古い道の先にあったのは、魔物専用の宿でした
昨日、俺達が見つけた《獣渡りの道》は、どうやらハルネ谷の外まで続いているらしい。
大型魔物の群れが無事に谷を抜けたのはよかった。だが、彼らがどこへ向かっているのか、そもそもなぜ移動しているのかは、まだ何も分かっていない。
そこで翌朝、俺達はサフィアに頼んで、古い地図をもう一度見せてもらうことにした。
「この道って、ずっと西まで続いてるんですか?」
尋ねると、サフィアは地図の上を指でなぞった。
「そうだね。今は使われなくなった部分もあるけど、昔は谷の向こうまで荷車が通っていたらしいよ」
「へえ……」
「それに、途中には昔から獣達が集まる場所があるんだ」
「獣が集まる場所?」
「ああ。《渡りの泉》って呼ばれる水場だよ。いろいろな獣や魔物が水を飲んだり、休んだりする場所でね。昔からそこを管理している人達もいる」
地図の一角に、小さな丸い印が描かれていた。
「……魔物が集まっても大丈夫なんですか?」
「危険な魔物が来ることもあるから、誰でも自由に近づけるわけじゃないよ。でも、昔から獣達が立ち寄る場所だからね。地元じゃ《魔物の宿》なんて呼ぶ人もいるんだ」
「魔物の宿?」
聞き返してしまった。
魔物が宿に泊まるなんて、想像したこともなかった。
「……受付とかあるんですか?」
「受付?」
「いや、ほら。魔物が来たら名前を書いたり、部屋を案内したり……」
そこまで言ったところで、ミミナが吹き出した。
「ユウト、魔物が宿帳に名前書くわけないじゃん!」
「分かってるよ! ちょっと想像しただけだろ!」
サフィアも声を上げて笑った。
「ははは! 人間が泊まる宿とは違うよ。泉の周りに広い草地や木陰があって、魔物達が好きな場所で休んでいくんだ」
「ですよね……」
それなら納得できる。ただ、気になることもあった。
昨日、谷を抜けていった大型魔物の群れも、その泉を通ったのだろうか。
「サフィアさん、その泉って、最近の魔物の移動について何か知っている人もいるんですか?」
「水場を管理している人なら、どんな魔物が来たかくらいは分かるかもしれないよ」
ロアンと顔を見合わせる。
「……行ってみる?」
「ああ。昨日の群れが向かった方向とも重なるし、調べてみる価値はありそうだな」
ロアンが頷いた。
魔物達が立ち寄る泉か。知らない場所へ行けることも楽しみだが、そこにいる人達から話を聞けるなら、今回の依頼にも役立つかもしれない。
「よし。今日はその《渡りの泉》へ行ってみよう!」
そう言うと、リリアが地図へ目を向けた。
「分かりました。周囲の安全を確認しながら進みましょう」
その横では、ノアがすでに持参する水と食料の量を確かめていた。
「泉があるからといって、飲める水とは限りません。必要な分は持っていきましょう」
「確かにそうだな」
いつもなら、泉と聞いただけで水筒を空にして出発していたかもしれない。ノアがいてくれて、本当によかった。
俺達はサフィアに礼を言い、ロアンの案内で西へ向かうことにした。
◇
獣渡りの道を歩いてみると、その造りが思っていた以上に立派なことに気づいた。
石畳はところどころ草に覆われているが、大きな石が丁寧に組み合わされ、緩やかな坂にも段差ができにくいよう工夫されている。道の脇には古い石柱が等間隔に立ち、そのいくつかには、風雨で薄れた模様が刻まれていた。
「……これ、誰が作ったんだろうな」
「さあな。俺が生まれるずっと前からある道らしい」
ロアンが首を傾げる。
「昔は荷車も通っていたって話だが、それ以前のことは詳しく知らない」
「そっか」
古い道があるからといって、由来まで分かるわけではない。それでも、これほどしっかりした道を作った人達が、昔この谷にいたことは確かなのだろう。
歩くうちに、周囲の景色も変わってきた。
段々畑の続く谷を抜けると、岩山の間に広い草地が現れる。足元には小さな白い花が咲き、遠くでは背の高い草が、風を受けて波のように揺れていた。
空には青帆鳥らしき大きな影が一つ。遠すぎて、はっきりとは分からない。
