最終話 結婚
「盲目王子の専属侍女」本編最終話です。
婚礼の日の朝、ステラはロゼッタの髪へ最後の飾りを留めた。
鏡の中に映るのは、もうローズブラウンではない。本来のローズゴールドの髪を結い上げた美しい花嫁だった。柔らかな薔薇色へ金を溶かしたような髪は、白を基調に深い青と金の刺繍を重ねた婚礼衣装によく映える。胸元には皇女位の胸章があり、その下には青と金の細いリボンが添えられていた。
それはもう、誰かの後ろに控えるための装いではなかった。
「苦しくない?」
ステラが問うと、ロゼッタはそっと振り返った。蜂蜜色の大きな瞳は、緊張を抱えながらもまっすぐだった。
「大丈夫よ」
「本当に?」
「……少しだけ、手が冷たいけれど」
その答えに、ステラは息をつく。
無理に平然とした顔を作らないところが、今のロゼッタらしかった。
傍ではマリアが、必要な持ち物を最後まで確かめている。栗色の髪が揺れるたび、水色の瞳も忙しなく動いた。
「ええと、手袋はよし、予備のハンカチもよし、裾の留めも――」
「マリア」
「は、はいっ」
「その辺にしておきなさい」
ステラがそう言うと、マリアは頬を赤くした。
「すみません……でも、今日ばかりは落ち着かなくて」
「あなたが落ち着かなくても、式は進むわ」
「それはそうなんですけど……」
ロゼッタが小さく笑う。
その笑みを見て、ステラもようやく気持ちを緩めた。
侍女見習いだった頃のロゼッタは、緊張すると自分より先に相手の世話を焼こうとした。今もその癖は消えていない。けれど今日の彼女は、自分が立つ場所をもう知っている。
扉の外からノックが響いた。
「お時間です」
ニコラスの声だった。
ステラは一礼し、ロゼッタの前から半歩退く。
「行ってらっしゃい、ロゼッタ」
「……行ってきます」
ロゼッタは立ち上がった。
白を基調とした婚礼衣装の裾が揺れ、その内側から深い青が覗く。華やかなのに、どこか慎み深い。侍女だった頃の控えめさを失わないまま、ここまで辿り着いた人の立ち姿だった。
◇ ◇ ◇
婚礼の場は、王宮中央の大広間に設えられていた。
高窓から差す光の下、王国の紋章旗と帝国の旗が左右に掲げられている。装花は祝賀の日に相応しく、磨き上げられた床は天井の明るさを柔らかく返していた。だが、ただ華やかなだけではない。そこへ集う視線の数と重みが、今日の意味をはっきり示している。
国王と近臣、王国の貴族たち。ヴェラとアントニオ・マリーニ伯爵。帝国からの高位使節の中には、ミケーレ・ベルニの姿もあった。離宮で共に過ごした顔ぶれも、今日はそれぞれの持ち場にいる。
ジャミルは外周に近い位置で黙したまま全体を見ていた。黒髪と琥珀色の瞳は、こうした場でも揺れない。ニコラスは王太子側近として文官たちの最前列に立ち、濃紺の髪の三つ編みが微かに肩を掠めている。
そして広間の奥、誓いの場の近くにはルチアーノがいた。
白と群青を基調に金を差した礼装は、花婿としても王太子としても不足がない。淡い金髪と海のように澄んだ青い瞳は人目を引くのに、そこに浮ついたところはなかった。視力を取り戻した今も、彼は見えることへ寄りすぎない。ただ、必要なものを見て、必要な言葉を選ぶ顔をしている。
式が始まると、場の空気はいっそう張り詰めた。
ロゼッタがゆっくりと歩み出たとき、ステラは息を呑んだ。
彼女は堂々としていた。胸を張って誇示するのではない。昔から変わらぬ、背筋を伸ばした所作のまま、今日の場へ進んでいく。ローズゴールドの髪も、青と金の装いも、人目を集めずにはいられない。けれど、どちらも彼女自身を覆い隠してはいなかった。
ルチアーノの前まで来て、ロゼッタは足を止めた。
見えない王子だった頃、この距離を二人は何度も測ってきた。声の届く位置、手を伸ばせば触れられる位置、それでも判断は奪わない位置。
その積み重ねが、今も誰の前でも崩れていない。
誓詞が読み上げられ、王国側、続いて帝国側の確認が入る。
入場の歩幅も、並び方も、前もって確かめてある。だが、誓いのあと最後にどこへ立つかだけは、あえて決め切らなかった。王国側が先に導けば囲い込みに見える。帝国側が示せば、今度は連れ戻すように映りかねない。
