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『剣も鎧も重すぎる! ~異世界で使えるのは笑顔と口先だけでした~』  作者: -eto-
第二章《風渡りの大地と、言葉を聞く魔物たち編》

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初めての船旅で、俺達を追い抜いたのは家でした

船に乗る前、ネリは俺達にこう言った。


「湿原じゃ、何が動いても驚かないことだね」


その時は、昨日聞いた浮き島の話をしているのだと思っていた。ところが、実際に船へ乗ってみると、その言葉には俺の想像をはるかに超える意味があったらしい。


何しろ、出発して間もない俺達の船を追い抜いていったのは、一軒の家だったのだから。


◇


翌朝、俺達が《渡りの泉》の船着き場へ到着すると、ネリはすでに出発の準備を進めていた。


船の上には木箱や麻袋が整然と並べられ、荷物の間には太い縄が渡されている。昨日と違って屋根の下には五人分の座る場所が確保され、周囲には水に濡れないよう布が敷かれていた。


「おはようございます!」


声をかけると、ネリは荷物を固定していた手を止めた。


「おや、早いじゃないか。もう少し遅く来るかと思ってたよ」


「昨日から楽しみにしてたんです!」


「そんなに船が珍しいのかい?」


「はい!」


即答した俺を見て、ネリは声を上げて笑った。


「いいねえ。そういう客は嫌いじゃないよ。ただし、乗ってる間は私の言うことを聞いてもらうからね」


「もちろんです!」


船へ乗り込む前に、ネリは改めて注意事項を説明してくれた。


移動中は勝手に立ち上がらないこと。船の縁から身を乗り出さないこと。水に落としたものを無理に拾おうとしないこと。そして、万が一船が止まっても、船頭の指示があるまでは動かないこと。


