ゴブリン相手に、まず武器を置いてみた
古い礼拝堂の中には、湿った石と古い木材の匂いが満ちていた。
俺達の前にいるゴブリンは、背後に倒れた小さな仲間を庇うように両腕を広げている。
緑色の肌に尖った耳。身長は俺の胸ほどしかないが、その手には錆びた短剣が握られていた。
「ギ……ギィ……!」
威嚇しているつもりなのだろう。
けれど短剣を握る手は小さく震えていて、少なくとも今すぐ俺達へ飛びかかろうとしているようには見えなかった。
「ユウト、下がってください」
リリアが俺の前へ一歩出る。
「ゴブリンは集団で人を襲うことがあります。近くに仲間が潜んでいる可能性もあります」
「分かってる。でも、あいつ逃げないだろ?」
「それは……」
リリアもゴブリンの背後を見る。
石床の上には、さらに小柄なゴブリンが横たわっていた。子供なのかどうかは俺には分からないが、片脚は黒紫色に大きく腫れ、呼吸もかなり浅い。
ノアの表情が険しくなる。
「《夜棘》の毒です。このまま放置すれば危険です」
「治せる?」
「近くで状態を確認できれば、おそらく」
「よし」
「待ってください」
すぐ動こうとした俺を、リリアが止めた。
「近づくつもりですか?」
「そのためにここまで来たんだろ?」
「相手はゴブリンですよ」
「だからって、目の前で倒れてるのを見ながら帰るのも違う気がする」
俺自身、ゴブリンについて詳しいわけじゃない。
人を襲う。
物を奪う。
冒険者に討伐される。
この世界に来てから耳にしたのは、だいたいそんな話だった。
だからこそ、目の前にいる二匹だけを見て「ゴブリンだから敵」と決めるのも違うと思った。
「ユウト」
リリアが少し困ったように俺を見る。
「あなたは時々、恐ろしいほど警戒心がありませんね」
「逆。めちゃくちゃ怖い」
「そうは見えませんが」
「足、ちょっと震えてるから」
ミミナが俺の足元を見る。
「ほんとだ」
「見るな!」
怖いものは怖い。
戦闘能力が高ければ、格好良く前へ出られるのかもしれない。
残念ながら俺にはそんな能力はない。
だからこそ、できるだけ戦わずに済む形を作るしかない。
俺は腰の短剣を抜き、ゴブリンから見える位置へゆっくりと置いた。
「ユウト!?」
「武器を持ったまま近づくよりマシだろ」
両手を広げて見せる。
「ほら。何もしない」
「ギ……?」
ゴブリンの視線が、地面の短剣から俺の手へ移る。
「ノア」
「はい」
「俺の後ろに来て」
「分かりました」
「リリアとミミナはそのまま。何かあったら頼む」
「任せて!」
「ミミナさんは、まだ何もしないでください」
「分かってるよ!」
ノアからの信用が、すでに俺と同じくらい低い気がする。
俺はゆっくりとゴブリンへ近づいた。
一歩進むたび、錆びた短剣がわずかに持ち上がる。
「大丈夫」
言葉が通じるとは思っていない。
それでも、なるべく普通に笑ってみせる。
「そいつ、助けたいんだろ?」
倒れているゴブリンを指し、次にノアを示す。
「この人なら治せる」
「人、で結構です」
「今そこ訂正する?」
「大切です」
「後でいい!」
こんな状況でもいつも通りなのが、逆にありがたい。
立っているゴブリンは、俺、ノア、倒れている仲間の順に何度も視線を動かした。
「ギ……ニン……ゲン……」
「え?」
小さな声だった。
「今、喋った?」
「一部のゴブリンは人間の言葉を覚えることがあります」
リリアが後ろから答える。
「個体差はありますが」
「ニンゲン……コロス……」
「いきなり物騒!」
思わず足を止めると、ゴブリンが慌てて首を横へ振った。
「チガウ! ニンゲン……ゴブリン……コロス」
「……人間がゴブリンを殺す?」
ゴブリンが何度も頷く。
つまり、こいつが俺達を警戒している理由は、こちらがゴブリンを警戒している理由と大して変わらないのかもしれない。
「今日は殺さない」
「ユウト」
リリアが静かに口を挟む。
「断言するのですか?」
「少なくとも、今この二匹を殺す理由はないだろ?」
リリアは少しだけ黙ったあと、剣から手を離した。
「……分かりました」
それを見たゴブリンの短剣も、ほんの少しだけ下がる。
俺は自分の胸を指差した。
「ユウト」
「……ユ、ウト」
「そう」
次にノアを指す。
「ノア」
「ノア」
ノアも小さく頭を下げる。
「治療をします。触れても?」
「そんな丁寧な日本語、通じる?」
「患者への礼儀です」
「徹底してるな」
