湿原の船乗りに地図を見せたら、「それは昨日の道だ」と言われました
翌朝、俺達は再び《渡りの泉》へ向かっていた。
昨日、泉の管理人であるアシェから、北の湿原を行き来する船乗りが立ち寄ると聞いたからだ。
魔物の移動について何か知っているかもしれない。何より、これまで歩いたことのない土地の話を聞けるのが楽しみだった。
もっとも、俺には調査以外にも気になっていることがある。
「ロアン、湿原の船ってどんな形なんだ?」
「さあな。俺も詳しくは知らないぞ」
「帆がついてるのかな? それとも、普通に漕ぐのかな?」
「行けば分かるだろ」
「いや、そうなんだけどさ」
昨日の帰り道から、俺はずっと船のことを考えていた。
風渡りの高原へ来て初めて乗った《風帆車》は、想像以上に面白い乗り物だった。今度は水の上を進む船だというのだから、期待するなという方が難しい。
「ユウト、昨日から船の話ばっかりしてるね」
ミミナが隣で笑った。髪を結んだ赤いリボンが、歩くたびに小さく揺れている。
「仕方ないだろ。異世界の船なんて、そう簡単に乗れるもんじゃないし」
「でも、湿原なら大きな船は走れないんじゃない?」
「確かに。水が浅い場所も多いって話だったな」
そんな話をしていると、少し後ろを歩いていたノアが口を開いた。
「乗れるかどうか分かりませんが、先に料金を確認してくださいね。昨日のうちに旅費を整理したばかりですから」
「……分かってるよ」
「特にユウトは、面白そうなものを見つけると、料金を聞く前に乗ろうとするでしょう?」
「そんなこと……いや、風帆車の時はそうだったな」
反論しかけたが、身に覚えがありすぎてやめておいた。
それを聞いたリリアが、穏やかに微笑む。
「興味を持つのはよいことだと思います。ただ、今回は調査が目的ですから、安全を優先しましょう」
「ああ。そこはちゃんと考えてる」
そう答えると、ロアンが前方を指さした。
「ほら、泉が見えてきたぞ」
谷の向こうには、昨日と同じ白い岩壁が広がっていた。
その下では澄んだ水が幾筋にも分かれて流れ、木々の間には様々な魔物達が休んでいる。朝の光を受けた泉は昨日よりも青く見え、水辺には細かな霧が漂っていた。
何度見ても、不思議な場所だ。
魔物達が水を飲み、人間が少し離れた場所からその様子を見守る。ここでは、それが当たり前の光景なのだろう。
俺達は泉の手前で足を止め、管理人のアシェを探した。
◇
「おや、ちゃんと来たんだね」
アシェは昨日と同じ見晴らし台の近くで、水場の様子を確かめていた。
淡い青色の髪を後ろで束ね、手には細い縄と木製の道具を持っている。水鱗族特有の小さな鱗が、朝日を受けてわずかに輝いていた。
「おはようございます。北から来る船は、もう着いてますか?」
尋ねると、アシェは首を横に振った。
「まだだよ。でも、今朝は霧も薄いし、風も穏やかだからね。いつも通りなら、もうすぐ来ると思う」
「そっか」
「そんなに船が楽しみなのかい?」
「……顔に出てます?」
「ずいぶんね」
アシェが笑うと、ミミナまで楽しそうに頷いた。
俺の考えていることは、誰にでも分かるらしい。
「船着き場はこっちだよ」
アシェの案内で、泉の北側へ続く小道を歩く。
昨日見た広い草地とは違い、背の高い葦が生い茂る湿った土地だった。足元には木製の板が敷かれ、その隙間から浅い水が覗いている。
水路の両側には白い花を咲かせた草が揺れ、ところどころで小さな魚が水面を跳ねていた。
「……すごいな。ここだけ別の世界みたいだ」
「この先から北の湿原へ続いているんだ」
アシェが頷く。
「歩ける場所もあるけど、水路を使った方が早いところが多いよ」
「それで船が必要なのか」
木道の先へ出ると、急に視界が開けた。
川とも湖ともつかない、広い水面が広がっている。水の深さは場所によって違うらしく、底が見えるほど浅いところもあれば、濃い青色に沈んでいるところもあった。