どれも当然の話に聞こえる。けれど、実際に水の上へ出るとなれば、簡単な決まりほど大切なのだろう。


「それと、船の両側で長い棒を使うから、荷物や手を出さないでおくれ。狭い場所じゃ、あの棒がないと進めないこともあるんだ」


「分かりました」


頷くと、リリアも真剣な表情で船の構造を確認していた。


彼女の腰にはいつも通り剣があるが、今日は鞘を布で固定している。船内で何かに引っかかったり、ほかの乗客にぶつかったりしないようにするためらしい。


こういう細かなところまで気を配れるのは、さすがリリアだ。


もっとも、道案内まで任せると別の心配が出てくる。だから今回は、ネリに任せることにしている。


「ユウト、先に乗っていいよ」


ミミナに促され、船へ足をかけた。


桟橋から船へ渡された木の板を踏むと、足元がわずかに揺れる。


「おっと……!」


体勢を崩しかけたところで、リリアが後ろから腕を支えてくれた。


「大丈夫ですか?」


「ああ、ありがとう。まだ出発もしてないのにな」


苦笑すると、ネリが楽しそうに言った。


「船は地面じゃないからね。慣れないうちは、足元ばかり見てるより、ゆっくり動いた方がいいよ」


「覚えておきます……」


先が思いやられる。


それでも、全員が無事に乗り込むと、胸の奥から期待が湧いてきた。


ネリともう一人の船員が荷物を確かめ、船を岸につないでいた縄を外していく。


「それじゃ、ミオラへ向けて出発するよ!」


ネリの声とともに、長い棒が水底へ差し込まれた。


船体がゆっくり動き出し、桟橋が少しずつ遠ざかっていく。


俺達の初めての湿原の船旅が、ようやく始まった。


◇


水路へ出て最初に驚いたのは、船の静かさだった。


風帆車に乗った時は、車輪の音や帆が風を受ける音が絶えず響いていた。けれど、この船では、水を押す棒の音と、船底を撫でるような水音が聞こえる程度だ。


速度も決して速くはない。それでも、両側に広がる葦の間を進んでいく感覚は、今まで経験したどの乗り物とも違っていた。


「……すごいな」


船の縁から少し離れた席に座り、周囲の景色を眺める。


水面には青空が映り、細い雲が船の進行方向へ長く伸びていた。ところどころに浮かぶ白い花や小さな水草が、船の作る穏やかな波を受けて、ゆっくり揺れている。


少し離れた葦の茂みでは、長い脚を持つ白い鳥が水の中を歩いていた。


鳥は俺達の船を一度だけ見たものの、すぐに水面へ嘴を向けた。


「ユウト、見て。あっちにも何かいるよ」


ミミナが指さした先では、小さな魚が何匹も水面近くを泳いでいた。


太陽の光を受けた鱗が銀色に輝き、群れが方向を変えるたびに、水の中へ細かな光の帯が生まれる。


「……綺麗だな」


「でしょ? 水が透き通ってるから、よく見えるね」


ミミナは嬉しそうに笑った。


ふと顔を上げると、少し離れた浮き島の上を、風膜獣らしき生き物が歩いていた。


背中の薄い膜が風を受けて揺れている。その姿は、昨日《渡りの泉》で見たものによく似ていた。


「ロアン、あれって風膜獣かな?」


「ああ、たぶんな。ただ、遠いから断定はできないぞ」


「そっか」


眺めている間にも、風膜獣らしき群れは浮き島の奥へ姿を消していった。


あの生き物達も、この広い湿原のどこかで暮らしているのだろう。


そんなことを考えていると、船の前方に立っていたネリが声をかけてきた。


「もうすぐ少し狭い水路へ入るよ。揺れるかもしれないから、ちゃんと座ってな」


頷いて、改めて座り直す。


船は葦の間を縫うように進み、やがて両側の植物が、手を伸ばせば届きそうなほど近づいてきた。


背の高い葦が視界を遮り、先ほどまで広がっていた青空も、細長い隙間からしか見えない。


「……何だか、迷路みたいだな」


呟くと、ロアンが周囲を見回した。


「確かに。ここで道を間違えたら、どこへ出るのか分からなくなりそうだ」