だから、その場で二人が選ぶしかなかった。
そのとき、ごくわずかな間が生まれた。
二人が立つべき場所は、王国の紋章旗と帝国の旗のちょうど中ほどに設えられていた。象徴としてはこれ以上なく正しい。しかし、誰がその位置を示すかで意味は揺れる。
その刹那を、ステラは見逃さなかった。
侍従も文官も、口を開くべきか迷っている。
次の瞬間、ロゼッタが動いた。
半歩ではなく、一歩以上先へ。
王国側でも帝国側でもない、二つの旗の中央へ、まっすぐ歩み出たのだ。
空気が変わる。
誰に命じられたわけでもない。そこしかないと知っている、迷いのない歩みだった。
ロゼッタはそこで振り返り、柔らかく微笑んでルチアーノを見た。手を引くのではない。ただ、ここだと示すように手を差し出す。
ステラの脳裏に、離宮の光景がよぎった。
見えない世界を歩くルチアーノのために、ロゼッタはいつも半歩前だった。杖を引かず、選ぶ余地を残し、必要なときだけ道を示していた。
けれど、今日は違う。
誰も決めきれない境目へ、ロゼッタが先に立った。
一歩先を導く。
それが、この日のロゼッタだった。
ルチアーノは、ロゼッタが差し出した手を見た。
そして、笑った。
迷いなく選ぶ人の微笑だった。
彼はその手を取り、隣へ並ぶ。どちらかの前でも後ろでもない。どちらかへ寄るのでもない。二人が新しく立つ場所へ、自分の足で来たのだとわかる並び方だった。
その瞬間、場を満たしていた緊張が解けていく。
王国側にも、帝国側にも、もう異論を差し込む余地はなかった。
誓いの続きが読み上げられる。
婚約として交わされていた誓いは、公の婚礼の誓約として改めて読み上げられた。指輪のはまった手が重なり、王国側と帝国側の承認が順に告げられる。見えない王子と専属侍女として始まった関係が、いま正式な名を与えられて結ばれる。
歓声は、すぐには起きなかった。
先に広がったのは、深く息をつくような温かな空気だった。
ここまで来たのだと。
その実感が、さざ波のように広間を包み込んでいく。
ステラはそこで初めて、自分の指先に力が入っていることに気づいた。
隣でマリアが、目元を押さえながら小声で言う。
「……よかった」
「ええ」
ステラも頷いて、二人を見守る。
ロゼッタはもう侍女ではない。でも、彼女の本質は変わっていない。必要なときに、必要なだけ先へ出る。そして相手が自分で選べる場所を残す。
その在り方は、今日も同じだった。
式が結びへ向かい、二人が振り返る。
動きに合わせて揺れるロゼッタの髪の隣で、ルチアーノはまっすぐ前を見ていた。見えるようになった彼の目が、それでも最初に探すのは彼女の姿なのだと、今なら誰にでもわかる。
花嫁の隣に立つ王太子。
自分の名で、その隣に立つ花嫁。
王国と帝国を前にしても、二人の間にあるものの芯は変わっていなかった。
見えない世界で育った信頼が、見える世界でもそのまま届いている。
ニコラスが目を伏せたのを、ステラは視界の端で捉えた。あの人にしては珍しく、感情が表へ近づいた仕草だった。ジャミルもまた、壁際で少し肩の力を抜いている。マリアは泣きそうな顔のまま笑っていた。
華やかな日だった。
けれど、胸に残るのは勝利の眩しさではない。
長く遠回りをしてきた二人が、ようやく立つべき場所へ届いたのだという、深い到達感だった。
その姿を見届けながら、ステラは思う。
ここが終わりではない。
今日から先は、二人で未来を選んでいく。
王宮の高窓から差す光の下で、ルチアーノとロゼッタは並んでいた。
もう、半歩ではない。
それでもなお、互いの選ぶ先を示し合える距離のままで。
ロゼッタとルチアーノの長い物語にお付き合いいただき、誠にありがとうございました!
このあと、後日談を2話投稿して完結にします。
ロゼッタとルチアーノのラブラブを書き足りないので、後日、番外などを書くかもしれません。
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