94 正式な求婚
王太子の執務室の奥にある小応接室は、夜になると昼より広く感じられた。
外ではまだ文官たちが動いている気配がある。だが、この部屋へ通じる扉は閉じられ、灯りも控えめだった。卓上には二通の文書と、小さな箱がひとつ並んでいる。
ルチアーノは、その前に立っていた。
文書の内容はもう頭に入っている。王宮側への正式な届出と、帝国側へも通る形に整えた婚約の文面。どちらもニコラスが抜かりなくまとめたものだった。父にも、ヴェラにも、アントニオ・マリーニ伯爵にも、事前に話は通してある。形式だけなら、あとは本人の同意を得て、婚約を正式に成立させればいい。
だが、今日ここで必要なのは書面ではない。
ルチアーノは、自分の手を一度だけ見下ろした。
王太子として自分の未来を選ぶことと、一人の少女へ未来を差し出すことは、似ているようで違う。王子として押しつけるのでは意味がない。彼女が自分の意志で受け容れられる形でなければ、ここまで来た時間まで別のものになる。
扉の向こうで、馴染んだ気配が止まった。
「ロゼッタでございます」
その名乗りだけで、呼吸が少し変わる。
「入ってくれ」
扉が開き、ロゼッタが部屋へ足を踏み入れた。
ローズゴールドの髪は今夜も隠されていない。灯りの下で薔薇色に金を溶かしたような髪が、昼とは違う艶を帯びている。深い青のドレスへ控えめな金糸が織り込まれ、髪へ添えたリボンも青と金だった。
昼も見た色だ。
それでも、灯りを落とした部屋で二人きり向き合えば、目に入るたび息が浅くなる。
「お呼びでしょうか」
「ああ」
ルチアーノはそう答えたものの、すぐには続けなかった。ロゼッタも急がず、部屋の中央で足を止めている。
見えなかった頃なら、まず彼女の声が先に距離を埋めてくれていた。今は違う。どんな表情で待っているのかまで、自分の目でわかってしまう。
わかるからこそ、言葉を明瞭にしたかった。
「座るか」
「いえ。このままで大丈夫です」
その返事に、ルチアーノは小さく頷いた。
「では、私も立ったまま話す」
卓を挟んだままでは遠い気がして、ルチアーノは一歩前へ出た。ロゼッタも下がらない。
「今日ここへ呼んだのは、確認のためではない」
そう告げると、ロゼッタの蜂蜜色の瞳が、まっすぐこちらを見返した。
「もう互いの気持ちは知っている。過去も知った。あなたが何を抱えてここまで来たのかも、すべてとは言わずとも、私なりに受け取ったつもりでいる」
「……はい」
彼女の声は揺れていない。
だからこそ、こちらも真摯に言わなければならない。
「その上で、私は今日、あなたへ正式に申し出たいことがある」
ルチアーノは卓上の文書へ一度だけ視線を向け、それからまたロゼッタへ戻した。
「離宮で私を支えてくれたことへの褒賞としてではない」
もう一歩、ロゼッタに近づく。
「あなたが帝国皇女だからでもない。王国と帝国の間に利があるからでもない」
ロゼッタの唇が引き結ばれたのが見えた。緊張しているのだろう。だが、それでも目は逸らさない。
「ロゼッタ・マリーニ」
名を呼ぶ。
「私は、あなたに結婚を申し込みたい」
蝋燭の燃える音まで遠のいたように感じた。
王子として命じるのではなく、一人の男として差し出した言葉だった。それでも、それが同時に公的な意味を持つことを隠さずにいる。耳に心地よい言葉で曖昧にするつもりはない。
「侍女としてではなく、役に立つからでもなく、あなたがあなただから望んでいる」
ルチアーノはさらに心を込めて続ける。
「華恋としての記憶も、詩音のことも、その痛みも知ったうえで、それでも私は今のあなたを選びたい」
ロゼッタの息が、そこで微かに止まった。
前世も今も、切り分けたくない。切り分けずに受け容れると決めているからこそ、ここははっきり言いたかった。
「そして、私の隣へ公に立ってほしい」
ルチアーノは卓上の二通の文書へ手を置いた。
「王国側にも帝国側にも、正式に通せる形は整えた。だが、どれもあなたが望むならの話だ。あなたが望まない限り、私はひとつも進めない」
そこで初めて息をつく。
彼女へ選ぶ余地を残すと決めてきた。
ここでも、それは変えない。
「返答を聞かせてほしい」
ロゼッタは、すぐには答えなかった。
蜂蜜色の瞳が、文書へ移り、卓上の小箱に留まり、またルチアーノへ戻る。迷っているのではない。差し出されたものの重さを、ひとつずつ確かめているのだとわかった。
やがて、彼女が口を開く。
「……ずっと、どこかで思っておりました」
声は小さい。だが、はっきりしていた。
「私は、いずれお返しする側なのだと」
ルチアーノは黙って聞く。
「離宮でお傍にいた日々も、殿下が私へくださったものも、いつか手放す前提で受け取っていたのだと思います」
「ロゼッタ」
「でも」
そこで彼女は、初めて自分の頬へ触れた。泣いてはいない。ただ、熱を確かめるような仕草だった。
「もう、手放したくありません」
その一言が、ルチアーノの心へ届く。
ロゼッタは姿勢を正したまま続けた。
「侍女だった自分も、帝国の血を引く自分も、どちらも私です。前世を抱えていることも、消えません」
