95 ロゼと呼ぶ声
「違う。そこは半歩下がらなくていい」
差し出した手を取られたまま、そう言われて、ロゼッタは思わず肩を揺らした。
婚礼まではまだ少し日がある。けれど、入場の歩幅も、並び方も、お披露目の舞踏も、前もって一度は確かめた方がいい。そう理解して、この小広間へ来た。
それでも実際にルチアーノの前へ立ち、こうして手を取られると、理屈はあっさり役に立たなくなる。
「……無意識でした」
「知っている」
低い声とともに、取られた手が少し引かれた。
婚約指輪のはまった左手が、灯りを受けて淡く光る。
もう片方の手を彼の肩へ置くと、それだけで息が浅くなった。腰へ添えられた手は強すぎない。けれど、逃げようと思えば逃げられる程度の力加減が、かえって意識を乱した。
侍女としてなら、こんな距離は許されなかった。
今は違う。
立つ場所が変わったのに、身体だけがまだ追いつかない。
「顔を上げて」
言われて、ロゼッタは視線を持ち上げた。
見えるようになった青い瞳が、近い。
婚約してからも見慣れたはずなのに、こうして正面から受け止めると、息が継げなくなる。
「私を見るのがそんなに難しいか」
「……難しいです」
「そうか」
そこで笑われるかと思ったのに、ルチアーノはただ受け止めるように頷いた。
「では、慣れてくれ」
「簡単に仰いますね」
「簡単ではない。だが、当日も私は最初にあなたを見る」
その一言が、思いがけず深く心に沁みた。
当日になれば、王国の貴族も、帝国からの使者も、宮廷の人々も、皆こちらを見るだろう。
けれど彼は、まず自分が見ると言った。
それだけで、呼吸が少し楽になる。
「始めよう」
音楽はない。
広い室内にあるのは、衣擦れと、靴底が床を擦る音だけだった。
ルチアーノが静かに歩を進める。
ロゼッタもそれに合わせて足を出した。
一歩、二歩、三歩。
回る前に、また肩へ力が入りそうになる。
すると腰へ添えられた手がほんの少し動いた。
「固い」
「申し訳ございません……」
「謝ることではない。任せてくれ」
その言葉通り、彼の導き方は無理がなかった。
引っ張るのではなく、次の一歩が出しやすいように支えられる。前へ出てもいいのだと、身体の方が先に教えられていく。
見えなかった頃の練習は、目を合わせないままでも成り立った。
今は違う。
視線を逸らしたままでは、かえって歩幅が乱れる。
「周りは見なくていい」
そう言って、ルチアーノは彼女を緩やかに回した。
裾が膨らみ、青の布地が灯りの下で波打つ。
「全部に応えようとしなくていい。私と歩幅が合っていれば、それで足りる」
戻ってきた身体を、彼の手が受け止める。
近い。近すぎる。なのに、不思議と怖くはなかった。
「……はい、殿下」
そう答えた瞬間、腰へあった手が止まった。
ロゼッタは目を瞬いた。
ルチアーノはさっきまでの流れを断つように、じっとこちらを見ている。
「今も、そう呼ぶのか」
「……あ」
自覚した途端、頬が熱を帯びた。
昼間や人前ならまだしも、二人きりのときまでその呼び方では駄目だと、頭ではわかっている。
それでも、長く染みついた習慣は簡単に消えない。
「この前、呼んでくれただろう」
「それは……」
「聞き間違いではなかったと思いたい」
困るようなことを、平然と言う。
けれど、その声には責める響きがない。むしろ待っているのだとわかる分だけ、余計に逃げ場がない。
ロゼッタは言葉に詰まったまま、彼の胸元へ目を落とした。
近いところにある群青の上着が、かえって意識を煽る。ここへ手を置いているのだと思うと、指先まで落ち着かなくなった。
「ロゼ」
名を呼ばれ、顔を上げる。
甘い、と思った。
それ以外の言いようがない。
抑えた声なのに、触れられたみたいに響く。前にも聞いたはずなのに、こんなふうに二人きりで言われると、同じ音には思えなかった。
身体の軸が一瞬ずれる。
その揺らぎを、ルチアーノの腕がすぐに支えた。