「だから地図だけを信じちゃ駄目なんだよ」


ネリは前を見たまま答えた。


「この先にも水路が分かれる場所があるけど、昨日と同じ道を通れるとは限らないからね」


そう言って、彼女は長い棒を水の中へ差し込んだ。


棒の先端が水底に届くと、手元の印を確認している。


「……何してるんですか?」


「水の深さを確かめてるのさ。見た目には同じような水面でも、場所によってずいぶん違うからね」


「なるほど」


「それに、浮き島が動くと水の流れも変わる。昨日は深かった場所でも、今日は底に泥が溜まってることがあるんだ」


ネリは棒を引き上げると、少し右側へ船を向けた。


俺にはどちらも同じ水路に見えた。けれど、彼女には何か違いが分かるらしい。


しばらく進むと、葦の向こうから明るい光が差し込んできた。


再び視界が開け、広い水面が目の前に現れる。


その景色に見とれていた時だった。


「……ん?」


遠くから、何か大きなものが近づいてくる。


最初は、荷物を高く積んだ船かと思った。けれど、どう見ても屋根がある。しかも、その下には窓までついていた。


「……ネリさん」


「何だい?」


「あれ、船ですか?」


指さすと、ネリはちらりと視線を向けた。


「ああ。引っ越しの途中みたいだね」


「……引っ越し?」


その時、葦の向こうから現れたものの全体が見えた。


木製の大きな筏の上に、壁と屋根のついた一軒の家が載っている。


玄関らしい扉もあれば、小さな窓もあり、軒先には洗濯物まで吊るされていた。その前方では、二隻の細長い船が太い縄で、家を載せた筏を引いている。


「……家じゃん!」


声が出た。


「家が水の上を走ってる!」


「走ってるんじゃなくて、引っ張ってるんだよ」


ネリが笑いながら訂正する。


いや、そこは分かっている。分かってはいるけれど、目の前を家が移動している光景なんて、生まれて初めて見たのだ。


「ユウト、すごいよ! 本当に家が動いてる!」


ミミナも目を輝かせている。


騒いでいる間にも、家を載せた筏はゆっくりと近づき、十分な距離を保ちながら、横を通り過ぎていった。


しかも、こちらの船より少し速い。


「……追い抜かれた」


呆然と呟くと、ロアンが笑った。


「荷物を積んだ船なんだから、仕方ないだろ」


「いや、でも家に追い抜かれるって、なかなか経験できないぞ」


その言葉に、ネリまで肩を揺らした。


遠ざかっていく家を、改めて見つめる。


窓から顔を出した子供が、こちらへ手を振っていた。手を振り返すと、子供は嬉しそうに笑い、すぐに家の中へ引っ込んでいった。


「……すごいな、この世界」


呟くと、ネリが頷いた。


「湿原じゃ、ああいう家も珍しくないよ。水の深さや季節に合わせて、住む場所を変える人達もいるんだ」


「家ごと引っ越すんですね」


「ああ。もちろん、杭を立てて固定した家もあるし、みんなが動かすわけじゃないけどね」


ネリはそう言って、遠ざかる筏を眺めた。


「……ただ、あの家が移るには少し早い気もするね」


「早い?」


「例年なら、もうしばらく北側にいるはずなんだけど」


彼女は小さく首を傾げたが、それ以上は何も言わなかった。


俺もその時は、特に気にしなかった。この土地には、この土地なりの事情があるのだろう。


何より、家が引っ越すという光景だけで、頭の中がいっぱいになっていた。


◇


船旅が始まってしばらくすると、俺達は湿原の中でも特に広い水路へ出た。


左右には背の高い葦が続いているが、中央部分は見渡す限り水面が広がっている。遠くにはいくつもの浮き島が見え、その間を小さな船が行き交っていた。


よく見ると、浮き島の中には、背丈の高い木が生えているものまである。


「……あんな大きな島も動くんですか?」


「動くものもあるよ」


ネリが頷く。