「……ああ」
「そのうえで、私は」
彼女はそこでほんの一瞬、呼吸を整えた。
「殿下のためだからお受けするのではありません」
ルチアーノの胸の鼓動が強く打つ。
「私が望むから、お受けしたいのです」
ロゼッタは、今度こそ揺れずに言い切った。
「ロゼッタ・マリーニとして、殿下の隣に立ちたいです」
それが答えだった。
命じられてではない。
褒賞としてでもない。
誰かの都合へ自分を差し出す形でもない。
彼女自身が、自分の名で選んだ。
ルチアーノは一度だけ目を閉じた。そうしなければ、今の感情が顔へ出る気がしたからだ。
「……そうか」
それだけを返すのが精いっぱいだった。けれどロゼッタは、その短い言葉の奥まで受け取ったように見えた。
ルチアーノは卓上の小箱を手に取った。中に収めてあるのは、王族の婚約に用いる指輪だった。白金の台へ、深い青の石が留められている。華やかすぎず、けれど由緒が感じられる。
「手を」
そう告げると、ロゼッタは一瞬だけ目を見開き、それから迷わず左手を差し出した。
細い指へ、ルチアーノはゆっくりと指輪を通す。
ぴったりと収まったその姿を見た瞬間、初めて現実になったのだと実感した。
「これで、あなたは私の婚約者だ」
言いながらも、どこか信じ難い響きが自分の声に混じる。
ロゼッタは指輪へ目を向け、それからルチアーノを見上げた。
「はい」
返事に、迷いはひとかけらもなかった。
ルチアーノは、文書の片方を彼女へ見せる。
「こちらは王宮側への届出だ。もう一つは帝国側へ正式に送る」
「もう、ここまで」
「ああ。だが、あなたが頷くまでは、どちらにも印章は押さないつもりだった」
ロゼッタは、卓上の紙面を見つめたあとで、静かに言った。
「では、今、形にしてください」
その一言に、ルチアーノは息を呑む。
「いいのか」
「はい」
彼女は自分の左手の指輪を一度だけ見て、それから言った。
「仮ではなく、きちんと受け容れたいです」
その言葉に、ルチアーノはもう迷わなかった。
卓上の印章を取り、まず王宮側へ出す文書に印を押す。続いて、帝国側へ送る文書にも差出人としての印を加えた。確認するようにロゼッタへ視線を向けると、彼女はしっかり頷いた。
二通の文書は、そこで正式に動き始めた。
それは恋の確認ではない。
未来へ名を与えるための、ひとつの決定だった。
印章を戻したあと、ルチアーノはロゼッタへ向き直る。
「これで、あなたの立場はもう揺らがない」
「……はい」
ロゼッタの声は小さかった。だが後退る気配はない。
「殿下」
「何だ」
「一つだけ、よろしいでしょうか」
「ああ」
ロゼッタは指輪のはまった手をそっと胸元へ寄せた。
「この先も、私はすぐに上手くできるとは限りません」
「知っている」
「迷うこともあると思います」
「それでも構わない」
ルチアーノは即座に返した。
「あなたがあなたの意志でここにいるなら、それでいい」
その答えに、ロゼッタは目を伏せたあとで、もう一度こちらを見た。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは私の方だ」
ルチアーノはそう言ってから、そのとき初めて、晴れやかに笑った。
「受けてくれて、ありがとう」
ロゼッタも微笑み返しかけ、そこで不意に視線を彷徨わせた。指輪のはまった左手を胸元へ寄せたまま、わずかに頬を染める。
呼びたいのに、恥ずかしい。
そんな躊躇いが、そのまま表情に出ていた。
それでもロゼッタは、勇気を出すように唇を開いた。
「……ルチアーノ」
彼女が初めて意識して口にした名は、思っていたより琴線に触れた。
ルチアーノは目を見開き、それから息をつくように笑った。胸を満たした熱が、その一語だけで隠しきれなくなる。
「ありがとう」
そこで一度言葉を切り、彼は低く続けた。
「……ロゼ」
以前から願っていた呼び方だった。
ロゼッタの長い睫毛が震える。自分の名前なのに、彼の声で形を変えたみたいに甘く響いた。
見えない王子と専属侍女として始まった関係は、もうそこにはない。
しかし、あの積み重ねがあったからこそ、今こうして名前のある未来へ辿り着いたのだから。
扉の外には、もうニコラスも侍従長も控えているだろう。文書は王宮を巡り、ほどなく帝国へも届く。明日からは、また別の忙しさが始まる。
それでも今この部屋の中では、ただひとつのことだけが確かだった。
ロゼッタは、自分の意志でここにいる。
ルチアーノはその手を取り、指輪のはまった指先へそっと口づけた。
「これからも、ずっと隣にいてほしい、ロゼ」
「はい」
ロゼッタは迷わず頷く。けれど次に続いた声は、先ほどよりも少しだけ柔らかかった。
「私も、ルチアーノの隣を選びます」
その答えを聞いたとき、ルチアーノは初めて、自分が本当に彼女へ公的な未来を差し出し、それを受け容れられたのだと信じることができた。
小応接室の灯りは穏やかで、卓上の文書と白金の指輪へ静かな光を落としている。
恋が叶っただけではない。
これで、二人の未来に、公の名が与えられたのだった。