「……気持ちいいな」
空を見上げて、つい呟いた。
これまでの旅では、地下施設や危険な魔物との戦いが続いていた。穏やかな道を歩いているだけでも、妙に嬉しくなる。
もちろん、魔物の移動を調べに来ているのだから、気を抜きすぎるわけにはいかない。それでも、知らない土地を旅する楽しさくらいは味わってもいいだろう。
そんなことを考えていると、前を歩いていたロアンが足を止めた。
「……見えてきたぞ」
彼が指さした先には、白っぽい岩が幾重にも重なった大きな崖があった。
中腹には緑の木々が茂り、岩の間から細い水が流れ落ちている。
さらに驚いたのは、崖の下に広がる景色だった。
大きな木々が自然の屋根のように枝を伸ばし、その下にはいくつもの水場がある。浅い池もあれば、石を積み上げた大きな水槽のような場所もあり、周囲には広い草地が続いていた。
そして、その草地には魔物達がいた。
「……うわ」
声が漏れる。
丸い甲羅を持つ大きな魔物が木陰で休み、細い脚の獣が水を飲んでいる。岩場では小さな魔物達が日向ぼっこをして、木の枝には色鮮やかな羽の生き物が何羽も留まっていた。
種類も大きさも違う魔物達が、互いに距離を取りながら、同じ場所で過ごしている。
「……何だ、ここ」
しばらく言葉を失った。
魔物の群れが移動している光景は何度も見てきた。けれど、こんなふうに様々な種類が一か所で休んでいるところは初めてだ。まるで、広い公園に集まった動物達を眺めているようだった。
「これが《渡りの泉》だ」
ロアンが少し誇らしそうに言う。
「昔から、獣達が水を飲みに来る場所なんだ」
「……すごいな」
同じ言葉を繰り返してしまった。
見ているだけで、時間を忘れてしまいそうだった。
◇
「そこの人達! それ以上、前へ来ないで!」
突然の声に、俺達は足を止めた。
振り返ると、少し離れた木陰から、一人の女性が歩いてきた。
淡い青色の髪を肩の辺りで束ね、薄い布を重ねた動きやすそうな服を着ている。首筋や手首には細かな鱗のような模様があり、指の間には薄い水かきが見えた。人間とは違う種族らしい。
「すみません。ここを見学してもいいかと思って……」
「見学はいいけど、あの縄より先は駄目。休んでいる魔物を驚かせるから」
指さされた先には、木の柱を使って細い縄が張られている。そこから先が、魔物達の休む場所らしい。
「そうだったんですね。すみません」
「分かればいいよ」
女性は俺達を見渡し、最後にロアンへ目を向けた。
「あんた、フェルナ族の旅人かい?」
「ああ。ハルネ谷から来たロアンだ。こっちは交渉士のユウト」
「……交渉士?」
「魔物と話をしながら、移動の理由を調べている」
「ハルネ谷って、あの大きな群れが通ったっていう?」
「昨日、古い石の道を通って西へ抜けていった。俺達はその群れの移動を調べているんだ」
「なるほど。だからここへ来たのか」
女性はようやく納得した様子だった。
「私はアシェ。水鱗族で、ここの水場を管理しているんだ」
「水鱗族……」
彼女の手元を見る。
指の間の薄い膜は、光を受けると青く透けて見えた。首筋の鱗も装飾ではなく、彼女自身の体の一部らしい。この世界には、本当にいろいろな種族がいる。
「ユウト、あんまりじろじろ見たら失礼だよ」
ミミナに小声で注意され、慌てて視線を戻した。
「あ、ごめんなさい。初めて見る種族だったので」
アシェは気にした様子もなく笑った。
「いいよ。私もここへ来たばかりの人間を見ると、つい靴を見ちゃうから」
「靴?」
「水辺で滑りやすそうな靴を履いている人が多いんだ。仕事柄、どうしても気になってね」
彼女にとっては、俺の靴の方が珍しいらしい。
「それで、ここって地元では《魔物の宿》とも呼ばれてるんですよね?」
「そんなふうに呼ぶ人もいるね。でも、別に魔物を泊めているわけじゃないよ」
「じゃあ、何をしてるんですか?」
「水場を守ってるのさ」
アシェは泉の方へ目を向けた。
