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海の声が聞こえなくても・土讃線が止まった秋  作者: リンダ


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ひとりだけ助かった命

第17話


ひとりだけ助かった命


 小百合は生き残った。


 けれど、それは喜びではなかった。


 避難所では、家族と再会する子どもたちがいた。


「無事でよかった!」


「怖かったね!」


「もう大丈夫やき!」


 泣きながら抱きしめられる友達。


 親の胸に顔をうずめる子。


 兄弟と手をつなぐ子。


 その横で、小百合は立ち尽くしていた。


 父はいない。


 母はいない。


 兄はいない。


 美波もいない。


 誰も、小百合を迎えに来ない。


     *


 白田栄子先生が、小百合のそばに座った。


「小百合ちゃん」


 小百合は膝を抱えていた。


 声はほとんど出なくなっていた。


 けれど、その日、小百合は小さく唇を動かした。


「……私も」


 先生は耳を近づけた。


「うん?」


「私も……お父さんと……お母さんと……お兄ちゃんのところに……行きたい」


 白田先生の顔が歪んだ。


「小百合ちゃん」


 小百合の目は空っぽだった。


「なんで……私だけ……」


 その問いに、答えはなかった。


 白田先生は、小百合を抱き寄せた。


「行かないで」


 先生の声が震えた。


「お願い。行かないで」


 小百合は抵抗しなかった。


 ただ、先生の腕の中で、目だけを開けていた。


     *


 発災から十日。


 被害は、さらに広がっていた。


 ラジオから流れる声は、日に日に重くなっていく。


「南海トラフ巨大地震による死者は、全国で一万人を超えました」


 避難所が静まり返る。


「行方不明者は五千人を超え、今後さらに増える可能性があります」


 誰も言葉を発しなかった。


 数字が大きすぎた。


 人の数ではなく、何か別のもののように聞こえた。


 けれど、その一人ひとりに家があり、名前があり、待っている人がいた。


 小百合の父も。

 母も。

 兄も。

 美波も。


 その数字の中に入ってしまった。


     *


 台風二十一号の大雨で、山の地盤はすでに緩んでいた。


 そこへ、巨大地震の揺れが襲った。


 山間部では土砂崩れや崖崩れが相次いだ。


 大量の土砂が川をせき止め、天然のダムのようになっている場所もあった。


 やがて、それが耐えきれずに崩れれば、下流へさらに大きな被害をもたらす。


 地震は、海だけを壊したのではなかった。


 山も、川も、道路も、町も、暮らしそのものも壊していた。


     *


 その日の午後。


 また、強い揺れが来た。


 最初は小さな震えだった。


 しかし、すぐに床が大きく揺れた。


「余震です!」


 誰かが叫んだ。


 避難所に悲鳴が広がる。


「頭を守って!」


「壁から離れて!」


 白田先生は、近くにいた子どもたちを必死に抱き寄せた。


「大丈夫? 大丈夫やきね!」


 先生自身も震えていた。


 それでも、子どもたちを抱きしめた。


 小百合も先生の腕の中にいた。


 揺れが来るたびに、父たちの最期を想像してしまう。


 建物が揺れたのだろうか。


 火が迫ったのだろうか。


 海が押し寄せたのだろうか。


 小百合は耳をふさいだ。


 でも、心の中の音は消えなかった。


     *


 揺れが収まって間もなく、ラジオが新たな警報を伝えた。


「沿岸部に津波警報が発表されました。海岸や河川には絶対に近づかないでください」


 避難所に、再び緊張が走った。


 もう逃げる場所にいる。


 それでも、人々の顔から血の気が引いた。


 また海が来る。


 また何かを奪う。


     *


 その余震による津波は、残っていたものまで奪っていった。


 田中水産。


 父と母と兄が働いていた場所。


 最初の津波で破壊され、鉄骨だけが残されていた工場。


 小百合にとっては、それでもまだ「そこにあった証」だった。


 父がいた証。


 母がいた証。


 兄がいた証。


 夢があった証。


 しかし、余震後の津波は、その鉄骨さえも引きはがし、押し流していった。


 後にその知らせを聞いた時、小百合は何も言わなかった。


 言えなかった。


 家が消えた。


 学校が壊れた。


 秘密基地がなくなった。


 家族がいなくなった。


 美波がいなくなった。


 そして今、家族が働いていた場所の最後の骨まで消えた。


 小百合の中で、何かがさらに深く沈んだ。


     *


 白田先生は、小百合の手を握った。


「小百合ちゃん」


 小百合は反応しない。


「ここにいて」


 先生は、何度も言った。


「ここにいて。お願い。生きていて」


 小百合の目は、遠くを見ていた。


 どこか、もうこの場所ではないところを。


 父のところへ。


 母のところへ。


 兄のところへ。


 美波のところへ。


 その目を見て、白田先生は怖くなった。


 自分もすべてを失った。


 両親も夫もいない。


 それでも今、目の前の子を失ってはいけないと思った。


「小百合ちゃん」


 先生は小百合を抱きしめた。


「私も、いなくなられたら困る」


 小百合のまつ毛が、わずかに震えた。


「先生も……ひとりになった」


 白田先生の声は、涙で途切れた。


「でも、小百合ちゃんがここにいるから、私もここにいる」


 小百合は何も言わなかった。


 けれど、先生の服をほんの少しだけ握った。


     *


 助かった命。


 それは、温かい言葉のようでいて、小百合には刃物のようだった。


 なぜ自分だけ。


 なぜ自分は山の上にいたのか。


 なぜ父ではなく。


 なぜ母ではなく。


 なぜ兄ではなく。


 なぜ美波ではなく。


 答えのない問いが、何度も小百合を責める。


 避難所の片隅で、小百合は声を失ったまま、生き残ってしまった自分を責め続けていた。


 外では、また冷たい風が吹いていた。


 海は見えない。


 けれど、海の気配だけが、ずっと小百合の胸に残っていた。



次回予告


第18話「親友のいない教室」


 避難生活が続く中、子どもたちは仮設の教室へ集められる。


 壊れた学校。

 戻らない友達。

 空いた席。


 そこに、美波はいない。


 小百合の隣に座っていたはずの親友は、もういない。


 先生は授業を始めようとする。

 けれど、教室には重たい沈黙が広がる。


 名前を呼ばれない席。

 開かれないスケッチブック。

 描かれるはずだった小百合の絵。


 次回、

 第18話「親友のいない教室」


 日常に戻ろうとするほど、失ったものが見えてくる。

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