声が出ない
第16話
声が出ない
避難所には、子どもたちがいた。
泣き続ける子。
親から離れられなくなった子。
夜になると震え出す子。
少しの物音で飛び起きる子。
誰も無傷ではなかった。
大翔は父と再会できたが、母の安否はまだわからなかった。
陽菜は家を失い、祖母の名前を名簿の中に探し続けていた。
蓮はほとんど話さなくなり、壁際でじっと膝を抱えていた。
隆も、いつものように小百合をからかうことはできなくなっていた。
けれど、その中でも小百合の変わりようは、誰の目にも明らかだった。
*
「田中さん」
白田栄子先生が声をかける。
小百合は壁にもたれたまま、ぼんやり前を見ていた。
「聞こえてる?」
小百合の目が、ゆっくり先生の方へ動く。
聞こえている。
でも、返事はない。
「少しだけ、水を飲もう」
白田先生は紙コップを差し出した。
小百合はそれを見る。
けれど、手を伸ばさない。
「田中さん」
先生は声をやわらかくした。
「喉、乾いてるよね」
しばらくして、小百合は小さくうなずいた。
それだけだった。
白田先生は、ゆっくり紙コップを持たせた。
「一口でいい」
小百合は、ほんの少しだけ水を飲んだ。
「飲めたね」
先生が言うと、小百合は目を伏せた。
褒められても、表情は動かなかった。
*
食事の時間になった。
配られたのは、少しのご飯と保存食だった。
白田先生は小百合の前に座った。
「田中さん。少し食べよう」
小百合は首を横に振る。
「食べないと、体がもたない」
返事はない。
「お腹、空いてない?」
小百合はかすかに口を動かした。
「……うん」
その声は、ほとんど空気のようだった。
白田先生は胸が痛んだ。
昨日まで、小百合の声は避難所の外まで届きそうなほど大きかったはずだ。
運動会で走り、タイガースを応援し、友達と笑い、兄に言い返していた声。
それが今は、「うん」と言うだけで精一杯になっている。
「じゃあ、一口だけ」
小百合は動かない。
「お願い。一口だけでいい」
長い沈黙のあと、小百合は小さくうなずいた。
「……はい」
白田先生は、ご飯をほんの少し箸に取った。
小百合はそれを口に入れた。
飲み込むまでに、ずいぶん時間がかかった。
「えらいね」
先生が言った。
その瞬間、小百合の目に涙が浮かんだ。
けれど、泣き声は出なかった。
涙だけが、静かに頬を伝った。
*
白田先生も、泣きたかった。
自宅は全壊した。
両親も、結婚したばかりの夫も亡くなった。
先生自身も、帰る場所を失っていた。
けれど、目の前の小百合を放っておくことはできなかった。
先生は、自分の悲しみを抱えたまま、小百合に話しかけ続けた。
「田中さん」
返事はない。
「今日は寒いね」
返事はない。
「毛布、もう一枚かけようか」
小百合は少しだけうなずく。
「うん?」
小百合はかすれた声で言った。
「……はい」
その二つだけだった。
うん。
はい。
小百合の言葉は、そこまで小さくなっていた。
*
隆が、少し離れた場所から小百合を見ていた。
以前なら、こう言ったはずだった。
「小百合、声小さいぞ」
でも、言えなかった。
今の小百合に、そんな言葉は投げられなかった。
大翔も、陽菜も、蓮も、誰も近づけずにいた。
美波はもういない。
小百合の隣で、いつも小さく笑っていた親友は、もういない。
その空白が、小百合の周りにぽっかり穴を開けていた。
*
夜。
避難所の灯りが落とされる。
人々は毛布にくるまり、眠ろうとする。
けれど、小百合は目を閉じられなかった。
目を閉じると、聞こえる。
父の声。
母の声。
兄の声。
美波の声。
そして、津波の音。
小百合は両手で耳をふさいだ。
でも、音は消えなかった。
胸の中から聞こえてくる。
「お父さん」
言おうとした。
けれど、声にならなかった。
「お母さん」
唇だけが動いた。
「兄ちゃん」
喉が震えた。
でも、音は出なかった。
小百合はそのまま、毛布の中で丸くなった。
泣き声も出ない。
叫ぶこともできない。
言葉が、体のどこかで止まっている。
白田先生は少し離れた場所から、それを見ていた。
そして、そっと近づいた。
「小百合ちゃん」
初めて、先生はそう呼んだ。
小百合は顔を上げた。
「声、出なくてもいい」
先生は静かに言った。
「今は、出なくてもいいから」
小百合の目が揺れた。
「でも、生きてて」
白田先生の声も震えていた。
「お願い。息だけしてて」
小百合は何も言わなかった。
ただ、涙だけが流れた。
その涙を見て、白田先生も泣いた。
声を出さずに。
小百合と同じように。
*
小百合の世界から、声が消えていく。
聞こえている。
見えている。
感じている。
でも、返せない。
言葉にしたら、すべてが本当になってしまう気がした。
父がいないこと。
母がいないこと。
兄がいないこと。
美波がいないこと。
家も、学校も、秘密基地も、何も戻らないこと。
だから、小百合の心は言葉を閉ざした。
生きるために。
これ以上壊れないために。
九歳の少女は、避難所の片隅で、静かに声を失っていった。
次回予告
第17話「ひとりだけ助かった命」
小百合は生き残った。
けれど、それは喜びだけではなかった。
なぜ自分だけ。
なぜ父ではなく。
なぜ母ではなく。
なぜ兄ではなく。
なぜ美波ではなく。
避難所で再会を果たす子どもたち。
家族に抱きしめられる友達。
その横で、小百合は声を失ったまま立ち尽くす。
生きていることが、罪のように思えてしまう。
次回、
第17話「ひとりだけ助かった命」
助かった命が、少女の心を責め続ける。




