後日談1 ステラへの求婚と侯爵位
婚礼が終わってからというもの、ステラのもとには見慣れない封書が増えた。
今朝もまた、王太子妃付きの控え室へ戻ったところで、マリアが両手に抱えた文箱を机へ置いた。
「……またです」
「見ればわかるわ」
「今回は男爵家だけじゃありません。子爵家に伯爵家、あと、これはたぶんご実家経由ですね」
「でしょうね」
封蝋の意匠をひと目見ただけで、どこから来たものかは大体わかる。差出人の名より先に透けて見えるのは、王太子妃ロゼッタの専属侍女という肩書きの方だった。
辺境に領地がある男爵家三女に、ここまで続けて求婚が来る方が不自然だろう。
誰もが、ステラ自身を見ていないわけではない。だが、見ているものの上に、王宮での今の立場が乗っている。
それが悪いとは思わない。
しかし、その先に書かれている生活は、どれも似通っていた。
嫁いだあとは家へ入り、必要な社交へ出て、王宮勤めは折を見て辞めること。王太子妃付きの経験は、家格を飾る箔としては歓迎されても、継続すべき仕事として扱う文面はほとんどない。
ステラは開いた手紙を閉じ、深く息をついた。
「断りのお返事、また増えそうですね」
「増えるでしょうね」
結婚を考えていないわけではない。
けれど、どこかの家へ入って役目を失い、使い勝手のいい飾りになるつもりもなかった。
そのとき、控えめなノックが響く。
「ステラ様。ニコラス様がお呼びです」
「今?」
「はい。お時間をいただきたいと」
王太子妃付きの再編か、婚礼後の後処理か。どちらにせよ、あの人の呼び出しに無駄はない。
ステラは立ち上がり、封が閉じたままの手紙へ目をやった。
「マリア、それはあとで」
「はい。……でも、また面倒なお話でしたら呼んでくださいね」
「求婚の山より面倒な話って、そうそうないと思うけれど」
そう言い残してから、ステラは執務室へ向かった。
◇ ◇ ◇
ニコラスの執務室へ入ると、机の上にはきっちりと三種類の書類が並べられていた。
一つは、王太子妃付き体制の再編案。
一つは、サルヴィ家の爵位授与に関する文書。
そしてもう一つは――見覚えのない家名と条件が整然と並んだ一覧だった。
ステラは扉を閉め、机上の紙からニコラスへ視線を移した。
「……嫌な予感しかしないのですが」
「予感ではなく、現実の整理です」
ニコラスはいつもの調子で言った。濃紺の髪の片側へ落ちた三つ編みも、紫がかった瞳の冷静さも乱れていない。だが、ここへ呼ばれた時点で、普通の業務だけではないとわかる。
「座ってください、ステラ嬢」
「ありがとうございます」
勧められた椅子へ腰を下ろすと、ニコラスが一覧の紙をこちらへ向けた。
「現在、あなたへ打診されている求婚および縁談候補です。家格、本人年齢、王宮との距離、婚姻後の職務継続可否、居住想定、実家支援の自由度で分類しました」
「……そこまでなさったんですか」
「必要でしたので」
必要で済ませる話ではない。
紙面をざっと眺めると、案の定というべきか、職務継続可否の欄は厳しいものが多かった。可と書かれていても、条件付きか、実態としては難しいものばかりだ。
「把握はしていましたが、こうして並べられると嫌になりますね」
「同感です」
「同感なさるんですね」
「あなたを他家へ流した場合、王太子妃付きの体制に支障が出ますので」
「やっぱりそちらですか」
半分呆れて言うと、ニコラスは否定しなかった。
その代わり、今度はもう一枚の文書へ手を置く。
「サルヴィ家の爵位授与については、お聞き及びかもしれませんが」
「功績に応じて見直しが入る、とだけ」
「ええ。私は今まで爵位に興味がなかったので辞退していました。しかし、今回は辞退せず、受けるつもりです」
爵位を辞退せずに受ける――その意外な言葉に、ステラは紙から顔を上げる。
「何のためにですか」
「前提を揃えるためです」
あまりにもあっさり返され、意味が一拍遅れて届いた。
「……何の、前提でしょう」
「求婚者を比べたときの前提です。現状、侯爵位に叙されれば、家格の面で私が最上位になります」
ステラはしばらく無言になった。
目の前の男は本気で言っている。冗談を言う顔ではない。
「ニコラス様」
「はい」
「それは求婚ですか、配属案ですか」
青紫の瞳が一つ瞬いた。
それから、実にこの人らしい答えが返ってくる。
「両方です」
思わず、溜息をついた。
笑っていいのか呆れていいのかわからない。
ニコラスはさらに紙を一枚、こちらへ差し出した。そこには几帳面な筆跡で、婚姻後の取り決めが簡潔に記されている。
「婚姻後も、あなたは王太子妃付きの職務を継続できます。住居は王宮との往復に支障のない場所へ。バルトーネ家との行き来や援助に制限は設けません。社交は負担のないように調整します。日常の采配はあなたへ委ねますが、必要があれば私も担います。仕事を続ける前提で生活を組みますので、急な引退を求めることもありません」
目で条件を追えば追うほど、抜けがない。
抜けがないどころか、こちらが言い出しそうなことは先回りしてほとんど書かれていた。
ステラは紙面から顔を上げた。
「……本当に、準備だけは万全ですね」
「はい」
「嬉しいとか、困るとか、その前に感心してしまうのですが」
「それはよかったです」
たぶん褒めてはいない。
