剣を向けた先で、魔物の方が子どもを守っていました
第二試験場を出た時には、山の向こうへ太陽が傾き始めていた。
《術式刻印器》と未完成の黒い杭は聖騎士団が回収し、工房から見つかった七枚の札についても王都へ戻って照合することになったが、俺達は来た時と同じ山道を歩きながら、久しぶりに誰も書類の話をしなかった。
「結局、今日も山登りで一日終わりそうだな」
俺が肩を回しながら言うと、ミミナは少し先を歩きながら振り返った。
「でも今日はちゃんと外だよ。地下じゃないだけかなりいいと思う」
「基準が下がりすぎてるんだよ」
「私は地下でも構いませんが、湿気は帳簿によくありません」
ノアの答えが相変わらず過ぎて、思わず笑ってしまった。
少し前を歩くリリアも、振り向きはしなかったものの肩がわずかに揺れている。王都に来てから資料と地下水路ばかりだったせいか、ただ森の匂いがして、風が吹いているだけでも少し気分が軽かった。
もっとも、第二試験場で黒い杭が実際に製造されていた以上、のんびりしていられる状況ではない。
それでも、ずっと息を詰めたままでは続かない。
そう思った矢先だった。
山の奥から、腹の底まで響くような咆哮が聞こえた。
リリアが瞬時に立ち止まり、剣の柄へ手をかける。
「近いです」
さっきまでの柔らかな空気が一瞬で消えた。
続いて、獣が争うような低い唸り声が重なる。単独ではなく複数、それも一つはかなり大きい。
「街道から外れてるな」
俺が音の方向を見ると、セイルも森の奥へ視線を向けた。
「この辺りはフォレストウルフの縄張りだったはずだ」
「だった?」
「三年前の話だ」
「最近そればっかりだな」
ただ、今回はその古い知識が役に立つかもしれない。
もう一度、今度は明らかに苦しそうな鳴き声が響いた。
「行こう」
俺が言うより先に、リリアはもう森へ向かっていた。
道に迷うかもしれない人なのに、助けを呼ぶ声の方向だけは本当に一度も迷わない。
◇
木々の間を抜けた先は、小さな岩場になっていた。
そこで最初に見えたのは、大きなロックベアだった。
以前リリアが《蒼月》で倒した個体ほどではないが、それでも俺の倍以上はあり、太い前脚を振るうたびに土と小石が飛び散っている。
そして、その前にいたのは五頭のフォレストウルフだった。
「戦ってる……?」
ミミナが杖を構えながら呟く。
一見すれば、熊と狼の縄張り争いに見える。
ただ、何かがおかしい。
狼達はロックベアへ向かっているのに、倒そうとしているようには見えなかった。飛びかかってはすぐ離れ、左右から吠え、ひたすら熊を岩場の奥へ進ませないようにしている。
「リリア、まだ行かないで」
前へ出ようとした彼女を呼び止める。
「ですが、このままでは狼がやられます」
「分かってる。でも、ちょっと見たい」
ロックベアが前脚を振り下ろすと、一頭の狼が避けきれずに吹き飛ばされた。
俺の心臓が跳ねる。
それでも残りの四頭は逃げない。
そして、そのうち一頭だけが俺達ではなく、ずっと背後を気にしていた。
「……あっちに何かいる」
俺が岩場の奥へ回り込むように視線を動かすと、木の根元に小さな影が見えた。
狼の子供だ。
一頭ではない。
三頭の子狼が岩の隙間へ身を寄せ、その前には後ろ脚を引きずる雌狼が横たわっている。
「守ってるんだ」
ミミナの声から明るさが消えた。
ロックベアと戦いたいわけじゃない。
子供と傷ついた仲間を守るために、逃げられない。
「リリア」
「はい」
「熊を倒さなくていい。子狼から離してくれ」
「承知しました」
その返事と同時に、銀色の髪が視界から消えた。
リリアはロックベアの横へ一気に踏み込み、振り下ろされた前脚を剣の腹で受け流すと、その勢いを利用して大きな体を横へ向かせる。
熊が怒りの咆哮を上げた。
「ミミナ、リリアだけ軽くできる?」
「できる。対象リリア、効果は重量軽減、強さ一割、時間三十秒!」
「1人で全部出来るようになったのか…俺は嬉しいぞ!」
「バカなこと言ってないでよ!」
淡い光がリリアを包み、彼女の動きがさらに速くなる。
ロックベアの攻撃を避けながら、少しずつ子狼達から遠ざけていく。
ところが、熊の肩に黒紫色のものが見えた。
「ノア!」
「見えています」
《夜棘》だった。
一本だけではなく、毛皮の下へ何本も食い込み、肩から背中にかけて絡みついている。
「やっぱりこいつも追い出された側か」
ロックベアが暴れている理由が、少し見えてきた。
痛い。
怖い。