その間には大小さまざまな葦の茂みが浮かび、風を受けてゆっくり揺れている。
「……あれ?」
目を細めた。
遠くの水面で、何かが動いている。
最初は流木かと思った。だが、違う。細長い影が葦の間から現れ、水面を滑るようにこちらへ近づいてくる。
「アシェさん、あれって……」
「ああ。ちょうど来たみたいだね」
アシェが手を上げると、遠くの影から小さな鈴の音が返ってきた。
やがて、葦の間から一隻の船が姿を現した。
「……おお!」
声が出た。
想像していた船とは、ずいぶん違っていた。
大きな帆もなければ、馬車のような車輪もない。幅の広い平らな船体に低い屋根が設けられ、その下には木箱や麻袋が積み込まれている。
船の前後には、長い棒を持った人影が立っていた。水底を押すようにして、船を進めている。
動きはゆっくりだが、葦の間を抜ける時にも船体はほとんど揺れない。
「……あの棒で進んでるのか?」
「そうだよ。水の浅い場所では、ああやって底を押して進むんだ」
アシェは説明しながら、船着き場に掛けられた縄を外した。
「北の湿原には浅い水路が多いからね。大きな船だと、途中で動けなくなってしまうんだよ」
風帆車とは、まったく違う仕組みらしい。
夢中で眺めているうちに、船はゆっくりと桟橋へ近づいてきた。
◇
「アシェ! 今日はずいぶん客が多いじゃないか!」
船の先端に立っていた女性が、大きな声で呼びかけた。
短く切った青灰色の髪に、日に焼けた顔。袖をまくった腕には細かな鱗があり、指の間には薄い水かきが見える。彼女も水鱗族らしい。
「昨日話していた冒険者達だよ。北の湿原について聞きたいんだってさ」
「へえ。こんなところまで物好きな連中が来るんだね」
女性は笑って、長い棒を器用に動かした。
船が桟橋の横へぴたりと寄る。もう一人の乗組員が縄を投げ、アシェがそれを受け取って柱へ結びつけた。
無駄のない動きだった。
「私はネリ。北の湿原と高原を行き来している船乗りだよ」
「神崎ユウトです。よろしくお願いします」
「よろしく。それで、あんた達は何を調べてるんだい?」
ロアンと顔を見合わせてから、今回の依頼について簡単に説明した。
高原で様々な魔物が移動していること。ハルネ谷では、大型魔物の群れが西へ抜けていったこと。そして昨日、この泉で、普段とは違う方向から来る《風膜獣》を見かけたこと。
ネリは腕を組み、最後まで黙って話を聞いていた。
「……風膜獣ねえ」
少し考えてから、北の水路へ目を向ける。
「あいつらなら、湿原でも見たよ。最近は南へ向かう群れが目立つね」
「やっぱりそうなんですか?」
「ああ。ただ、それが何を意味するのかまでは分からないよ」
ネリはそう断ってから続けた。
「湿原じゃ、季節によって生き物の居場所が変わることは珍しくない。でも、今年はいつもと違う動きが多い気がするんだ」
「いつもと違う?」
「あんた、湿原に行ったことはあるかい?」
「いえ。まだ一度も」
「じゃあ、少し説明しておこうか」
ネリは船の荷台から、一枚の革製の地図を取り出した。
複雑に曲がった水路が何本も描かれ、その間に小さな島のような印がいくつも並んでいる。
「これが北の湿原だよ」
「……うわ、すごいな」
地図を覗き込む。
まるで迷路だった。細い水路が途中で何度も枝分かれして、しばらく進むと別の場所で合流している。小さな島がいくつもあり、その周りを回り込むように道が描かれていた。
「こんなに道があるんですか?」
「あるよ。でも、全部がいつでも通れるわけじゃない」
ネリは地図の一角を指さした。
「例えば、ここ。昨日は船が通れたんだけどね」
「昨日は?」
「ああ。今朝通ろうとしたら、道がなくなってた」
耳を疑った。
「……道がなくなった?」
「そうだよ」
ネリは平然と答える。
「昨日まであった水路が、今朝は葦で塞がっていたんだ」
地図と彼女の顔を、交互に見た。道がなくなるなんて、そんなことがあるのだろうか。