俺は身振りを加えながら、倒れているゴブリンを指す。
「ノア。治す」
「……ナオス?」
「そう。助ける」
ゴブリンの大きな黄色い目が揺れた。
しばらく迷ったあと、ゆっくり横へ退く。
「……タスケル」
「任せろ」
「ユウトは治療しませんよね?」
「ノア、今ちょっと格好つけさせて」
◇
「かなり深く刺さっていますね」
ノアが負傷したゴブリンの脚を確認する。
黒紫色の腫れは膝の近くまで広がっていた。
「昨日のガレスさんより酷い?」
「はい。体が小さい分、毒の回りも早いです」
「治せる?」
「治します」
即答だった。
「費用は?」
「ユウト」
「ごめん」
さすがに今は聞く場面ではなかったらしい。
ノアは両手を傷口へかざす。
「《浄化》」
柔らかな金色の光が、暗い礼拝堂を照らした。
倒れていたゴブリンの体がびくっと震え、傷口から黒紫色の靄のようなものが浮かび上がる。
「ギャッ……!」
「大丈夫です。少しだけ我慢してください」
ノアは相手がどこまで理解しているかに関係なく、いつもと変わらない声で話しかけていた。
俺の隣にいるゴブリンは、不安そうに仲間を見つめている。
「ミミナ」
「なに?」
「何か手伝える?」
「回復魔法は使えないけど、ノアの魔力消費を少し抑える付与ならできるかも」
「勝手にやるなよ」
「もう分かってるって!」
「対象は?」
「ノア!」
「効果は?」
「魔力効率上昇!」
「強さは?」
ミミナが一度考える。
「二十パーセント」
「時間は?」
「五分」
「ノア、問題ある?」
ノアが治療を続けながら答える。
「それならお願いします」
「了解!」
ミミナの杖から淡い青色の光が伸び、ノアの体を包む。
「……これは便利ですね」
「でしょ!」
「神殿向けに商品化できそうです」
「治療中でも商売考えるの!?」
ノアは治療中でもノアだった。
数分後、黒紫色だった脚から毒の色が消えていく。
「《癒しの灯》」
最後に淡い金色の光が傷口を包み、裂けていた皮膚がゆっくり閉じていった。
「これで大丈夫です」
小さなゴブリンの呼吸が落ち着く。
「ギ……?」
やがて、ゆっくり目を開けた。
隣にいたゴブリンが弾かれたように駆け寄る。
「ギィ! ギィ!」
「……ギ」
二匹が額を寄せる。
言葉は分からない。
それでも、仲間が助かったことを喜んでいるのは俺にも分かった。
ノアはその姿を見ながら、ほんの少しだけ微笑んでいる。
「人間と変わらないな」
俺が呟くと、リリアが隣へ来た。
「何がです?」
「仲間が助かって嬉しいって顔」
「……」
「俺、ゴブリンって、人間を見つけたら問答無用で襲ってくるものだと思ってた」
「実際に、人を襲う集団はいます」
「だろうな」
ここで急に「ゴブリンはみんな良い奴だ」と決めつけるほど、俺も単純ではない。
人を襲うゴブリンもいるのだろうし、人間だって全員が善人じゃない。
目の前の二匹を見て分かったのは、この世界が俺の想像よりずっと単純ではないということだけだった。
「ユウト」
「ん?」
「あなたは、不思議な方ですね」
「弱いって意味?」
「今日はまだ言っていません」
「今日は?」
リリアが小さく笑った。
◇
治療が終わると、元気だった方のゴブリンが俺達の前へやってきた。
「ニンゲン……タスケタ」
「まあ、主にノアが」
「治療費は後払いです」
「本当に請求するの!?」
ノアは真顔だった。
ゴブリンは意味が分からなかったらしく、首を傾げる。
「いや、もういいんじゃない?」
「よくありません」
「相手ゴブリンだぞ?」
「患者です」
強い。
仕方なく俺が身振りで説明しようとしていると、ゴブリンが腰の小さな袋を探り始めた。
「……?」
取り出したのは、指先ほどの青く光る小石だった。
「これを?」
「キレイ。カネ?」
「いや、俺に聞かれても」
ノアが石を受け取り、光へかざして確認する。
しばらく眺めたあと、静かに頷いた。
「では、これで」
「いいの!?」
「本人が価値のあるものとして差し出したのですから、治療費として受け取ります」
「通常二十五ゴールドの話、どこ行った?」
「異種族向けの料金規定はありません」
「規則の穴を最大限利用してる!」
ゴブリンはノアが石を受け取ったのを見て安心したらしい。
「ナオシタ。カネ、ハラッタ」
「ちゃんと理解してる!」
「優秀な患者ですね」
ノアもどこか満足そうだった。
変なところで相性が良い。
「それより」