「ここには昔から、いろいろな獣が来る。季節によって種類も数も違うけど、水を飲んだり休んだりして、またどこかへ行くんだ」
彼女は石造りの水槽を指さす。
「あの水槽は、背の高い獣でも飲めるようにしてある。こっちの浅い池は、小さな生き物が落ちても上がれるよう、縁を緩やかにしているんだよ」
「へえ……」
「もちろん、全部の魔物が安全とは限らない。危険な種類が来た時には、人を近づけない。ここは誰でも自由に入れる場所じゃないんだ」
ただ水を用意しているだけではなく、魔物の特徴や行動に合わせて場所を整えているらしい。
もう一度、泉を見る。
様々な魔物が同じ場所に集まっているのに、大きな争いは起きていない。それが当たり前なのか、長い時間をかけて生まれた習慣なのかは分からない。
「……面白いな」
呟くと、アシェが笑った。
「そんなに珍しい?」
「はい。魔物って、人間と争ったり、町を襲ってきたりするイメージが強かったので」
「そういう魔物もいるよ。私だって、危ない相手には近づかない」
あっさりとした答えだった。
「でも、水を飲んで休んでいるだけの相手に、わざわざ喧嘩を売る必要もないだろう?」
その言葉に、少し笑ってしまった。
この高原へ来てから、同じような考え方の人達に何度も出会っている。魔物を何でも信用するわけではない。けれど、最初から敵だと決めつけることもしない。
この土地には、そんな暮らし方が自然に根づいているのかもしれなかった。
◇
アシェは俺達を、人間が安全に泉を見渡せるという木製の見晴らし台へ案内してくれた。
休憩場所から少し離れた高台で、低い柵の向こうに泉の全体が広がっている。
近くで見ると、水は驚くほど澄んでいた。岩の間から湧き出した水が小さな川となり、途中でいくつもの池へ分かれていく。水面には青空が映り、風が吹くたびに細かな波紋が広がった。
「……綺麗」
ミミナが小さく呟く。
彼女の視線の先では、小さな魔物が水際へ近づき、前脚で水面を軽く叩いていた。
そこへ、別の魔物が木陰から現れた。背中に細かな石のような突起を持つ、丸い体の生き物だ。
そいつは泉の縁まで来ると、体をゆっくり水に沈め、気持ちよさそうに目を細めた。
「……あいつ、風呂に入ってるみたいだな」
「本当だ! すごく気持ちよさそう!」
「魔物も水浴びくらいするだろう」
ロアンが当然のように言う。
「いや、そうなんだけどさ。あんなに幸せそうな顔をするんだなって」
少なくとも、俺にはそう見えた。
実際に何を感じているのかは分からない。それでも、水から上がろうとせず、じっと目を細めている姿は、何とも平和だった。
そんな俺達の横で、アシェが小さな木札を取り出した。泉を眺めながら、何かを書き込んでいる。
「それ、何の記録ですか?」
「今日ここへ来た魔物の数と種類だよ。水場の管理に必要だからね」
「毎日つけてるんですか?」
「できるだけね。全部を数えられるわけじゃないけど、どんな魔物が増えたか、どの辺りで休んでいたかは記録している」
ハルネ谷でサフィア達と話した時も、同じことを考えた。
魔物達の行動を記録しておけば、次に何か起きた時の参考になるかもしれない。
「……アシェさん、最近ここへ来る魔物って増えてます?」
尋ねると、彼女の手が止まった。
「増えてるよ。それも、かなりね」
「やっぱり……」
「ただ、全部の種類が増えているわけじゃない。いつも来る魔物が姿を見せなくなったこともあるし、今まで見なかった種類が来るようにもなった」
アシェは木札を何枚か取り出し、俺達に見せてくれた。
日付と簡単な絵、それから矢印のような印が描かれている。
「この印は?」
「どっちから来て、どっちへ去っていったかだよ。遠くから見える範囲でしか分からないけどね」
木札を一枚ずつ確かめる。
同じ種類の魔物でも、別の日には違う方向へ移動している記録があった。小型の魔物が西へ向かった日もあれば、大型の魔物が北へ進んだ日もある。
「……全部が西へ向かってるわけじゃないんですね」
「ああ。そもそも、ここは色々な土地へ道が分かれる場所だからね」