その状態で狼の縄張りへ入り込み、今度は子供を守る狼とぶつかった。
「熊も殺さなくていい!」
俺が叫ぶと、リリアは振り返らずに答えた。
「分かっています!」
それで十分だった。
「ノア、治せる?」
「《夜棘》を除去できれば。ただし、近づくには大人しくさせる必要があります」
「ミミナ、熊を軽くするのは?」
「できるけど、大きいから少ししか変わらないよ」
「それでいい。転ばせなくていいから、踏ん張りだけ弱くしたい」
ミミナは一瞬考え、自分で条件を組み立てた。
「対象ロックベア、効果は重量軽減、強さ五パーセント、時間二十秒。これなら急に浮いたりしない」
「頼む!」
魔法が重なる。
ほんの少しだけ足元が軽くなったロックベアが、リリアへ向かって突進した瞬間に踏ん張りを失った。
「今だ!」
リリアが正面から避け、熊の横へ回る。
フォレストウルフ達も動いた。
俺達を警戒していたはずなのに、灰色の耳を持つ一頭がリリアの動きを見たあと、仲間へ短く吠える。
四頭が一斉にロックベアの反対側へ回った。
「え?」
追い立てる。
噛みつかない。
ただ、逃げ道を一つだけ残して囲んでいる。
「こいつらも分かってる」
倒す必要はない。
子供から遠ざければいい。
「リリア、狼に合わせて!」
「はい!」
人間と魔物。
話し合ったわけでもない。
それなのに、同じ目的で動き始める。
胸の奥で《縁》が熱を持った。
まだつながってはいない。
でも、あの灰色の耳の狼から、こちらを強く意識されているのが分かる。
「ノア!」
「行きます」
ロックベアが岩壁へ追い込まれた瞬間、ノアがリリアの背後から距離を詰めた。
「《浄化》!」
金色の光が熊の肩を包む。
《夜棘》が激しく震え、ロックベアが暴れた。
危ない。
俺には止められない。
でも、リリアは俺が言う前に前へ出ていた。
「ここは通しません!」
巨大な前脚を剣で受け、土を削りながらも一歩も退かない。
「リリア!」
「続けてください!」
ノアの光が強くなる。
《夜棘》の力が弱まった。
「ミミナ、根元だけ固定できる?」
「うん!」
青い光が黒紫色の茎へ絡みつく。
「リリア、頼んだ!」
「《蒼月》!」
青白い剣閃が弧を描いた。
熊の体ではなく、《夜棘》だけがまとめて切断される。
黒紫色の破片が地面へ落ち、ロックベアの巨体がよろめいた。
リリアが剣を構える。
狼達も唸っている。
だが、誰も飛びかからなかった。
ロックベアは荒い息を吐きながら周囲を見ると、一度だけ大きく鼻を鳴らし、そのまま森の奥へ走り去った。
追う者はいなかった。
静かになった岩場で、最初に動いたのは灰色の耳の狼だった。
俺の方へ歩いてくる。
「ユウト」
リリアがわずかに前へ出る。
「大丈夫…だと思う」
自信はなかったが、そこは声に出さなかった。
俺は武器へ触れず、ゆっくりしゃがむ。
「子供は無事だよ」
言葉が通じるかは分からない。
それでも伝える。
「俺達も取らないし、傷つけない」
灰色の耳の狼は数歩手前で止まった。
金色の目が、俺をじっと見ている。
胸の奥が、また温かくなる。
『対象を検出しました』
久しぶりに聞く感覚だった。
人ではない。
魔物との《縁》。
狼は俺の匂いを確かめるように鼻を動かしたあと、背を向けた。
「……嫌われた?」
俺が立ち上がろうとすると、狼が一度だけ振り返った。
それから傷ついた雌狼の方へ歩き、もう一度こちらを見る。
「ついて来いってこと?」
灰色の耳が小さく動く。
たぶん。
そういうことなのだと思う。
久しぶりに俺を必要としてくれた相手は、魔物だった。
――第四十五話 終
最後までお読みいただきありがとうございます!
今回は、黒い杭の調査から少し離れ、久しぶりに「魔物との関係」を中心にしました。
ロックベアもフォレストウルフも、最初から悪い存在として戦っていたわけではありません。
《夜棘》に傷ついたロックベア。
子供を守るために逃げられなかった狼達。
そして、人間と狼が同じ目的で、一頭の熊を殺さずに止める戦闘になりました。
ユウト自身は相変わらず戦えません。
それでも、リリア、ミミナ、ノア、そして魔物達の力までつないでいく。
これこそ、この作品で描きたい《縁》です。
そして最後に、灰色の耳を持つフォレストウルフがユウトへ何かを伝えるように振り返りました。
次回、その狼がユウト達をどこかへ案内します。
第46話へ続きます!
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