「……もしかして、誰かが埋めたんですか?」
「そんな面倒なことをする奴がいるかい」
ネリは笑いながら首を振った。
「湿原の葦は、根が絡まって大きな塊になることがあるんだ。そういう塊が水に浮かんで、風や水の流れでゆっくり動くのさ」
「……島が動くってこと?」
「そういうこと。小さいものなら船で押しのけられるけど、大きいものは簡単には動かせないよ」
もう一度、地図を見る。
そこに描かれた島のいくつかは、固定された土地ではないらしい。
「じゃあ、地図ってあんまり役に立たないんじゃ……」
「役には立つさ。ただし、地図だけを信用してはいけない」
ネリは地図の端を指で叩いた。
「湿原じゃ、昨日まで通れた道が今日は通れないこともある。逆に、昨日は塞がっていた場所が、今日は通れるようになることもあるんだよ」
そして、少し意地悪そうに笑う。
「あんたが今見てるのは、昨日の道だ。今日の道は、自分の目で確かめなきゃ分からない」
地図を見つめながら、妙に感心してしまった。
山や谷の道は、基本的には同じ場所に残っている。けれど、この湿原では、道そのものが少しずつ動いているらしい。
「……なんか、すごいところですね」
「だろう?」
ネリが誇らしそうに笑う。
「慣れれば楽しい場所だよ。毎日同じ景色だと思っていても、よく見ると少しずつ変わっているからね」
その言葉に、頷いた。
知らない土地へ来ると、当たり前だと思っていたことが、簡単にひっくり返される。それが何だか面白かった。
◇
「でも、ネリさん。道が動くのって、いつものことなんですよね?」
少し離れたところで話を聞いていたミミナが尋ねた。
「ああ。珍しいことじゃないよ」
「じゃあ、今年は何が違うんですか?」
その質問に、ネリの表情が少し変わった。
「……動き方だね」
彼女は地図の北側へ指を滑らせた。
「普段なら、あの辺りの浮き島は少しずつ場所を変えるんだ。強い風が吹いた日なんかは大きく動くこともあるけど、今年は特に荒れた天気でもないのに、何日かでずいぶん位置が変わった場所がある」
「風が強くなかったのに?」
「そう。もちろん、私が見ていない間に何かあったのかもしれないし、水の流れが変わっただけかもしれない。だから、変だとは思っているけど、理由までは分からないんだ」
ネリは慎重に答えた。
その言葉を聞きながら、昨日見た風膜獣達の姿を思い出した。
背中の薄い膜を広げ、風を受けながら移動していた魔物達。あいつらが南へ向かっているのも、湿原で何か変化が起きているからなのだろうか。
もっとも、今の話だけでは何とも言えない。
「……どう思う?」
小声で尋ねると、ロアンは腕を組んだ。
「気になる話ではあるな。浮き島の移動と魔物の移動が関係しているかもしれないな」
「ああ。俺もそう思う」
ネリは俺達の様子を見て、少し笑った。
「考え込むのはいいけど、湿原のことを知りたいなら、実際に見てみるのが一番だよ」
「……実際に?」
「ああ。話を聞くだけじゃ分からないことも多いからね」
顔を上げた。
「それって、船に乗せてもらえるってことですか!?」
ネリは一瞬きょとんとしたあと、声を上げて笑った。
「ははは! あんた、本当に船に乗りたいんだね!」
「……いや、その、調査のためでもあるんですけど」
「分かってるよ。顔を見れば、半分くらいは遊びたいんだってこともね」
今日も、考えていることが顔に出ていたらしい。
ミミナが横で笑いをこらえている。
ネリは船の荷物を指さした。
「ただし、今日は駄目だよ。これから荷物を降ろして、交易市へ運ばなきゃならないからね」
「……そうですか」
少し残念だった。だが、仕事の途中なのだから仕方ない。
「明日なら、北へ戻る予定があるよ」
「本当ですか!?」
「ああ。朝のうちに出るつもりだ。ただし、天気と水路の様子次第だけどね」
ネリは俺達を順番に見渡した。