アシェは泉の周囲を指さした。
「南へ行けば交易市があるし、北には湿原が続いている。西へ行けば深い谷、東へ戻れば高原の集落だ。魔物によって向かう先も違うんだよ」
周囲を見渡す。
確かに、泉を中心にして、いくつもの道が伸びていた。人間が作った道もあれば、獣達が長い年月をかけて踏み固めたような細い道もある。
ここは単なる休憩場所ではなく、様々な土地をつなぐ場所なのかもしれない。
「……ロアン」
「何だ?」
「魔物達が西へ移動してるって言ってたよな」
「ああ。大きな群れは西へ向かうことが多い。ただ、ほかの方向へ進む奴らもいる」
「だったら、全部が同じ理由で動いてるとは限らないよな」
「そうだな」
ロアンは考え込むように地図を見た。
俺も木札の矢印を追いながら、少し考えた。
魔物が移動している。そう聞くと、何か一つの大きな原因があるように思ってしまう。けれど実際には、種類も違えば、向かう場所も違う。もしかしたら、それぞれ別の事情があるのかもしれない。
「……分からん!」
「そんなに簡単に分かったら、私も苦労しないよ」
アシェが笑った。
「でも、面白いだろう?」
彼女は泉の方へ視線を戻す。
「ここへ来る魔物を見ていると、毎日違う発見があるんだ。昨日まで見なかった種類が現れたり、いつも同じ場所で休む奴が、別の木陰を選んだりね」
少し楽しそうに続けた。
「何を考えているかなんて分からないけど、見ているうちに気づくことはある。だから、私はこの仕事が好きなんだ」
その言葉に、何となく親近感を覚えた。
俺も、相手を観察することくらいしかできない。魔物の心を読めるわけでも、特別な力で命令できるわけでもない。けれど、だからこそ、ちゃんと見て、話を聞いて、少しずつ理解しようと思えるのかもしれない。
◇
昼を過ぎた頃、泉に新しい魔物の群れが現れた。
最初に気づいたのはロアンだった。
「……何か来るな」
耳を動かし、北側の草地へ目を向ける。俺達もそちらを見た。
遠くの丘から、小さな影がいくつも現れている。最初は草の揺れと区別がつかなかったが、近づくにつれて、姿がはっきりしてきた。
細長い胴体に短い脚。背中には半透明の薄い膜が何枚も伸び、風を受けるたびに柔らかく揺れている。大きさは中型犬ほどだろうか。
十数匹の群れが、草地をゆっくり進んでいた。
「……何だ、あれ?」
「ああ、《風膜獣》だね」
アシェが顔を上げる。
「ふうまくじゅう?」
「背中の膜で風を感じる魔物だよ。普段は北の湿原にいることが多いんだけど、たまにここまで来るんだ」
少し表情を緩めて続けた。
「ほら、見てごらん」
彼女が指さした先で、風膜獣の一匹が立ち止まった。
背中の薄い膜が大きく広がり、風を受けてふわりと揺れる。その瞬間、隣にいた別の一匹も同じように膜を広げた。
やがて群れの半分ほどが立ち止まり、背中の膜を揺らし始める。
「……すごい」
ミミナが目を輝かせた。
「何か合図してるのかな?」
「さあね。風を確かめているのかもしれないし、別の意味があるのかもしれない」
アシェは静かに答えた。
俺達は、しばらくその不思議な光景を眺めていた。
半透明の膜が太陽の光を受け、淡い虹色に輝いている。風が吹くたびに色が変わり、草原の上に小さな光の波が広がっているようだった。
「……綺麗だな」
こんな魔物がいるなんて、想像もしなかった。
危険な魔物と戦うことだけが、冒険じゃない。知らない生き物を見て、初めての景色に驚くことだって、十分に楽しい。
そんなことを考えていた時だった。
アシェが木札を一枚取り出し、何かを確かめ始めた。
「……あれ?」
小さな声に、俺は顔を向けた。
「どうしました?」
「ちょっと待って。この群れ……」
木札と風膜獣達を、交互に見ている。しばらく考え込んでから、別の札も取り出した。
「……やっぱり変だね」
「何がですか?」
アシェは北側の草地を指さした。
「風膜獣は、普段ならこの時期に湿原の奥へ移動することが多いんだ。だから、北へ向かうなら珍しくない」
「でも、今の群れは北から来ましたよね?」
