。
二人は、避難所の冷たい床の上で、かすかに互いを支え合っていた。
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次回予告
第20話「言葉を失った少女」
小百合は、ほとんど話さなくなった。
問いかけにはうなずく。
水を差し出されれば受け取る。
でも、言葉は出ない。
医療支援に入った心理士は、小百合の状態を見て静かに告げる。
「心が、声を止めているのかもしれません」
白田先生は、小百合を急がせないと決める。
声が戻らなくてもいい。
今は、生きていてくれればいい。
次回、
第20話「言葉を失った少女」
沈黙の中で、小百合は深い喪失を抱え続ける。