「ただ、あれほど大きいと簡単には動かないし、根が水底に絡んでる場合もあるからね」


「へえ……」


「見た目だけじゃ、固定された島なのか浮いている島なのか分からないこともある。だから、知らない場所へ勝手に降りちゃいけないんだ」


昨日も同じような注意を受けたことを思い出し、素直に頷いた。


そんな話をしていると、ネリが船の速度を落とした。


水路の中央には、細い木の杭が何本か立っている。杭には色の違う布が巻かれ、その近くには小さな木札が吊るされていた。


「……あれ、何ですか?」


「今日の通り道を知らせる目印だよ」


ネリは船をゆっくり進めながら説明した。


「この辺りを通る船乗りが、朝に水路を確かめて印を付け直すんだ。昨日まで使っていた道が通れなくなっていれば、別の場所へ移すこともある」


「じゃあ、毎朝確認するんですか?」


「そういうこと。昨日の地図だけで走るより、よっぽど安全だからね」


木札を見つめる。


そこには簡単な記号が描かれていて、船が通れる場所を示しているらしい。


ネリはその印を確認すると、少し離れた場所へ船を向けた。


同じように見える水面でも、通れる場所と通れない場所がある。その違いを知るために、毎日誰かが道を調べ、次に来る人へ情報を残しているのだ。


「……何だか、道結び祭に似てるな」


呟くと、ロアンが頷いた。


「ああ。あっちは陸の道だったけど、こっちは水の道だな」


少し嬉しくなった。


遠く離れた土地でも、誰かが困らないように情報を残す人達がいる。その積み重ねがあるから、初めて来た俺達も、こうして安心して旅ができるのだろう。


そんなことを考えていた時、ふと水面の様子が気になった。


船のすぐ横を、小さな水草の塊が流れている。風は船の左側から吹いているように感じられた。けれど、水草はそれとは違う方向へ進んでいた。


「……ネリさん」


「何だい?」


「風と水の流れって、別なんですか?」


「ああ。湿原じゃよくあることだよ。風が吹いている向きと、水が流れる向きが同じとは限らない」


ネリは船の横を指さした。


「特に水路が分かれる場所じゃ、流れが複雑になることもあるからね」


「なるほど……」


もう一度、水面を見る。


風が浮き島を動かすこともあれば、水の流れが関係することもある。そして、その変化によって、船の通れる場所まで変わってしまう。


ネリが言っていた「今日の道は自分の目で確かめる」という意味が、少しずつ分かってきた気がした。


◇


昼を過ぎた頃、遠くの水面に建物らしい影が見え始めた。


最初は、小さな島に家が建っているのだと思った。けれど、近づくにつれて、それが普通の集落とはまったく違うことに気づく。


水の上に、家が並んでいる。


木の杭で支えられた建物もあれば、大きな筏の上に建てられた家もあった。その間には細い木の橋が渡され、橋の下を小舟が行き交っている。


屋根には色鮮やかな布が張られ、軒先には魚や薬草らしいものが干されていた。


さらに驚いたのは、家々をつなぐ橋の一部が、取り外せる造りになっていたことだった。


「……あの橋、途中で切れてません?」


尋ねると、ネリが笑った。


「必要な時だけ渡す橋もあるんだよ。船が通る時には外すし、家の位置が変われば、別の場所へ掛け直すこともある」


「へえ……!」


身を乗り出しかけて、慌てて姿勢を戻した。


いけない。ここで船から落ちたら、せっかくの感動が台無しになる。


ネリは俺の様子を見て笑っていたが、何も言わずに船を進めてくれた。


「あれが《ミオラ》だよ」


彼女が集落を指さす。


「北の湿原でも、交易が盛んな水上集落の一つさ」


しばらく、その景色に見入っていた。


水の上には人々の暮らしが広がり、小さな舟が家から家へ荷物を運んでいる。子供達は木の橋を渡って学校らしい建物へ向かい、少し離れた場所では、大人達が魚を選別していた。


