昨日まで魔物に槍を向けていた兵士達が、今日は森へ帰る道を空けました
目を覚ました時、空はもう薄く明るくなっていた。
最初に見えたのは木の枝。その次に、自分の腹の上へ乗せられている毛布だった。
「……いつ寝た?」
「覚えていないなら、かなり疲れていたんでしょうね」
声の方を見ると、ノアが少し離れたところで治療鞄を整理していた。
「俺、見張りしてなかった?」
「していましたよ。途中までは」
「途中?」
「座ったまま寝てました」
「誰か起こしてよ」
「起こしました」
ノアが淡々と答える。
「二回」
「二回も?」
「一回目は『起きてる』、二回目は『あと五分』と言っていました」
「完全に寝てる人の返事だな……」
「なので諦めました」
身体を起こすと、少し離れた場所でリリアが兵士達と話しているのが見えた。結局、俺が寝ている間の見張りまで引き受けてくれたらしい。
その近くではミミナが毛布に包まったまま丸くなっている。
「ミミナは?」
「まだ寝ています」
「珍しいな」
「昨日、あれだけ魔力を使いましたから」
そりゃそうか。
俺より働いている。
「ユウトぉ……」
突然、毛布の塊から声がした。
「起きてたの?」
「今起きた……お腹すいた」
「第一声がそれか」
「大事……」
「元気そうで安心したよ」
ミミナは毛布の隙間から片手だけを出した。
「食べ物」
「俺を食料庫だと思ってない?」
「甘いものでもいい」
「昨日食べただろ」
「昨日は昨日」
理屈が強い。
ノアが小さく笑いながら保存食を一つ取り出した。
「まずはこちらです」
「ノア大好き」
「代金はあとで」
「前言撤回」
いつもの朝だった。
つい数時間前まで、人間と魔物が本当にぶつかる寸前だったとは思えない。
でも、こういう時間があるから、たぶん俺達は次の日も動ける。
◇
日が昇る頃には、森と街道の状況も少しずつ見えてきた。
巨大な黒い装置を止めたことで《夜棘》の成長は止まっているが、すでに生えたものまで消えたわけではない。森の中には黒紫色の蔓が残り、近づけばまだ危険な場所もある。
「今日一日で森を元通りにするのは無理ですね」
ノアが《夜棘》の残骸を確認しながら言った。
「浄化できる部分から処理しますが、奥まで安全だとはまだ言えません」
「じゃあ魔物達は?」
街道の西側には、昨夜森から逃げてきた魔物達がまだ残っている。
ホーンラビット。
鹿型の魔物。
フォレストウルフ。
大型の魔物も何頭か見えた。
昨日までのような混乱はないが、森へ戻る個体もいれば、その場から動こうとしない個体もいる。
「全部森へ戻せばいい、という話でもなさそうだな」
俺が言うと、ノアが頷いた。
「住んでいた場所が安全かどうか、私達には分かりませんから」
灰耳も群れの近くを歩いているが、無理に森へ追い返そうとはしていない。
俺達が決めることじゃない。
帰りたいなら帰れるようにする。
別の場所へ行きたいなら、少なくとも人間が邪魔をしないようにする。
「問題は街道か」
森へ戻るには、人間が使っている道を横切る必要がある個体も多い。
昨日は緊急事態だったから兵士達が人を止めたが、朝になれば隊商や旅人も動き始める。
「もう人が集まっています」
リリアが戻ってきた。
街道の向こうを見ると、確かに何台かの荷馬車が止められている。
「怒ってる?」
「少しだけ」
「ですよね」
一晩待たされたうえ、さらに「魔物が帰るまで待ってください」と言われれば不満も出る。
「どうする?」
ミミナが保存食を食べながら尋ねる。
「魔物を急がせる?」
「いや」
俺は街道を見る。
「昨日は魔物が人間に合わせようとして失敗しかけた。今日くらい、人間側が待ってもいいんじゃない?」
リリアが少し笑った。
「では、話してきましょう」
「俺も行くよ」
「大丈夫ですか?」
「何が?」
「昨日からほとんど寝ていませんよね」
「さっき寝てたって言ったじゃん」
