魔物に「ついて来い」と言われる日が来るとは思わなかった
灰色の耳を持つフォレストウルフは、傷ついた雌狼の前まで歩くと、その場で俺達を待った。
雌狼の後ろ脚には黒紫色の棘が絡みつき、傷口の周囲まで変色している。ロックベアほど深くは刺さっていないものの、あれでは子供を連れて逃げることなどできなかっただろう。
「ノア」
「診ます。ただし、親が許してくれるならですが」
「そこが一番難しいな」
人間なら「治療します」で済む。
相手は狼だ。
しかも三頭の子供を守っている。
俺が近づいた瞬間に噛まれても文句は言えない。
灰耳は雌狼の横へ座ると、俺を見て低く鳴いた。
「本当に行っていいのか?」
返事はない。
当然だ。
「ユウト、私が先に行きますか?」
リリアが尋ねる。
「鎧と剣持った人が近づく方が怖くない?」
「……確かに」
素直に引いてくれた。
俺はゆっくり進み、途中で短剣を外して地面へ置いた。
昔、ゴブリン相手にも同じことをした。
「何もしないよ」
しゃがんだまま、雌狼を見る。
唸っている。
でも逃げない。
「痛いの取るだけ。たぶんノアならできる」
「たぶんは余計です」
後ろから訂正された。
「絶対できるらしい」
「よろしい」
ミミナが小さく笑い、緊張がほんの少し緩んだ。
雌狼は最後まで俺から目を離さなかったが、灰耳が鼻先を寄せると、ようやく唸り声を止めた。
「ノア」
「行きます」
ノアが俺の隣へしゃがむ。
いきなり傷には触れず、まず手のひらへ小さな《癒しの灯》を浮かべた。
「怖がらなくて大丈夫です」
「俺より話しかけ方うまくない?」
「患者ですから」
理由がノアらしい。
柔らかな光が雌狼の脚へ近づく。
最初は体を強張らせていたが、痛みが薄れていると分かったのか、少しずつ力が抜けていった。
「《夜棘》を先に弱めます」
金色の光が棘へ移る。
ミミナは自分から杖を構えた。
「対象は脚に絡んだ《夜棘》だけ。効果は固定、強さは三割、時間十五秒でいくね」
「頼む」
以前なら俺が一つずつ条件を指定していた。
今は違う。
ミミナ自身が傷ついた相手を見て、必要な強さを決められる。
リリアも剣を抜く前に俺達を見る。
「根元が見えました。切ります」
「お願い」
刃が一度だけ動いた。
狼の毛一本傷つけず、《夜棘》だけが地面へ落ちる。
ノアの治療が続き、しばらくすると雌狼は自分の脚で立ち上がった。
三頭の子狼が一斉に母親へ駆け寄る。
鼻先を押しつけ、尻尾を振り、足元へまとわりつく。
その光景を見ていると、さっきまでの戦闘が嘘のようだった。
「かわいい……」
ミミナが小声で呟く。
「近づくなよ」
「分かってるって」
言いながら、目は完全に子狼へ釘付けだった。
俺も触ってみたい気持ちはある。
ただ、今はやめておく。
命を助けたからといって、急に友達になれるわけではない。
そのくらいの距離感でいいと思う。
◇
雌狼が歩けることを確認すると、灰耳は群れを連れて森の奥へ向かった。
「じゃあな」
俺が手を上げる。
これで終わりだと思っていた。
ところが数十メートル進んだところで、灰耳だけが立ち止まった。
振り返る。
「……また?」
俺が一歩進むと、狼も歩き出す。
止まる。
また振り返る。
「やっぱりついて来いって言ってない?」
ミミナが笑う。
「俺もそう見える」
セイルは周囲を確認した。
「この先は山の北側だ。帰路からは外れる」
「危険?」
「野生の魔物はいる」
それなら、今さらだ。
俺は灰耳を見る。
「何か見せたいのか?」
胸の奥で《縁》がもう一度反応した。
言葉は分からない。
でも、さっきよりはっきりとした感覚がある。
警戒ではない。
急いでいる。
「行こう」
リリアが俺を見る。
「よろしいのですか?」
「せっかく呼ばれてるのに無視するのも気になるだろ」
「俺達は王都へ戻る予定だったんだが」
オスカーが言う。
「少しだけですよ」
「その台詞を言う冒険者は大抵少しで帰らん」
経験者らしい嫌な言い方だった。
それでもオスカーもついてきた。
◇
灰耳は人間が歩きやすい道を選んでいるようだった。
急な斜面へ入る時にはこちらを待ち、川を渡る時には浅い場所へ回る。
「リリアより案内が上手いかもしれないな」
「ユウト」
「聞こえてた?」
「聞こえる距離で言いましたよね?」
「独り言のつもりだった」
「独り言で私の名前を出さないでください」
ミミナが耐えきれず吹き出した。
久しぶりに、四人で冒険している感じがする。
それが少し嬉しかった。
森は次第に深くなっていったが、《夜棘》はほとんど見当たらない。
代わりに、小さな魔物が時々こちらを覗いていた。