水路の片隅には、小さな畑まで作られている。泥の上に直接作物を植えているのではなく、大きな筏の上に土を載せたものらしい。


「……畑まで浮いてるのか」


呟いた。


水の上で暮らすということが、どれほど大変なのかは分からない。けれど、ここに住む人達は、その環境に合わせて様々な工夫を重ねてきたのだろう。


そんな暮らし方を見ているだけで、胸の奥がわくわくしてくる。


「ユウト、すごいところに来たね」


ミミナが隣で微笑んだ。


「ああ。想像してたよりずっと面白いな」


「私、あの浮いてる畑が気になる!」


「俺は家の方かな。あれ、どうやって水の上に固定してるんだろう」


話していると、ネリが船着き場へ向けて大きく手を振った。


岸のない水路の端に、広い木製の桟橋が浮かんでいる。そこには何人もの住民が集まり、船の到着を待っていた。


ネリの船は速度を落とし、桟橋へゆっくり近づいていく。


船員が縄を投げると、桟橋の男性がそれを受け取り、太い柱へ結びつけた。


船が完全に止まるのを確認してから、俺達は順番に降りることになった。


「……おお」


桟橋へ足を下ろした瞬間、声が出た。


地面だと思っていた場所が、わずかに揺れている。この桟橋自体も、水に浮かんでいるらしい。


「ユウト、また驚いてる」


ミミナが笑った。


「いや、だって、足元が動いてるんだぞ?」


「さっきまで船に乗ってたんだから、もう慣れたんじゃないの?」


「船だと思ってる時と、地面だと思ってる時じゃ違うだろ!」


言い返すと、ミミナはさらに楽しそうに笑った。


その横で、ノアが荷物を抱え直している。


「二人とも、通路を塞いでいますよ。ほかの方が降りられません」


「……ごめん」


慌てて脇へ移動した。


初めての水上集落では、歩くだけでも気をつけた方がよさそうだ。


◇


ネリが荷物を降ろしている間、俺達は桟橋の近くにある休憩所で待つことになった。


そこには大きな木製の掲示板が設置され、何枚もの札が紐で吊るされている。


よく見ると、札には水路の名前や簡単な地図が描かれ、日付らしい数字まで記されていた。


「……ここにも道の情報があるんだな」


呟くと、ロアンが隣へやってきた。


「ああ。船乗り達が使うものなんだろう」


眺めていると、掲示板の向こうから、一人の老人が声をかけてきた。


「何か探しているのかね?」


振り返ると、白い髪を短く整えた水鱗族の男性が立っていた。


日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、片手には何枚もの木札を抱えている。


「初めまして。俺達、ハルネ谷から来た冒険者なんです」


「ほう。あの谷からか。それは遠かったろう」


老人は穏やかに頷いた。


「はい。今日、初めて船に乗ってきました」


「そうか。それなら、この辺りの道はまだ分からんだろうな」


老人は掲示板へ目を向ける。


「わしはオルダ。この集落で、船の通り道や水位の記録をまとめておる」


「水位の記録?」


「水がどれくらい増えたか、減ったかという記録じゃよ。船を安全に通すには、水の深さを知っておかねばならんからな」


船乗りのネリが、移動中に何度も水の深さを確かめていたことを思い出した。


「それって、毎日記録してるんですか?」


「できる限りな。水路の様子が変われば、使える道も変わる。だから、あちこちに水の高さを測る杭を立てておるんじゃ」


オルダは掲示板の一角を指さした。


そこには細長い木札が何枚も並び、それぞれに横線が引かれている。線の位置は札によって異なり、中には赤い印が付けられているものもあった。


「……これ、何ですか?」


「最近の水位の変化を記したものじゃよ」


オルダは木札を一枚取り上げた。


「ここは北側の水路じゃ。数日前から、水の高さが少しずつ下がっておる」


「下がってる?」


「そうじゃ。雨が少ない時期なら珍しくもないが、今年は少し様子が違う」


別の札を取り出す。


「こちらは南側の水路じゃが、こっちは逆に、水位が上がった日がある」


「……同じ湿原なのに?」


「場所によって水の流れが違うからのう。別に不思議なことではない。ただ、今回は変化が続いておるのが気になってな」


並べられた札を見つめた。