「ああ。しかも、ここ数日で同じ方向から来た群れが何度かいる」
木札に描かれた印を見る。北から南へ向かう矢印が、いくつも記されていた。
「……いつもと逆方向に移動してるってことですか?」
「少なくとも、私が普段見ている時期とは違う動きだね」
アシェは慎重に答えた。
「ただ、湿原の向こうで何が起きているかまでは分からないよ。もともと別の場所にいた群れかもしれないし、季節の変化が関係しているのかもしれない」
遠くの風膜獣達を見る。彼らは泉の端へ近づき、慎重に水を飲み始めていた。
その姿は平和そのものだ。けれど、普段とは違う道を選んでいるのだとしたら、何か理由があるのだろうか。
「……ロアン」
「ああ。気になるな」
ロアンは北の山並みを見つめた。
「俺達の集落では、西へ向かう大型魔物が増えている。でも、北から南へ下りてくる群れもいるなら、移動の様子はもっと複雑なのかもしれないな」
「そうだな」
何か一つの答えを急ぐより、まずはそれぞれの動きを調べた方がよさそうだった。
そこで、アシェがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、北の湿原から来る旅人がいるんだった」
「旅人?」
「水路を使って荷物を運ぶ人達だよ。湿原の集落と交易市を行き来しているんだ」
彼女は泉の北側へ続く細い道を指さした。
「明日あたり、ここへ立ち寄る予定なんだ。実際に向こうを通ってきた人なら、最近の様子を知っているかもしれないね」
「……本当ですか?」
「ああ。もちろん、必ず来るとは限らないけどね」
それでも、十分ありがたい話だった。
俺達はまだ、北の湿原について何も知らない。どんな土地で、どんな魔物が暮らしているのかさえ分からないのだ。そこを行き来している人に話を聞けるなら、新しい発見があるかもしれない。
「ロアン、明日もここへ来てみないか?」
少し考えてから、ロアンは頷いた。
「そうだな。せっかくここまで来たんだし、話を聞く価値はあると思う」
「決まりだな」
少し嬉しくなった。今回の旅は、まだまだ面白くなりそうだ。
◇
夕方、俺達は泉を離れる前に、もう一度見晴らし台へ立ち寄った。
昼間に比べて魔物の数は減っていたが、木陰にはまだ何匹もの生き物が休んでいる。水面には夕日が映り、泉全体が淡い金色に染まっていた。
遠くでは、風膜獣達が背中の膜を揺らしながら、草地の向こうへ歩いていく。
その景色を眺めていると、アシェが隣へやってきた。
「今日は楽しめたかい?」
「はい。すごく」
素直に答える。
「正直、魔物の調査に来たのを忘れそうなくらいでした」
「それは困るね」
アシェが笑った。
「でも、たまにはそういう日があってもいいんじゃない?」
「そうですね」
俺も笑い返した。
この世界へ来てから、危険な目に遭うことも多かった。そのせいか、冒険といえば事件や戦いを思い浮かべることが増えていた気がする。
けれど、今日のように知らない景色を見て、初めて会った人から話を聞く時間も、立派な冒険なのだろう。
「ユウト」
リリアが声をかけてきた。
「そろそろ戻りましょう。暗くなる前に谷へ着いた方が安全です」
「ああ、そうだな」
荷物を背負い直すと、アシェが小さな木札を一枚差し出した。
「これ、持っていくといいよ」
「何ですか?」
「今日ここで見た魔物の簡単な記録さ。あとで集落の人達にも見せてあげて」
受け取った札には、魔物の絵と移動方向を示す印が、丁寧に描かれていた。
「ありがとうございます!」
「どういたしまして。それと、明日また来るなら気をつけてね」
「はい」
「北から来る旅人は、風の具合で到着が遅れることもあるから。待ちぼうけになっても、文句は言わないでおくれよ」
「大丈夫です。待つのは慣れてますから」
アシェは楽しそうに笑った。
「それなら、あんたはいい交渉士になりそうだね」
「……え?」
「魔物と話すより、まず相手を待てることの方が大事かもしれないよ」
その言葉に、少し考え込んだ。
