93 娘を静かに肯定する母
「入ってもいいかしら」
ヴェラの声はいつものように落ち着いていた。
「もちろんです」
ロゼッタがそう返すと、ヴェラは部屋へ入り、扉を閉じた。華やかさが前に出る人ではない。それでも、姿を現しただけで場の空気が変わる。帝国留学の折、母が「静謐の姫君」と呼ばれていたと聞いた理由が、説明なしに伝わるような立ち姿だった。
「お父様は」
「王都であなたを出迎えてからすぐに、領地のマリーニ家側で確認すべきことがあると言って出ていったわ。あの人らしいでしょう」
ロゼッタは、ほのかに笑う。
父なら確かにそうするだろう。大袈裟に感情を口へ出すより、必要な場所を支える方を選ぶ。
ヴェラは娘の前まで来ると、目を細めた。
「顔つきが変わったわね」
「そうでしょうか」
「ええ。でも、別人になったわけではない」
その言い方に、ロゼッタは目を見開く。
「前より、無理に押さえ込まなくなっただけ」
「……お母様には、わかってしまうのですね」
「母ですもの」
ヴェラはそれ以上踏み込まなかった。事情をすべて聞き出そうとはしない。その代わり、変化だけは見逃さない。
ロゼッタは椅子を勧め、向かい合って腰を下ろした。
しばらく、どちらもすぐには口を開かない。窓から入る光が、ヴェラの髪へ淡く差している。自分の本来の髪色と同じ色を、今はもうロゼッタも隠さずに見られる。
「昨日」
ロゼッタは視線を落とし、口を開いた。
「ひとつ、受け容れられたものがありました」
前世のことを、母へ細かく話すつもりはなかった。けれど、それで何が変わったのかだけは、今の自分の中で理解していた。
「私は、ずっと……自分が幸せになることを、どこかで後回しにしていたのだと思います」
「ええ」
「人のことを考える方が先で、自分が受け取る側に回るのを、無意識に避けていました」
ヴェラは頷くだけで、急かさない。
「でも、それを抱えたままでも、生きていいのだと、昨日やっと思えました」
言い終えると、胸の中が少し軽くなる。
ヴェラはアイスブルーの瞳を娘へ向けたまま言った。
「あなたは昔から、残してしまう側の痛みを先に考える子だったわ」
「……」
「それは優しさでもあるけれど、同時に、自分を後ろへ置きやすいということでもあるのよ」
ロゼッタは視線を上げた。
母は、責めていない。
ただ、娘の本質をそのまま言い当てている。
「お母様は、私に何も聞かないのですね」
「聞いてほしいなら聞くわ」
「……今は、うまく話せません」
「だったら、それでいいのよ」
ヴェラは静かにそう言ってから、ロゼッタの結い上げた髪へ目を向けた。
「その色を、もう隠さずに済むのね」
「はい」
ロゼッタは自分の髪へそっと触れる。
「まだ、少し落ち着きません」
「そうでしょうね。でも、よく似合っているわ」
短い一言なのに、深く沁みた。
ヴェラはさらに、娘の首元から裾まで視線を滑らせる。
「青と金も」
「お気づきになりましたか」
「気づかない母はいないでしょう」
ロゼッタは頬が熱くなるのを感じた。
ドレスもリボンも、誰の色を意識して選んだかなど、言わなくても伝わってしまう。
けれどヴェラは、からかうことはしなかった。代わりに、ほんの少しだけ目を和らげる。
「あなたが自分の意志で身につけたなら、それで十分よ」
そして、もう一つ言葉を続けた。
「侍女だった過去を消す必要はないわ」
「……はい」
「でも、侍女のままで終わる必要もない」
その一言が、ロゼッタの中へゆっくり広がっていく。
ヴェラは、娘をどこに置かれても生き延びられるように育てた。その母が今、こう言っている。
ならば、離宮で専属侍女だった自分を切り捨てずに、その先へ進んでもいいのだ。
扉が控えめに叩かれたのは、そのときだった。
「ロゼッタ様」
外から聞こえたのは、マリアの声だった。公の場へ近い響きで、呼び方も崩れていない。
「はい」
「ニコラス様よりお伝えいたします。王太子殿下が、午後の内々のご挨拶へ、ロゼッタ様にもご同席いただきたいとのことです」
ロゼッタは立ち上がる。
「承知しました」
ヴェラもまた椅子から腰を上げた。
「行ってらっしゃい」
「お母様」
呼び止めると、ヴェラが振り返る。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることはしていないわ」
そう言いながら、ヴェラの表情が柔らかくなった。
「あなたが自分で選んだ道を、今さら驚いたりはしない。それだけよ」
ロゼッタは深く頭を下げた。
◇ ◇ ◇
内々の挨拶が行われるのは、王太子の執務区画に近い広間だった。
向かう途中の廊下でも、空気は以前と違う。侍女見習いとして通っていた頃は、人の流れを邪魔しないよう壁際へ寄るのが癖だった。けれど今は、その必要がない。行き交う者たちは、先にロゼッタへ礼を執った。
広間の前にはルチアーノがいた。
濃い色の礼装に身を包み、淡い金髪が白い壁を背にしても埋もれない。視力を取り戻した青い瞳が、まっすぐロゼッタを捉える。
その視線が、ローズゴールドの髪へ止まり、それから青と金の装いへ移った。
「部屋はどうだった」
「過不足なく整えられておりました」
「そうか」
それから彼は、わずかな間を置く。
「窮屈ではなかったか」
「いいえ。自分の立つ位置が変わったのだと実感いたしました」
その返答を聞いたルチアーノの瞳が穏やかな色を浮かべる。
「ならばよかった」
そして、もう一度ロゼッタを見る。
「その髪も、よく似合っている」
「……ありがとうございます」
頬に朱が走るのがわかった。
見えるようになった彼の目で、こうして改めて言われるのは、まだ照れてしまう。
扉の向こうには、今日から王太子へ復位した彼を支える者たちが待っている。離宮の中だけで完結する時間は、もう終わっていた。
それでもルチアーノは、ロゼッタへ向き直って言った。
「入る前に、ひとつだけ」
「何をでしょう」
「あなたが、私の後ろへ下がるつもりはないか」
ロゼッタは目を瞬いた。
そして、少し笑う。
「ございません」
「本当に?」
「はい」
ロゼッタは胸元の皇女位の胸章へ一度だけ触れた。
「侍女だった自分を恥じるつもりはありません。ですが、もうその延長のまま隠れるつもりもございません」
ルチアーノはその答えを受け止め、ゆっくり頷いた。
「わかった」
彼は扉へ手をかけ、それからロゼッタを見た。
「では、隣で受けてくれ」
「はい」
今度は迷いなく答えられた。
扉が開く。
内側に並んだ視線が、一斉にこちらを向く。ローズゴールドの髪も、青と金の装いも、もはや誰の目にも明白だった。けれどロゼッタは、もう足を止めなかった。ルチアーノの半歩後ろではなく、その隣へ並ぶ。
見えない王子の専属侍女だった日々は、消えない。
けれど、それだけで終わるわけでもない。
王宮へ戻るとは、元の場所へ戻ることではなかった。
ロゼッタは顔を上げたまま、その視線を受けた。