北側では水が減り、南側では増えている場所がある。それだけなら、自然な変化なのかもしれない。


けれど、浮き島の動きが例年と違うというネリの話を思い出すと、少し気になった。


「オルダさん、最近、魔物の移動も増えているって聞いたんですけど……」


尋ねると、老人はゆっくり頷いた。


「その話なら聞いておるよ。湿原の北側から南へ向かう獣も増えておるそうじゃな」


「はい。俺達も《風膜獣》が南へ向かうのを見ました」


「ふむ……」


オルダはしばらく考え込んだ。


それから、掲示板の隣に置かれた別の地図を広げた。


「魔物のことは専門ではないが、船乗り達から聞いた話なら少し残しておる」


地図には、水路の位置だけでなく、いくつかの場所に小さな印が描かれていた。その印の横には、魔物の名前や目撃した日付が書かれている。


身を乗り出した。


「……これ、見せてもらってもいいですか?」


「もちろんじゃ。ただし、聞いた話を記したものも多い。全部が正確とは限らんぞ」


「分かってます」


頷いて、地図を覗き込む。


そこには、北の湿原から南へ移動した風膜獣の記録が、いくつも残っていた。


さらに、普段とは違う場所で目撃された小型の魔物や、最近姿を見せなくなった魔物についても、簡単な記録がある。


「……結構、いろんな種類が動いてるんだな」


「ああ。ハルネ谷で見た大型魔物とは、また違う動きだな」


ロアンも地図を覗き込む。


しばらく、地図と木札を見比べていた。


魔物の移動と水路の変化。今のところ、その二つが関係しているという証拠はない。それでも、同じ時期にどちらも普段とは違う動きを見せていることは、気になった。


「……オルダさん」


「何じゃ?」


「この北側の水路って、どんな場所なんですか?」


オルダは地図の一角を指さした。


「この先には、広い葦原が続いておる。昔から風膜獣をよく見かける場所じゃよ」


「じゃあ、あいつらが暮らしている場所なんですか?」


「そうかもしれんが、そこまでは分からん。わしが知っておるのは、船乗り達があの辺りでよく見かけるということだけじゃ」


オルダは慎重に答えた。


「ただ、最近はあの辺りの水位が下がっておる。それで、いつも使っていた舟路を変えた船もあるんじゃ」


「なるほど……」


地図の北側へ目を向ける。


もし水の深さが変われば、そこに暮らす生き物達にも、何か影響があるのかもしれない。もちろん、今の段階では推測でしかない。


けれど、実際にその場所へ行けば、もう少し詳しいことが分かる可能性はあった。


◇


地図を見ていると、荷物を降ろし終えたネリが戻ってきた。


「おや、もうオルダと話してたのかい」


「ああ、ネリか。ちょうどいいところじゃ」


オルダが手元の札を見せる。


「北側の水路について、この冒険者達が調べたいそうじゃよ」


「北側?」


ネリは少し考えたあと、地図へ目を落とした。


「ああ、昨日話した浮き島の辺りかい?」


「はい。最近、水の深さが変わってるって聞いたので」


答えると、ネリは頷いた。


「確かに、あの辺りは少し気になるね。今朝も北から移っていく家を見かけたし」


「……あっ!」


声を上げた。


「もしかして、さっき俺達を追い抜いていった家ですか?」


「そうそう。覚えてたかい?」


「そりゃ覚えてますよ! 家に追い抜かれるなんて、初めてでしたから!」


ネリが笑う。


その横で、オルダが少し真剣な表情になった。


「ああ、あの家か。北側の水路で暮らしていた家族じゃな」


「知ってるんですか?」


「もちろんじゃ。何度か荷物を届けたこともある」


オルダは少し考えてから続けた。


「あの家族が引っ越すのは、例年ならもう少し先の時期なんじゃが……」


「そうなんですよね。ネリさんも言ってました」


「ああ。だから、少し気になってたんだよ」


ネリが頷く。


オルダは地図の北側へ指を置いた。


「水が減って、今まで家をつないでいた場所では暮らしにくくなったのかもしれんな。もっとも、本人達に聞いてみなければ分からんが」


「……なるほど」


改めて地図を見る。


今朝、俺達を追い抜いていった家。あの時は、ただ珍しい光景だと思っていた。けれど、もしかしたら、あの家族にも何か理由があって、いつもより早く引っ越していたのかもしれない。