「五人まとめて乗りたいなら、荷物を減らして座る場所を作らなきゃならない。途中で降ろしてくれと言われても、岸があるとは限らないよ。それでもいいかい?」
すぐに返事をしようとした。だが、隣からノアに服の袖を引かれた。
「ユウト。先に料金と行き先、それから帰りの手段を確認しましょう」
「……はい」
やっぱり、ノアは頼りになる。
ネリはそのやり取りを見ながら、楽しそうに笑っていた。
◇
船着き場の近くにある休憩所で、俺達はネリから湿原の旅について詳しい話を聞くことになった。
彼女の船は、北の湿原にある水上集落と、高原の交易市を行き来しているらしい。船には食料や生活用品のほか、職人が使う道具や布、薬草なども積まれているという。
「水上集落って、どんなところなんですか?」
「家が水の上にある村だよ」
「……水の上?」
「ああ。杭を立てて家を支えている場所もあれば、大きな船を住まいにしている人達もいる。水路に沿って家が並んでいるところもあるね」
目を見開いた。
「……すげえ」
「そんなに驚くことかい?」
「いや、だって、家が水の上にあるんですよね?」
「そうだよ。雨が降ったり水が増えたりしても困らないように、色々工夫してるんだ」
ネリは笑いながら続けた。
「中には、季節によって舟の家ごと場所を移す人達もいるよ」
「家ごと!?」
「そうさ。水路の様子に合わせて、暮らす場所を変えるんだ」
道が動く土地なら、人間の暮らし方も変わるのだろう。
頭の中で、船の上に建てられた家々を想像してみた。朝起きたら窓の外の景色が変わっているなんて、少し面白そうだ。
「……見てみたいです」
「だったら、うちの船で行けばいい」
ネリはあっさりと言った。
「《ミオラ》っていう水上集落があるんだ。私達がいつも荷物を運んでいる場所でね。最初に行くなら、あそこがいいと思うよ」
「ミオラ……」
初めて聞く地名を、口の中で繰り返す。
「ロアン、知ってる?」
「名前だけなら聞いたことがある。湿原の交易でよく使われる集落らしいな」
「へえ……」
ますます興味が湧いてきた。
そんな俺の様子を見ていたリリアが、静かに口を開いた。
「ただ、湿原へ向かうなら、私達も事前に準備をする必要がありますね」
「準備?」
「はい。陸地とは違い、足場が限られる場所では、危険が起きた時の対応も変わります。船の上で戦闘になれば、周囲の人達を巻き込む可能性もありますから」
確かに、俺達はこれまで山や森、草原を中心に旅をしてきた。水の上で何か起きた時にどうすればいいのかなんて、考えたこともない。
「……それって、俺が船から落ちたらどうなるんだ?」
尋ねると、ネリが肩をすくめた。
「浅いところなら立てるかもしれないけど、深いところだったら泳ぐしかないね」
「……泳げなかったら?」
「だから、落ちないようにするんだよ」
当然のように返されてしまった。
いや、そりゃそうなんだけど。
少し不安になって、船の方へ視線を向ける。その様子を見ていたリリアが微笑んだ。
「心配しないでください。危険な場所では、私達も十分に注意します」
「ありがとう、リリア」
「ただし、ユウトも無茶をしないでくださいね」
「もちろん!」
元気よく答えたものの、水の中では短剣も役に立たない気がする。
いや、そもそも陸の上でも大して役に立っていないのだが。
そんなことを考えていると、ネリが机の上に小さな木片を置いた。
「それと、湿原へ行くなら覚えておいた方がいいことがあるよ」
「何ですか?」
「水の上じゃ、目に見えるものが全部地面とは限らない」
ネリは窓の外を指さした。
船着き場の向こうには、水面から伸びた葦が何本も揺れている。
「ああいう葦の塊は、ぱっと見ただけじゃ陸地なのか、浮いているだけなのか分からないことがあるんだ。うっかり踏み込めば、そのまま水へ落ちることもある」
「……怖っ」
「だから、知らない場所では勝手に船を降りちゃ駄目だよ。私達が安全だと言ったところだけ歩くこと」
「分かりました」
真剣に頷いた。