「座ったままですが」
「睡眠は睡眠」
ノアが後ろから言った。
「寝たうちに入りません」
「今日だけ許して」
「診察対象にはしておきます」
「何その予約システム」
◇
街道には三組の隊商と数人の旅人が待っていた。
当然、全員が機嫌よく待ってくれるわけではない。
「いつまで止めるんだ!」
商人らしい男が声を上げた。
「昨日から足止めされてるんだぞ。魔物がいるなら、騎士団で追い払えばいいだろう!」
無茶な意見とも言い切れない。
この人達にとっては、商品を予定通り運ぶことが生活につながっている。
「半日も止められたら困るんだ!」
「それは分かります」
俺が答える。
「でも、昨日あの魔物達を森から追い出したのは、魔物が勝手に暴れたからじゃないんです」
「だから何だ」
「人間が作った装置が原因でした」
周囲が少し静かになる。
「全部の責任がここにいる人達にあるとは言いません。でも、追い出した側が『邪魔だから早く戻れ』って言うのは、さすがに違うと思うんです」
男はすぐには答えなかった。
俺は続ける。
「一日ずっと止めたいわけじゃありません。帰ろうとしている魔物が街道を横切る間だけ、道を空けてほしいんです」
「襲われない保証は?」
「ありません」
男の眉が上がった。
「ないのかよ!」
「ないです。だから騎士団が間に入りますし、危険な個体が来たら止めます。でも、『絶対大丈夫です』って言ったら嘘になるので」
俺には保証なんてできない。
魔物が何を考えているのかも分からない。
ただ、昨日一晩見ていた限り、ほとんどの魔物は人間と戦いたくてここにいるわけではなかった。
「責任は私も負います」
隣にいたリリアが一歩前へ出た。
「街道の安全確認は聖騎士団と警備兵で行います。通行を止める時間も必要最低限にします」
グレンも後ろから加わる。
「北側には待避地がある。急ぎの荷物は、護衛をつけて東の迂回路へ回す。それ以外は昼まで待ってくれ」
「副団長まで言うなら……」
商人はまだ納得しきってはいないようだ。
それでも、完全に拒否はしなかった。
「商品が傷んだら?」
ノアがすぐに口を開く。
「今回の緊急封鎖に関する損害については、後ほど王都側へ申請できるよう記録を残しておくべきですね」
グレンがノアを見る。
「……そこまで考えてなかった」
「待ってもらうなら、人間側の損も無視してはいけません」
「神官というより商人だな」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めたのかな?」
ミミナが俺に小声で聞く。
「本人がいいならいいんじゃない?」
とにかく。
街道を空ける時間は作れた。
◇
「柵、重い!」
兵士が声を上げた。
魔物が街道を横切る場所を限定するため、人間側の進入を防ぐ仮設の柵を移動させているのだが、昨日から働き続けている兵士達はさすがに疲れていた。
「ミミナ」
「はいはい!」
ミミナが杖を向ける。
「対象、木製柵四枚! 効果、重量軽減! 強さ三十パーセント、時間十分!」
兵士達が柵を持ち上げる。
「軽っ!」
「すごい!」
ミミナが胸を張った。
「もっと褒めていいよ!」
「助かります、魔導士殿!」
「うむうむ」
「調子乗るなよ、魔道士殿」
「ムッ!昨日頑張ったんだから今日くらいいいでしょ!」
「まあ、それはそう」
少し離れた場所では、ノアが人間と魔物の両方を治療していた。
兵士の腕へ包帯を巻いた直後、今度は脚を傷めた鹿型魔物の前へしゃがみ込む。
「近づいて大丈夫ですか?」
兵士が心配そうに尋ねる。
「分かりません」
「え?」
「ですので、急に動いたら離れます」
「普通に怖いんですね」
「当然です」
ノアは平然と答えながら《癒しの灯》を使う。
怖くないから近づくんじゃない。
怖くても必要なら行く。
そこは、最初に会った頃から変わっていない。
そしてリリアは、街道の中央で兵士達へ位置を指示していた。
