92 王宮へ戻る日
王宮へ向かう馬車が石畳の段差を通るたび、車輪の揺れが足元から伝わってくる。
向かいに座るニコラスは、今日も姿勢が崩れない。濃紺の髪の片側へ落ちた三つ編みも、紫がかった瞳へ宿る冷静さも、離宮にいた頃と同じままだった。膝上の書類束へ目を通す横顔は、これが単なる移動ではなく、体制そのものの組み替えであることを何よりよく示していた。
隣では、ルチアーノが前を見つめている。淡い金髪は朝の日差しを含んでも過度には輝かず、海色の瞳は揺れない。視力を取り戻した今も、その在り方は見えなかった頃から大きく変わっていなかった。
ロゼッタは膝で重ねた手に、そっと目を向けた。
彼女は、もう髪を染めていない。結い上げた髪は、本来のローズゴールドのまま艶を放っている。柔らかな薔薇色へ金を溶かしたようなその髪は、隠しようもなく人の目を引く色だった。胸元には皇女位の胸章があり、ドレスは深い青を基調に、控えめな金糸の刺繍が施されている。まとめた髪へ添えたリボンも青と金だった。
青と金。
誰の色かは、考えるまでもない。
侍女服でも、王宮見習いの装いでもない。かといって、帝国皇女としての位を誇示する姿でもなかった。彼の隣へ立つ者として、色も形も迷いなく選ばれている。
「緊張しているか」
不意に問われ、ロゼッタは顔を上げた。
ルチアーノは窓の外ではなく、こちらを見ていた。
「……はい」
「逃げたいわけではないのだな」
「それはありません」
答えると、ルチアーノは頷く。
「ならば、それでいい」
その言い方があまりにもいつも通りで、ロゼッタは小さく安堵の息をついた。
王宮の正門をくぐったとき、外の喧噪が遠のく。代わりに広い中庭へ反響する蹄の音が大きくなり、戻るのだという実感が、胸の内で形になっていった。
元の場所へではなく、違う立場のまま。
◇ ◇ ◇
馬車の扉が開かれると、外気は思ったより冷えていた。
先に降りたニコラスが一礼し、続いてルチアーノが地面へ足を下ろす。かつてなら杖を必要とした動きも、今は淀みがない。完全に負担が消えたわけではないのだろうが、それでも王太子として人前へ立つに足る落ち着きがあった。
ロゼッタも裾を捌いて降り立つ。
その瞬間、中庭の空気がはっきりと変わった。
侍従長、近衛隊長、王太子付きへ組み直された文官たち、宮廷の使用人たち。向けられる目は多い。だが以前のような好奇や値踏みだけではない。位置を確かめ、扱いを測り、自分たちの立ち方を決めようとする目だった。
その中へ、ローズゴールドの髪は、否応なく人目を集める。
侍従長が一歩進み出て、深く頭を下げた。
「ルチアーノ・ディ・ヴァレンティーノ王太子殿下、ご帰還をお迎えいたします」
広い中庭へその声が通る。
続いて、侍従長の目がロゼッタへ向いた。
「アルシア大帝国皇女にしてマリーニ伯爵家令嬢、ロゼッタ・マリーニ様。王宮へのお戻りをお迎えいたします」
その呼びかけを聞いた瞬間、ロゼッタは自分の背筋が無意識に伸びたことに気づく。
侍女見習いとして王宮へ入った日の自分へ、こうした名が向けられることはなかった。離宮へ配属されたあとも、第一王子の専属侍女として呼ばれることはあっても、それは仕える者としての位置だった。
今は違う。
誰の後ろに隠されるでもなく、公に名を与えられて立っている。
「ご苦労」
ルチアーノが応じる。声は大きくないのに、周囲へ十分届いた。
侍従長が続けた。
「王太子殿下のお部屋は東棟へご用意しております。ロゼッタ様には西棟の貴賓室へご案内いたします」
貴賓室。
その一語で、ロゼッタは自分の位置が前とはまったく違うことを改めて知る。
「では、どうぞこちらへ」
ロゼッタは反射のように、ルチアーノの半歩後ろへ下がりかけた。
その動きを、彼が見ていた。
「ロゼッタ」
低く呼ばれ、足が止まる。
「今は、そこまで下がらなくていい」
穏やかな言い方だった。だが、そこに含まれる意味は明確だった。
「……はい」
位置を戻すと、ルチアーノは何も言わず前へ進む。以前なら盆を抱えて足を止めた場所で、今は人の方が先に道を開けた。
王宮の空気だけが変わったのではない。自分の立つ位置も変わったのだと、ロゼッタは歩きながら少しずつ理解していった。
◇ ◇ ◇
西棟へ向かう途中、ニコラスが隣へ並ぶ。