この湿原では、人間も水の変化に合わせて暮らす場所を変える。だとしたら、魔物達にも似たような事情がある可能性はある。


ただ、それを確かめるには、もっと詳しい話を聞く必要がありそうだった。


「……ロアン」


「何だ?」


「明日、北側の水路を見に行ってみないか?」


ロアンは少し考えてから頷いた。


「ああ。俺も気になっていたところだ。ただ、船がないと行けないんだろう?」


「そうだな……」


ネリの方を見る。


すると、彼女は俺が何を言いたいのか察したらしく、苦笑した。


「分かってるよ。船を出してほしいんだろ?」


「……お願いできますか?」


「明日は少し時間が取れると思うけど、あの辺りの水路は慎重に進まなきゃならないからね。朝になってから、通れるかどうか確認して決めよう」


「ありがとうございます!」


頭を下げると、ネリは笑った。


「ただし、今回は観光気分だけじゃ済まないかもしれないよ?」


「……分かってます」


そう答えながらも、少しだけ胸を高鳴らせていた。


北の湿原には、まだ知らない景色が広がっている。そして、その中には、魔物達が移動している理由を考える手がかりがあるかもしれない。


もちろん、何も分からない可能性だってある。それでも、行ってみる価値はありそうだった。


◇


夕方、俺達はミオラの宿へ向かうことになった。


宿といっても、地面の上に建つ普通の建物ではない。太い杭で支えられた木造の建物で、その周囲には水路が広がっていた。


部屋の窓からは湿原を見渡すことができ、遠くには小さな舟が行き交っている。


「……いい景色だな」


荷物を置いて、窓の外を眺めながら呟いた。


水面には夕焼けが映り、家々の灯りが一つずつともり始めている。昼間は賑やかだった船着き場も、今は少し落ち着いた雰囲気になっていた。


遠くから聞こえてくるのは、水を押す船の音と、家々から漏れる人々の声。


まるで、町全体が水の上に浮かんでいるようだった。


「ユウト、何見てるの?」


ミミナが隣へやってきた。


「いや、本当にすごい場所だなと思って」


「そうだね。私も、こんな町があるなんて知らなかった!」


彼女は窓の外へ目を向け、楽しそうに続けた。


「ねえ、明日はもっと奥まで行くんでしょ?」


「ああ。北側の水路を調べる予定だ」


「どんな魔物がいるのかな?」


「さあな。でも、今まで見たことのない奴もいるかもしれない」


ミミナは目を輝かせた。その表情を見ていると、こっちまで嬉しくなる。


今回の旅では、危険な魔物との戦いよりも、知らない土地や人々との出会いが多い。もちろん、そればかりで済むとは限らない。


けれど、こうして仲間達と新しい世界を見て回れることが、何より楽しかった。


「ユウト、ミミナ。夕食の前に、明日の準備を確認しますよ」


部屋の入口から、ノアが声をかけた。


「ああ、今行く!」


窓から離れて、仲間達の待つ部屋へ向かう。


そこでは、リリアが装備を確認し、ロアンがネリから聞いた湿原の地理を、簡単な地図にまとめていた。


二人の間に座って、今日オルダから聞いた話を思い返す。


北側で水の深さが変わり始めていること。浮き島の動きが普段と違うこと。風膜獣がいつもとは違う方向へ移動していること。そして、いつもより早く引っ越していった水上の家。


それぞれは別々の出来事かもしれない。けれど、この湿原で何かが変わり始めていることだけは、少しずつ見えてきた気がする。


「……明日は、どんな景色が見られるんだろうな」


呟くと、ロアンが小さく笑った。


「お前、本当に楽しそうだな」


「そりゃそうだろ。今日なんて、家に追い抜かれたんだぞ?」


「それ、まだ言うのか?」


「一生忘れないと思う…」


ロアンが声を上げて笑い、ミミナまでつられて笑い出した。


水の上に広がる町の灯りを眺めながら、俺は新しい冒険への期待を胸に、翌日の準備を進めた。


――第82話 終

最後までお読みいただきありがとうございます!


今回は、ユウト達の初めての船旅と、水上集落《ミオラ》への到着を描きました!


風帆車に続き、今回は水の上を進む船。


そして、何よりユウトを驚かせたのは、家そのものが引っ越している光景でした。


湿原では水路や浮き島の位置が変わるため、人々もその環境に合わせて様々な工夫をしながら暮らしています。


今回登場した《ミオラ》も、そんな土地ならではの文化を持つ集落です。


さらに、新しく登場したオルダから、北側の水路では最近、水の深さが変わっているという話を聞くことができました。


いつもとは違う方向へ移動する魔物達と、変わり始めた湿原の環境。


この二つが関係しているのかは、まだ分かりません。


次回は、ネリの案内でさらに北の水路へ向かう予定です!


ユウト達はそこで、どんな景色や生き物達と出会うのでしょうか。


面白いと思っていただけましたら、ブックマーク・評価・感想で応援していただけると、とても励みになります。


引き続き、ユウト達の冒険をよろしくお願いします!

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