しかし、ニコラスは気にした様子もなかった。
机上の紙へ向けられていた手が、そこでほんの少し止まる。
「ここまでは条件です」
「はい」
「ここからは私情になります」
空気が変わった、と言うにはささやかだった。だが、言葉の重みは明らかに違った。
そして彼は、いつもの呼び方を変える。
「ステラ」
その響きだけで、背筋が微かに伸びる。
ニコラス自身も、それを意識しているのだろう。いつもよりゆっくりと話を続けた。
「王太子夫妻のお二人を見ていて、見守る側で終わるのも惜しいと思いました」
「……」
「長い人生で一度くらい、結婚してみるのも悪くないと考えました」
そこで一度区切り、まっすぐこちらを見る。
「相手があなたなら、ですが」
ステラは返事をしなかった。
できなかった、の方が近い。
条件に合う、ではない。必要だから、でもない。
その上でなお、あなたならと彼は言った。
「価値観も、生活の組み方も、仕事の呼吸も合うと思っています。あなたは私の説明不足に不満そうな顔をしながら、要点は外さない」
「それは褒めてくださっているんでしょうか」
「とても」
「そうですか」
少しだけ、頬が熱い。
こんな言い方で褒められて嬉しいのも、どうかと思う。けれど、嬉しいものは仕方がなかった。
ニコラスは一度目を閉じてから、再びステラを見据えた。
「それに」
「はい」
「あなたが他家の名で呼ばれるのを、好ましく思えませんでした」
今度こそ、言葉に詰まる。
それは、この人にしては十分すぎるほど私情だった。
ステラは黙ったまま、条件を綴った紙を持つ自分の指先を見つめた。見た目ほど落ち着いていないことは、自分だけが知っている。
しかし、ここでそのまま受けるわけにはいかない。
この人が条件を整えてきたなら、自分もまた、きちんと選ばなければならない。
「ニコラス様」
「はい」
「確認してもよろしいですか」
「もちろんです」
ニコラスは即答した。
ステラは紙を机へ戻した。
「私が王太子妃付きでなくなっても、同じ申し出をなさいますか」
「します」
「サルヴィ家に入っても、私は便利に働くための妻にはなりません」
「承知しています」
「王太子夫妻お二人の近くに置くためだけなら、お断りします」
間髪を容れず、ニコラスは答えた。
「あなた自身を望んでいます、ステラ」
端的だった。
しかし、端的だからこそ、かえって逃げ道をなくした。
「役目が変わっても、条件は変えません。あなたが仕事を手放したくない人であることも含めて、私は申し出ています」
そこまで自分を理解されてしまえば、もう十分だった。
ステラは息をつき、机上の条件書へもう一度目を通す。無理はない。不利もない。むしろ、ここまで整えてくる相手は他にいない。
何より、この人は本気で自分との暮らしを考えたのだ。
その手順があまりにも実務的だっただけで。
「……条件は悪くありません」
「ありがとうございます」
ニコラスが礼を述べるので、ステラはわずかに眉を寄せてみた。
「まだ受けるとは言っていません」
「失礼いたしました」
すぐに引くところまで律儀で、少しだけおかしい。
ステラは口の端を緩めた。
「でも、あなたとなら話が早そうです」
「それは利点ですね」
「ええ。たぶん、退屈もしません」
紫がかった瞳が優しい色を帯びる。
その変化を見たとき、ステラは自分がもう答えを決めていることに気づいた。
「お受けします」
言葉にすると、不思議なくらい心が決まった。
「あのお二人だけを見守って終わるつもりは、私もありませんから」
ニコラスは黙ってこちらを見ていた。
「……ありがとうございます」
珍しく、言い方がたどたどしい。
「そういうところは、普通なんですね」
「今のは、普通で構わないでしょう」
その返事に、ステラはとうとう声を上げて笑った。
するとニコラスは、さっと机上の別紙を取り上げる。
「では、バルトーネ家への正式な打診は本日中に。王宮側への説明は私が受け持ちます。住居と人員配置については――」
「待ってください」
「はい」
「今、受けたばかりなのですが」
「だから急ぐのです。あなたの気が変わらないうちに」
真顔でそう言われると、もう笑うしかない。
「本当に抜かりがありませんね」
「抜かりなく整えたつもりです。足りない点があれば指摘を」
「そのときは遠慮なく申し上げます」
「助かります」
話は完全に前へ進み始めている。
けれど不思議と、それが嫌ではなかった。
ステラが立ち上がると、ニコラスも席を立ち、扉まで見送った。こういう態度までそつがない。
扉に手をかけたところで、後ろから呼ばれる。
「ステラ」
振り返ると、ニコラスがいつもより少し硬い顔をしていた。
さっきと同じ呼び方なのに、ステラはもう驚かなかった。
「よろしくお願いします」
その言葉は、契約の確認のようでもあり、人生の始まりみたいでもあった。
ステラは扉の前で姿勢を正し、微笑みを浮かべる。
「こちらこそ。よろしくお願いいたします、ニコラス様」
執務室を出たあとも、呼ばれた名が耳に残っていた。
恋というには実務的すぎる始まりかもしれない。
それでも、条件をここまで整えたうえで、最後にきちんと自分を望むと言われたのだ。
悪くない。
むしろ、かなりいい。
廊下を歩きながら、ステラは小さく笑った。
恋の見守り隊にも、ちゃんと続きがあるらしい。