木の上からリスに似た生き物。
岩陰からホーンラビット。
遠くには鹿のような魔物までいる。
襲ってこない。
むしろ灰耳を見ると、道を開けているように見えた。
「こいつ、この辺の群れのリーダーなのかな」
「可能性はありますね」
ノアが答える。
しばらく歩くと、森が開けた。
そこには小さな泉があった。
透明な水。
周りには柔らかい草が生え、何頭もの魔物が休んでいる。
フォレストウルフ。
ホーンラビット。
見たことのない小型の鹿。
普通なら一緒にいないはずの魔物達が、同じ場所に集まっていた。
「すご……」
ミミナが息を呑む。
敵同士ではないのか。
そう思った直後、理由が分かった。
逃げてきたんだ。
傷ついた個体が多い。
毛皮が焦げた狼。
脚を引きずるホーンラビット。
角の折れた鹿。
「避難場所……?」
俺が呟く。
ノアの表情が変わった。
「治療が必要な個体がいます」
「行っていいのかな」
何十もの目が俺達を見ている。
人間。
本来なら警戒される存在だ。
灰耳が泉の中央まで歩いた。
そこで一度だけ大きく吠える。
魔物達がざわめいた。
それでも逃げない。
灰耳は俺の方を見る。
胸の奥が熱くなった。
『《縁》が深まりました』
今までとは少し違う感覚だった。
俺と一頭の狼だけではない。
ここにいる魔物達が、灰耳を通して俺達を見ている。
「……紹介してくれてる?」
答えはない。
でも、そう思いたかった。
「ノア」
「ええ」
彼女はもう荷物を開いている。
「払える患者はいなさそうですね」
「今日は無料?」
「例外です」
「明日は雪が降るな」
「記録には残しますよ」
「……やっぱりノアだ」
四人で笑った。
そして、治療を始めた。
◇
日が傾くまで、俺達は魔物達の傷を診た。
全部を治せたわけではない。
軽い傷はノア。
絡みついた《夜棘》はミミナとリリア。
俺は警戒している魔物へ近づきすぎないよう距離を作り、どうすれば怖がらせずに治療できるか考えた。
それだけだった。
それでも、少しずつ空気が変わっていった。
最初は遠くから見ていたホーンラビットが近くまで来る。
子狼がミミナのローブの端を嗅いで怒られそうになり、ミミナは必死に動かず耐えている。
リリアの鎧へ興味を持った小さな鹿が、青い布を鼻先で揺らす。
「動けません」
「聖騎士が完全に捕まってる」
「助けてください」
「剣で解決できない相手には弱いな」
「ユウト」
久しぶりに、何も考えず笑った。
異世界へ来てから怖いことはいくらでもあった。
でも、こんな場所があるなら。
こんな時間があるなら。
この世界も悪くないと思える。
そう思っていた時だった。
灰耳が泉の向こうへ歩き始めた。
今度は一頭で。
「まだ何かあるのか?」
俺がついていく。
木々の向こうには、細い山道が続いていた。
そして地面には、深い車輪の跡が残っている。
新しい。
第二試験場の方向から来て、山の反対側へ向かっている。
「これ……」
リリアも追いつく。
オスカーが跡を確認した。
「荷車だな。それも重い荷物を積んでいる」
俺は灰耳を見る。
こいつは最初から、これを見せたかったのかもしれない。
研究所から持ち出された、何本かの黒い杭。
犯人の名前はまだ分からない。
でも。
「行き先は追える」
今度は、紙の上ではない。
地面に残った、本物の道だった。
そして俺達をそこまで連れてきてくれたのは、一頭の魔物との《縁》だった。
――第四十六話 終
最後までお読みいただきありがとうございます!
今回は、本作の大事な軸である「魔物との《縁》」をしっかり描きました。
灰耳に案内された先にあったのは、複数の魔物達が逃げ込んでいる小さな避難場所。
フォレストウルフも、
ホーンラビットも、
別種の魔物も、
傷つきながら同じ泉へ集まっていました。
ユウト達は討伐するのではなく、治療することを選びます。
そして灰耳との《縁》も深まりました。
この作品でユウトが増やしていくものは、戦闘力ではありません。
「自分を信じてくれる存在」です。
さらに最後には、第二試験場から続く荷車の跡も見つかりました。
ここでようやく本筋にも戻ります。
次からは書類や人物名を追うだけではなく、
冒険。
魔物。
バトル。
《縁》。
4人の成長。
この作品らしい要素を前面に出しながら、黒い杭の行方を追っていきます。
第47話へ続きます!
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
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