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海の声が聞こえなくても・土讃線が止まった秋  作者: リンダ


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親友のいない教室

 第18話

 親友のいない教室


 避難生活が続く中、子どもたちは仮設の教室へ集められた。


 机は足りなかった。

 椅子もそろっていなかった。

 黒板は、小さなホワイトボードだった。


 それでも大人たちは言った。


「少しずつ、日常を取り戻しましょう」


 日常。


 その言葉が、小百合には遠かった。


 仮設の教室には、何人かのクラスメイトがいた。


 大翔。

 陽菜。

 蓮。

 隆も別学年の場所にいた。


 けれど、小百合の隣に座っていたはずの美波はいなかった。


 美波の席はなかった。


 名前を呼ばれることもなかった。


 スケッチブックを開く音も聞こえなかった。


「小百合ちゃん、描いてあげるね」


 そう言って笑った声だけが、胸の中に残っていた。


 *


 白田栄子先生は、教壇の前に立った。


 顔色は悪かった。


 先生自身も、自宅を失い、両親と結婚したばかりの夫を亡くしていた。


 それでも、子どもたちの前に立っていた。


「今日は……無理に勉強しなくていいです」


 先生の声は静かだった。


「ここに来られただけで、十分です」


 誰も何も言わなかった。


 小百合も、ただ机の木目を見つめていた。


 先生が出席を確認していく。


 呼ばれない名前がある。


 返事のない名前がある。


 そのたびに、教室の空気が重くなる。


 美波の名前は、呼ばれなかった。


 呼ばれないことが、もう戻らないことを示していた。


 *


 その日の午後。


 田中勝、美紀、悠斗の葬儀が行われた。


 混乱の中だった。


 町はまだ復旧しておらず、道路も寸断され、親戚も祖父母もそれぞれ被災していた。来たくても来られない人が大勢いた。


 だから、田中家を見送る家族は、たった一人だった。


 田中小百合。


 九歳の少女が、父と母と兄を見送ることになった。


 *


 安置された三人の姿は、あまりにも痛ましかった。


 津波の力は、人の体からも、人の尊厳からも、容赦なく多くを奪っていた。


 父も、母も、兄も、傷だらけだった。


 小百合が知っている家族の顔とは違って見えた。


 けれど、間違いなく家族だった。


 父の大きな手。

 母の髪。

 兄の作業着の名札。


 小百合は、泣かなかった。


 泣けなかった。


 涙が出る場所まで、心が届いていないようだった。


「お父さん」


 声にはならなかった。


「お母さん」


 唇だけが動いた。


「兄ちゃん」


 その名前も、音にならなかった。


 *


 白田先生は、小百合の隣にいた。


 先生も同じ日に、自分の家族を見送っていた。


 両親。

 夫。


 ほんの少し前まで、これから一緒に生きていくはずだった人たち。


 先生の心も、限界だった。


 崩れ落ちてもおかしくなかった。


 それでも先生は、小百合の肩に手を置いた。


 小百合は小さな体で、三つの棺の前に立っていた。


 白い花が置かれる。


 線香の煙が静かに上がる。


 読経の声が、遠くの世界の音のように聞こえる。


 小百合は、ただ立っていた。


 父に抱きしめられることは、もうない。

 母に叱られることも、もうない。

 兄にからかわれることも、もうない。


 それを理解するには、小百合はまだ幼すぎた。


 けれど、理解できなくても、現実はそこにあった。


 *


 葬儀が終わったあと、小百合は動けなくなった。


 その場に座り込み、目の焦点が合わないまま、何もない空間を見つめていた。


 白田先生は、そっと小百合を抱きしめた。


「小百合ちゃん」


 小百合は返事をしない。


「先生もね」


 先生の声が震えた。


「先生も、家族を見送ったよ」


 小百合のまつ毛が、ほんの少し動いた。


「お父さんも、お母さんも、夫も……もういない」


 先生は、小百合を抱いたまま泣いた。


 けれど、声は荒げなかった。


「でもね、小百合ちゃん」


 先生は息を吸った。


「先生、あなたを一人にしたくない」


 小百合はゆっくり顔を上げた。


 白田先生の目は真っ赤だった。


「小百合ちゃん」


 先生は、静かに言った。


「先生と一緒に暮らす?」


 小百合は答えなかった。


 声が出なかった。


 けれど、白田先生の服を、小さな手で握った。


 強くはない。


 ほんの少し。


 それでも、それは小百合が今できる精一杯の返事だった。


 白田先生は、その手を両手で包んだ。


「うん」


 先生は泣きながら笑った。


「一緒にいよう」


 *


 親友のいない教室。


 家族のいない家。


 戻らない日常。


 小百合は、あまりにも多くを失った。


 けれどその日、完全に一人になる寸前で、白田先生の腕が小百合を抱きとめた。


 それは救いというには、あまりにも痛々しかった。


 でも、たしかにそこにあった。


 声を失った少女と、家族を失った先生。


 二人は、同じ喪失の底で、かすかに手をつないだ。


 次回予告

 第19話「泣けない夜」


 白田先生と暮らすことになった小百合。


 けれど、新しい生活はすぐに始まらない。


 避難所の夜。

 眠れない毛布。

 父と母と兄のいない現実。


 泣きたいのに、泣けない。


 叫びたいのに、声が出ない。


 白田先生は、そんな小百合の隣で静かに寄り添う。


 次回、

 第19話「泣けない夜」


 涙さえ出ない悲しみの中で、二人の夜が始まる。

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