「……今のは、ルチアーノのせいです」
「そうだろうな」
否定しないところが、なおさらずるい。
ルチアーノはロゼッタを支えたまま、少しだけ顔を寄せた。
「もう一度、呼んでくれないか」
からかっているのではなかった。
本当に、それを望んでいる目だった。
それならば、逃げたくない。
婚約を受けたときと同じだ。差し出されたものから目を逸らしたままではいたくない。
ロゼッタは彼の上着に指先を添えた。呼吸をひとつ整え、それから視線を合わせる。
「……ルチアーノ」
声は思ったより小さかった。
それでも、彼の表情が変わるには十分だった。
青い瞳が和らぎ、表情が綻ぶ。
「ありがとう、ロゼ」
また、その呼び方。
鼓動がうるさい。けれど今度は、足は乱れなかった。
ルチアーノの指が、頬の近くへかかった髪をそっと払う。触れたか触れないかの動きなのに、それだけで身体が微かに震えた。
「嫌なら、ここで止める」
何を、とは言わなかった。言わなくてもわかる近さだった。
ロゼッタは小さく首を振る。
「嫌ではありません」
その返事を聞いて、彼の目がさらに柔らかくなる。
次の瞬間には、距離がなくなっていた。
口づけは、想像していたよりも静かだった。
触れたのは一瞬なのに、離れたあとも唇の感触だけがはっきり残る。熱を持ったままの呼吸が近く、ロゼッタは彼の上着に添えていた指に少し力を入れた。
恥ずかしい。なのに、離れたくない。
ルチアーノの額が、わずかに彼女の髪へ触れる。
「ロゼ」
今度は確認ではなく、受け容れるように呼ばれた。
ロゼッタは目を閉じかけ、それからもう一度開く。
「……はい」
「もう一度、踊れるか」
「踊れます」
答えると、ルチアーノは満足したように頷いた。
形を戻す。
指輪のある手が、彼の手の中へ収まる。
さっきと同じはずなのに、もう違っていた。肩へ置く手にも、腰へ添えられる手にも、先ほどまでほどの戸惑いを感じない。
ゆっくりと、また踊り始める
今度は、驚くほど息が合った。
導かれているというより、同じ流れへ乗っている感覚だった。回って戻るたび、彼の視線がある。けれどそれは、見定める目ではない。隣にいることを確かめる、柔らかい眼差しだった。
「そのままでいい」
低く言われる。
「本番でも、そうしていてくれ」
「……はい」
「私に合わせるのではなく、私と並んで」
その言葉に、ロゼッタは少しだけ笑った。
「難しい言い方をしますね」
「あなたはもうできている」
「ルチアーノ」
今度は、呼ぶのにあまり勇気が要らなかった。
名を口にするたび、二人の距離が形になる。彼も、すぐに応じた。
「何だ、ロゼ」
「当日は……たぶん、緊張します」
「知っている」
「でも、今は先ほどより大丈夫です」
ルチアーノの目が細められる。
「それはよかった」
「ルチアーノが、最初に見ると仰ったからかもしれません」
「それなら、何より先にあなたを見る」
「はい」
もう足は滑らかに動く。
広間を半周し、回り、戻り、最後に向かい合ったとき、ロゼッタは婚礼そのものより、彼と並ぶことの未来が見えている自分に気づいた。
大勢の前へ出るのは怖い。
それでも、隣にいる相手が誰なのかは、もう迷わない。
ルチアーノが手を離しかける。
ロゼッタはその前に、自分から彼の手に指を絡めた。
「……もう少しだけ、このままでもよろしいですか」
口にした途端、自分で照れてしまう。
けれどルチアーノは、驚いたあとで、嬉しさを隠さなかった。
「ああ」
短い返事だった。
それで十分だった。
音の少ない小広間で、二人はしばらくそのまま立っていた。
離れるためではなく、並ぶための近さが、今の自分たちにはちゃんとある。
やがてルチアーノが、繋いだ手を引いた。
「行こう、ロゼ」
「はい、ルチアーノ」
呼び返した声は、もう震えなかった。
当日、皆の前へ並ぶのだとしても、きっと今の続きだ。
そう思えたまま、ロゼッタは彼と同じ歩幅で小広間をあとにした。