湿原の旅は、風帆車以上に注意することが多そうだ。
それでも、行ってみたい気持ちは薄れなかった。むしろ、知らない世界の話を聞くたびに、期待の方が大きくなっていく。
◇
話が一段落したところで、ノアが船賃について確認した。
ネリは人数と荷物の量を聞き、途中の水路の状況によって到着が遅れる可能性もあると説明してくれた。その上で、明日の船に五人分の席を用意してもらえることになった。
もちろん、天候や水路の状態が悪ければ、出発は延期だ。
「よし。じゃあ、明日よろしくお願いします!」
頭を下げると、ネリが頷いた。
「ああ。ただ、北へ行くなら覚悟しておきな。高原みたいに見晴らしのいい場所ばかりじゃないよ」
「そうなんですか?」
「葦が背丈より高いところもあるし、朝は霧で周りが何も見えなくなる日だってある。慣れていない人間は、少し怖いかもしれないね」
ネリはそう言って笑った。
「でも、天気のいい日の湿原は本当に綺麗だよ。水面いっぱいに空が映って、どこまでが空で、どこからが水なのか分からなくなるんだ」
その言葉を聞いただけで、目の前に新しい景色が広がったような気がした。
水の上に映る青空。風を受けて揺れる葦。その間を進む小さな船。
今まで見たことのない景色の中を、仲間達と一緒に旅する。考えただけで、胸が高鳴った。
「……絶対、見てみたいな」
小さく呟くと、ネリは満足そうに頷いた。
「それなら、明日の朝を楽しみにしておくといいよ」
俺達はアシェにも礼を言い、ハルネ谷へ戻ることにした。
帰り道では、ロアンがネリから聞いた湿原の話を整理し、俺達もそれぞれ気になったことを話し合った。
北の湿原では、今年になって浮き島の動きが普段と違っているらしい。ただし、それが魔物の移動と関係しているのかは、まだ分からない。
風膜獣が南へ向かっている理由も、大型魔物が西へ移動している理由も、今のところは別々に考える必要がありそうだった。
それでも、北の湿原へ行けば、今までとは違う場所から調べられる。
「……少しずつ、分かってきたこともあるな」
呟くと、ロアンが頷いた。
「ああ。最初は、魔物が西へ向かっていることしか分からなかったからな」
「でも、今は北から南へ来る群れもいるし、湿原の地形まで変わってるかもしれないって話もある」
「そうだな。ただ、原因を決めつけるにはまだ早い」
「うん。そこは分かってる」
空を見上げた。
青い空には薄い雲が流れ、その下を風が静かに吹き抜けている。
高原へ来てから、何度もこの風に驚かされてきた。風帆車を走らせる風。山道の鈴を鳴らす風。そして、湿原の浮き島を動かす風。
同じ風でも、場所によって人々の暮らしをまったく違う形で支えている。
そんなことを考えていると、隣を歩くミミナが笑った。
「ユウト、また船のこと考えてるでしょ?」
「……何で分かった?」
「だって、さっきからずっと嬉しそうなんだもん」
「そんなに顔に出てる?」
「うん。すっごく」
少し恥ずかしくなって、視線を逸らす。
「でも、私も楽しみだよ。水の上に家があるなんて、想像しただけで面白そうだし!」
「だよな!」
盛り上がっていると、ノアが静かに口を開いた。
「楽しむのは構いませんが、今夜は早めに休みましょう。明日は朝から移動するんですから」
「分かってるよ」
「それならいいです。湿原では、今までと違った経験ができそうですね」
その声には、彼女自身も少し楽しみにしているような響きがあった。
仲間達を見渡す。
リリアは変わらず周囲への警戒を続けているが、表情はどこか穏やかだ。ロアンも故郷のことを心配しながら、少しずつ新しい土地への興味を深めているようだった。
みんな、それぞれ違う理由で今回の旅に向き合っている。けれど、同じ場所へ向かおうとしていることが、何だか嬉しかった。
◇
ハルネ谷へ戻ると、俺達はサフィアに北の湿原へ向かう予定を伝えた。
サフィアは少し驚いたものの、事情を聞くとすぐに頷いた。