相手が何を考えているのか分からない時、無理に答えを聞き出そうとしても、上手くいくとは限らない。人間だって、話したくない時や、考えをまとめる時間が必要な時がある。魔物なら、なおさらだろう。
「……そうかもしれませんね」
アシェは満足そうに頷いた。
俺達は彼女に別れを告げ、ハルネ谷へ戻る道を歩き始めた。
◇
帰り道、俺はもらった木札を取り出した。
そこには、西へ向かう魔物と、北から南へ移動する魔物の記録が並んでいる。どちらも同じ時期に、普段とは違う動きを見せているらしい。
ただ、それが偶然なのか、何か共通する理由があるのかは、まだ分からなかった。
「……なあ、ロアン」
「何だ?」
「魔物達が移動してるって話、最初は全部同じ方向へ逃げてるのかと思ってたんだ」
「俺も、最初はそう考えたよ」
「でも、そうじゃないのかもしれない」
ロアンは少し考えてから頷いた。
「ああ。まだ分からないことが多すぎる」
木札へ目を落とす。
西へ向かう大型魔物。北から南へ下りてくる風膜獣。町の近くへ現れるようになった荷葉獣。そして、いつも通り泉で休んでいる魔物達。
どの行動にも、それぞれの事情があるのかもしれない。俺達が知っているのは、そのほんの一部だけだ。
「……ますます、調べることが増えたな」
苦笑すると、ロアンも笑った。
「そうだな。でも、ユウトは嫌そうじゃないな」
「まあな。知らないことを知るのって、結構楽しいんだよ」
ロアンは一瞬きょとんとしたあと、声を上げて笑った。
「変わった冒険者だな、お前は」
「それ、よく言われるよ」
俺もつられて笑った。
剣も魔法も相変わらず苦手だ。今日だって、危険な魔物と出会っていたら、真っ先にリリアの後ろへ隠れていただろう。
それでも、この世界をもっと知りたいと思う気持ちは、以前より強くなっている。まだ見たことのない土地があり、知らない種族が暮らしていて、想像もしなかった魔物達が生きている。
そんな世界を旅できるのだから、少しくらい弱くたって悪くない。
夕日に染まる草原を歩きながら、そんなことを考えていた。
やがて、遠くにハルネ谷の家々が見え始めた頃、ロアンがふと足を止めた。
「……そういえば、ユウト」
「ん?」
「明日来るっていう北の旅人、アシェは水路を使うって言ってたよな」
「ああ。そうだったな」
「だったら、俺達が今まで調べていない場所の話も聞けるかもしれない」
「……湿原のことか?」
「ああ。高原の北側には、歩いて行くには難しい場所も多いんだ」
顔を上げた。
「……それって、もしかして船に乗れる?」
「船?」
「いや、風帆車の次は船かと思ってさ!」
ロアンはしばらく俺を見つめたあと、呆れたように笑った。
「お前、調査より乗り物の方が楽しみなんじゃないのか?」
「そんなことない……いや、まぁ、ちょっとはあるけど」
後ろでミミナが笑い声を上げた。また余計なことを言ってしまったらしい。
それでも、明日が楽しみな気持ちは変わらなかった。
――第80話 終
最後までお読みいただきありがとうございます!
今回は、ハルネ谷の古い道を進んだ先にある《渡りの泉》を訪れました!
人間のための宿ではなく、魔物達が水を飲み、休憩するための場所。
そして、その水場を守る水鱗族のアシェが新たに登場しました。
第二章では、魔物との戦いや事件だけでなく、こうした異世界ならではの風景や、そこに暮らす人々の生活も大切に描いていきたいと思っています。
今回登場した《風膜獣》も、その一つです。
魔物達がどこへ向かい、何を求めて移動しているのかは、まだ分かりません。
ただ、すべての魔物が同じ方向へ進んでいるわけではないことも、少しずつ見えてきました。
そして次回は、北の湿原から来る旅人との出会いが待っているかもしれません。
ユウト達は、どんな新しい世界を知ることになるのでしょうか。
面白いと思っていただけましたら、ブックマーク・評価・感想で応援していただけると、とても励みになります!
これからもユウト達の冒険を、どうぞよろしくお願いします!