「槍は下げてください。魔物がこちらへ向かってきても、すぐ構えないように」
「ですが聖騎士様、もし襲われたら?」
「その時は私が前へ出ます」
「一人でですか?」
「はい」
兵士が妙に納得した顔になった。
俺も分かる。
リリアがそう言うと、本当に何とかしそうなのだ。
「リリア!」
「何ですか?」
「街道から離れすぎないでね!」
「なぜです?」
「戻ってこられなくなるから!」
「何故今その話をするのです!?」
兵士達の間から笑いが起きた。
「ほら!笑われました!」
「ごめん!」
怒られた。
でも、兵士達の緊張も少し下がったように見える。
◇
準備が整うと、俺は灰耳の近くまで歩いた。
「道、空いたぞ」
もちろん、言葉そのものが伝わるとは思っていない。
俺は開けた街道と、その先の森を何度か指す。
灰耳は俺を見たあと、街道の向こうへ視線を移した。
しばらくして、一頭のフォレストウルフが動いた。
兵士達の身体が固くなる。
「動かないで!」
リリアが声をかける。
「まだ武器は構えないでください!」
フォレストウルフは人間達を警戒しながら、ゆっくり街道へ出た。
一歩。
また一歩。
昨日までなら、ここで槍が向けられていたかもしれない。
でも今日は違った。
兵士達は道の両側へ立ったまま、誰も武器を上げない。
フォレストウルフはその間を通り抜け、森へ入っていった。
次に二頭。
その後ろから鹿型の魔物。
ホーンラビットも続く。
「……本当に通っていく」
若い兵士が呟いた。
「昨日は、全部襲ってくると思ってました」
「俺も最初はそう思ってたよ」
俺が答える。
「違うんですか?」
「違う奴もいる」
裂牙獣のように、こちらが止めなければ誰かを殺す魔物だっている。
「だから、ちゃんと見てあげるしかないんだ」
兵士は森へ戻っていく魔物達を見つめながら、ゆっくり頷いた。
◇
全ての魔物が森へ戻ったわけではなかった。
街道を渡らず北へ向かう群れもいれば、そのまま別の山へ移動していく個体もいる。
「戻らないんだね」
ミミナが言った。
「森がまだ怖いのかも」
「別の場所を選んだだけかもしれません」
ノアが続ける。
理由は分からない。
「それでいいんじゃないか?」
俺は遠ざかる群れを見る。
「帰る場所まで俺達が決めたら、結局また人間の都合になるし」
森へ戻りたいなら、道を空ける。
違う場所へ行きたいなら、邪魔をしない。
今できるのは、それくらいだ。
最後の大型魔物が街道を渡り終えた頃、例のロックベアが姿を現した。
兵士達が一瞬だけ緊張する。
「大丈夫だ」
俺も確信があるわけではない。
だから、いつでも離れられる距離は取った。
ロックベアは俺達の方へ向かってくる。
数メートル。
さらに近づく。
「ユウト」
リリアが俺の横へ移動した。
「うん」
でも、ロックベアはそこで止まった。
俺を見る。
「……何?」
返事はない。
しばらくこちらを見たあと、ロックベアは顔を森へ向けた。
そのまま歩いていく。
「行っちゃった」
ミミナが呟く。
「ありがとう、とかじゃないんですね」
ノアが言う。
「魔物だしな」
「でもユウト、ちょっと期待してたでしょ」
「してないよ!」
「顔に出てる」
「俺の顔、そんな分かりやすい?」
三人が同時に頷いた。
「ひどくない?」
ロックベアは一度も振り返らず、森の奥へ消えていった。
◇
昼前には街道を再び開けられる見込みが立った。
ただしグレンは、森へ続くいくつかの道について当面の立ち入りを制限することを決めた。
「《夜棘》が完全に処理できるまでは、狩人や冒険者も入れないようにする。魔物が戻ったばかりの場所へ人間が押しかけたら、また同じことになるからな」
「そんなに簡単に決めて大丈夫なんですか?」
「恒久的な決まりじゃない。緊急措置だ。正式な扱いは王都へ戻ってから話し合う」
ルーヴェルでやったことと少し似ている。