「水路を使うなら、ネリの船はいい選択だと思うよ。あの人は長く湿原を行き来しているからね」
「サフィアさんも知ってるんですか?」
「ああ。何度か荷物を届けてもらったことがある。腕のいい船乗りだよ」
それを聞いて、少し安心した。
知らない土地へ向かうのだから、案内してくれる人が信頼できるというのは大きい。
「ただ、湿原へ行くなら一つ気をつけておくれ」
サフィアが真剣な表情になる。
「何ですか?」
「水の上じゃ、人間も魔物も逃げられる場所が限られる。だから、危険な相手を見つけても、無理に近づくんじゃないよ」
「分かりました」
頷いた。
自分に戦う力がないことは、誰よりもよく分かっている。危険な魔物を見つけたら、まず距離を取り、仲間や船乗りと相談して行動するつもりだった。
その後、俺達は必要な荷物を確認し、明日の出発に備えて準備を進めた。
ノアは旅費と食料を整理し、リリアは装備が船内の邪魔にならないか確認している。ミミナは湿気で傷みやすい道具を布で包み、ロアンはサフィアから湿原周辺の地理について話を聞いていた。
俺も何か手伝おうと、荷物をまとめ始めた。
もっとも、持っていくものはそれほど多くない。短剣に着替え、それから最低限の道具くらいだ。こうして並べてみると、冒険者としてはずいぶん頼りない装備だと思う。
「……まあ、俺にはこれで十分か」
小さく呟きながら、鞄の口を閉じた。
剣を振るうことも、強力な魔法を使うこともできない。それでも、俺には仲間がいる。そして、この世界には、まだ知らない人達がたくさんいる。
相手のことを知らなければ、まず話を聞けばいい。話が通じなければ、様子を見て、少しずつ理解しようとすればいい。
それが今の俺にできる、精一杯の冒険なのだろう。
窓の外へ目を向けると、夕日がハルネ谷の家々を赤く染めていた。
遠くでは風道鈴が小さく鳴り、谷を吹き抜ける風が屋根の旗を揺らしている。
明日、俺達はこの谷を離れ、北の湿原へ向かう。
そこには、地図に描かれた通りには進めない道がある。水の上に家を建てる人達がいて、見たことのない魔物達が暮らしている。そして、今まで知らなかった景色が待っているはずだ。
「……楽しみだな」
笑みがこぼれた。
その時、部屋の外からミミナの声が聞こえた。
「ユウト! 夕ご飯できたって!」
「おう、今行く!」
鞄を置き、部屋を出る。
明日はきっと、新しい発見の多い一日になるだろう。だからこそ、今夜はちゃんと食べて、しっかり休んでおきたい。
少なくとも、船に乗る前から疲れ切っているようなことだけは避けたいところだ。
そんなことを考えながら、俺は仲間達の待つ食堂へ向かった。
北の湿原で何が待っているのかは、まだ分からない。
けれど、知らない道を進むことへの不安より、期待の方がずっと大きかった。
――第81話 終
最後までお読みいただきありがとうございます!
今回は、北の湿原からやって来た船乗り・ネリとの出会いを描きました。
高原では風を利用して走る《風帆車》が登場しましたが、北の湿原では、水の浅い場所を進むために長い棒を使って船を動かしています。
そして、今回ユウトが驚いたのは、湿原では道そのものが動くことがあるという話でした。
昨日通れた場所が、今日は通れない。
そんな土地で暮らす人々には、また違った知恵や文化が根づいているようです。
さらに、北の湿原では今年、浮き島の動きに普段とは違う変化が見られるとのこと。
その変化が魔物達の移動と関係しているのかは、まだ分かりません。
次回は、いよいよ船に乗って北の湿原へ!
水の上に暮らす人々や、まだ見ぬ魔物達との出会いが待っています。
剣も魔法も苦手なユウトですが、仲間達とともに新しい世界へ踏み出していきます。
面白いと思っていただけましたら、ブックマーク・評価・感想で応援していただけると、とても励みになります!
引き続き、ユウト達の冒険をよろしくお願いします!