リリアがしゃがみ込み、ゴブリンと目線を合わせる。
「なぜ、ここにいるのです?」
当然、そのままでは通じにくい。
俺も横へしゃがみ、知っている単語と身振りを組み合わせる。
「家?」
「イエ……ナイ」
「ない?」
「クロイ……トゲ。イッパイ」
俺達の表情が変わった。
「《夜棘》?」
ゴブリンが礼拝堂の外を指差す。
「トゲ、キタ。モリ、キタ。イエ、ダメ」
「住処が《夜棘》に覆われたのか?」
「ダメ。ニゲタ」
ノアが立ち上がる。
「やはり、この礼拝堂周辺だけではないようですね」
「場所は分かる?」
俺が聞くと、ゴブリンは少し考えたあと、床へ落ちていた木片を拾った。
埃の積もった石床へ線を引いていく。
「地図?」
ミミナが隣へしゃがみ込む。
大雑把ではあるが、森らしい線と川、それから山の形が描かれていく。
その山の麓に、ゴブリンが大きな丸をつけた。
「この辺りに《夜棘》が多い?」
「クロイ、トゲ。ソコ、イッパイ」
「何か原因を見た?」
質問の意味が伝わるよう、俺は地面へ何かを置く仕草をしてみせた。
するとゴブリンの表情が変わった。
「ヒト」
「人?」
「クロイ、ヒト」
俺達は顔を見合わせる。
「黒い服?」
自分の服を指し、それから色を示す。
ゴブリンは何度も頷いた。
「クロイフク。トゲ、オク」
「……黒い服の人が《夜棘》を置いていた?」
ゴブリンが曖昧に頷く。
完全に言葉が通じているわけではない。
だから断定はできない。
それでも、少なくとも何者かの姿を見た可能性はある。
リリアの表情から笑みが消えた。
「自然発生だけではない可能性も考えるべきですね」
「なんのために?」
「それを調べる必要があります」
ゴブリンはさらに山の近くへ何かを描いた。
入口のような形だ。
「洞窟?」
「フルイ、アナ」
ノアが地図を見る。
「この位置なら、おそらく旧鉱山です」
「知ってる?」
「十年ほど前に閉鎖された鉱山があります。この礼拝堂から北へ半日ほどです」
「《夜棘》、魔物の移動、旧鉱山……」
今まで別々に見えていたものが、少しずつ同じ場所へ集まり始めている。
俺は床に描かれた地図を見下ろした。
「なんか、嫌な感じになってきたな」
「ようやく冒険者らしくなってきましたね!」
ミミナが楽しそうに言う。
「俺はもっと薬草採取とか、そういう平和な仕事をしたかったんだけど!」
「それは冒険というより採集ですね」
「俺にはそれくらいがちょうどいいの!」
そんなやり取りをしていると、服の裾を軽く引かれた。
「ん?」
さっき治療された小さなゴブリンが、俺の服を掴んでいる。
「どうした?」
「ユウト」
「名前覚えた?」
小さなゴブリンは俺の顔を見上げる。
それから、ぎこちなく口元を上げた。
笑ったのだと思う。
その瞬間、胸の奥が小さく震えた。
『《縁 -enishi-》――接続対象を確認』
「……え?」
淡い光が、一瞬だけ俺とゴブリンの間へ現れる。
しかし光はすぐに揺らぎ、文字もそれ以上続かなかった。
俺はその場で固まった。
「ユウト?」
リリアがこちらを見る。
「どうしました?」
「いや……」
俺は小さなゴブリンを見る。
第1話のグランドボアや、第4話のフォレストウルフでも、《縁》は魔物に反応した。
だから魔物と《縁》が生まれる可能性そのものは、もう知っている。
それでも。
人間社会では「討伐対象」として語られるゴブリンと向き合い、治療し、名前を呼ばれ、そのうえ《縁》まで反応する。
それは、今までとは少し違って感じられた。
「……魔物って、何なんだろうな」
「ユウト?」
「こっちの話」
小さなゴブリンは、もう一度俺へ笑いかける。
この時の俺には、まだ答えは分からなかった。
ただ一つだけ。
人間と魔物を隔てている線は、俺が思っていたよりずっと曖昧なのかもしれない。
そんな気がした。
――第九話 終
最後までお読みいただきありがとうございます!
ユウト達は、礼拝堂で負傷していたゴブリンを治療しました。
そして判明したのは、
ゴブリン達の住処まで《夜棘》に侵食されていること。
さらに「黒い服の人物」と「旧鉱山」という新たな手掛かりも現れます。
そして《縁 -enishi-》は、再び魔物へ反応しました。
次回、人間側から見れば「討伐対象」であるゴブリンを巡って、ユウト達は新たな冒険者達と向き合います。
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