全部の答えを一日で決めるんじゃない。
まず止める。
調べる。
それから決める。
その方がいい。
「ユウト」
後ろから呼ばれ、振り返る。
バルド、レイン、ハイゼンが並んでいた。
その向こうには騎士が二人いる。
「王都へ戻る」
バルドが言った。
「事情を全部話す」
「逃げないの?」
「逃げたら聖騎士様が追ってくるだろ」
リリアが真顔で頷く。
「追います」
「ほらな」
「怖いなぁ」
レインが苦笑する。
ハイゼンは俺を見る。
「俺も話す。知っていること全部だ」
「罪を償えるとは思ってない」
バルドが続ける。
「俺達が杭を置いたことも、人間へ罠を仕掛けたことも事実だ」
少しだけ間が空いた。
「でも、少なくとも次に同じことをさせないために、知ってることは全部話す」
「わかった」
俺には、それ以上言うことはなかった。
許すかどうかを俺が決める話でもない。
ただ、自分達がしたことから逃げないなら、それで一歩は進める。
「ユウト」
今度はセイルが呼んだ。
手には、昨日地下で見つけた金属板がある。
「十二の印について――」
「ごめん」
「何だ?」
「それ、午後でもいい?」
セイルが目を丸くする。
「気にならないのか?」
「めちゃくちゃ気になる」
「なら今――」
「でも今は、こっちを最後まで終わらせたいんだ」
俺は森を見る。
まだ治療が必要な魔物がいる。
兵士達も疲れているし、街道には待たせている人達がいる。
「一つ一つ終わらせる。金属板の謎はその後だ」
セイルはしばらく俺を見ていた。
やがて、小さく笑う。
「分かった。午後だ」
「ありがとう」
「以前のお前なら、すぐ飛びついたかもしれないな」
「フッフッフ。学んでるのでね」
「続くといいのですが」
リリアが言う。
「お母さん?」
ミミナが笑う。
「リリアの心配わかるー」
「心配のされ方が子どもと同じなんだよ」
「中身は子供ですからね」
ノアが言う。
「ひどい!」
四人で笑った。
◇
昼。
最後に残っていた魔物の群れが街道を横切った。
人間達は道の両側へ立ち、誰も槍を構えていない。
昨日までなら、魔物が近づくだけで戦いになっていたかもしれない。
今日は、人間の方が少しだけ道を譲った。
魔物も人間の列へ襲いかからず、その間を静かに通り抜けていく。
誰かが境界を壊そうとして、多くの命を無理やりぶつけようとした。
でも、境界そのものが悪いわけじゃない。
人間と魔物が離れて暮らした方が安全な場所もあるし、近くで暮らすなら決めなければならないこともたくさんある。
ただ、それを誰かが勝手に壊す必要はない。
必要な時に必要な分だけ、お互いに少し道を譲ればいい。
最後の魔物が森へ消えたあと、兵士達がゆっくり街道へ戻っていく。
俺はその光景を見ながら、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
人間か魔物か、そういう選択じゃなくて、お互いが尊重しながら生きられる場所を作れたような気がした。
――第七十一話 終
最後までお読みいただきありがとうございます!
黒い装置は止まりました。
ですが、
《夜棘》が消えたからといって、
すぐに全てが元通りになるわけではありません。
森へ帰る魔物。
別の土地へ向かう魔物。
そして、
昨日まで魔物へ武器を向けていた人間達。
今回は、
人間の方が少しだけ道を譲りました。
さらに、
バルド、レイン、ハイゼンも
自分達が知っていることを話すため、
王都へ戻ることを決めます。
事件は大きく動きましたが、
まずは目の前の人と魔物をちゃんと帰す。
ユウト達が選んだのは、
次の謎を追うことより、
今ここにいる命を最後まで見届けることでした。
そして、
まだ残っている十二の印。
その意味を確かめるのは、これからです。
第72話へ続きます!
ブックマーク・評価・フォロー・感想などで応援していただけると、とても励みになります!