「お部屋のこと、先に申し上げます」
「はい」
「離宮付き専属侍女としての扱いは、今朝付で改めました」
ロゼッタは思わず彼を見上げた。
ニコラスはいつも通り淡々としていたが、告げている内容は軽くない。
「必要な折に王太子殿下の近くへお出ましいただくことはございます。ですが、記録上も待遇上も、もはや侍女としては扱いません」
「……そう、ですか」
「はい。隠す方が、かえって不自然ですので」
その一言に、ロゼッタは小さく笑った。
ニコラスらしいと思う。情ではなく、事実として必要な形へ配置する。そのうえで、そこにいる人間の心まで置き去りにしない。
西棟の一室へ通されると、そこは確かに「借りる部屋」ではなく「迎えられる部屋」だった。落ち着いた色の調度、無駄のない上質な家具、王宮のどの位置からも距離を取りつつ、孤立しすぎない配置。侍女のための簡素な一室ではない。だからといって、過剰に飾り立てもしていなかった。
そして、扉が閉まる前に、部屋の奥から二人の少女が進み出る。
「お戻りをお待ちしておりました、ロゼッタ様」
「ご到着に間に合ってよかったです」
先に礼を執ったのは、シルバーアッシュの髪をきっちりまとめたステラだった。若草色の瞳は落ち着いていて、動きに乱れがない。昔から変わらず、前へ出すぎずに必要なことを押さえる人だった。
その隣で、栗色の髪を揺らしたマリアも慌てて頭を下げる。水色の瞳は感情が出やすいのに、今はちゃんと公の顔を作っていた。
ロゼッタは目を見開いた。
「ステラ、マリア……」
「本日より、ロゼッタ様付きとしてこちらへ上がっております」
ステラが答える。
「王太子殿下側の再編に合わせて、こちらの配置も改めるようニコラス様からご指示がありました」
「わ、私も、ロゼッタ様のお部屋へ入ることになりました!」
マリアは途中で声を弾ませかけ、慌てて言い直した。
「……失礼いたしました。以後、公の場ではしっかり区別いたします」
その様子に、ロゼッタの口元が緩む。
離宮で共に過ごした顔ぶれが、形を変えてここにいる。
ただ離れ離れになるのではなく、それぞれの位置が組み直されて王宮へ移ってきたのだと、そこで初めて実感した。
ロゼッタは扉の外へ意識を向けた。
閉じ切っていない扉の向こう、廊下の角には見慣れた男が立っていた。長身で細身、無駄のない筋肉のついた身体。黒髪と琥珀色の瞳を持つジャミルが、警備の位置についたままこちらへ黙礼する。
以前と同じ寡黙な剣士の顔でありながら、その立ち位置だけが変わっていた。離宮の外周ではなく、今は王宮の内側で、この再編の一角を担っている。
「……みなさん、本当にこちらへ」
「はい」
ステラが答える。
「ロゼッタ様だけを別の場所へ置く方が、筋が通りませんので」
「ニコラス様も同じことを仰っていました」
ステラの若草色の瞳が微かに和らいだ。
「でしょうね」
その一言に、長く一緒にいた者だけがわかる空気が滲む。
マリアは嬉しさを隠しきれない顔のまま、それでも姿勢を正して言った。
「お荷物はもう片づけてあります。お召し替えが必要でしたら、すぐに」
「いえ、このままで大丈夫です」
そう答えながら、ロゼッタは不思議な感覚を覚えていた。
今までなら、自分が取り仕切る側だった。部屋に入れば何が要るかを見て、誰より先に動くのが当たり前だった。
けれど今は、ステラとマリアが迎え、こちらが動く前に支度を済ませている。
侍女だった自分を懐かしむわけではない。
それでも、もうそこへ戻ることはないのだと、ここでもはっきり示されていた。
「少し、時間をいただけますか」
ロゼッタがそう言うと、ステラはすぐに察したように頭を下げた。
「承知いたしました」
「外で控えておりますね」
二人が下がり、扉が静かに閉まる。外ではジャミルの気配が遠すぎず、近すぎず留まっていた。必要以上に寄らず、ただ何も起きないように立つ。その在り方まで、いかにも彼らしかった。
ロゼッタが鏡へ映る自分の髪を見た、そのときだった。
ノックのあと、扉が再び控えめに開く。
「お母様」
そこに立っていたのは、ヴェラだった。
ローズゴールドの髪を乱れなくまとめ、アイスブルーの瞳で娘をまっすぐ見ている。その姿だけで、部屋の空気が改まる。
ロゼッタは思わず息を止めた。




