91 来世へ託された願い
離宮を発つ朝は、よく晴れていた。
窓から差し込む光は明るいのに、ロゼッタの胸には昨夜の名残が残っている。
詩音。
その名は、眠っても消えなかった。
最後になるかもしれない朝の身支度を終え、ロゼッタが一歩下がると、ルチアーノが名を呼んだ。
「ロゼッタ」
振り向けば、海を思わせる青い瞳がまっすぐこちらを見ている。
「お支度は整いました」
「ああ。だが、その前にひとつだけ、あなたと向き合いたいことがある」
ロゼッタは返事を急がず、次を待った。
ルチアーノは束の間考えてから、話を続ける。
「昨夜、あなたは私の腕の中で止まった」
「……はい」
「あの名の先にあるものを、私はまだ受け止めきれていない」
詩音のことだと、すぐにわかった。
「ここを発つ前に、一緒に見届けたい。あなたがよければ」
命令ではなかった。断る余地をきちんと残した言い方だった。
逃げようと思えば、逃げられる。けれど昨夜のまま立ち止まっていたくはない。
「……参ります」
ロゼッタがそう答えると、ルチアーノは頷いた。
◇ ◇ ◇
向かった先は、ソフィアの肖像画が飾られた部屋だった。
前にここで、自分は前世のことを話した。詩音が弟であることも、ここで初めてルチアーノへ打ち明けたのだった。
朝の光が斜めに差し込み、肖像画の中のソフィアを照らしている。卓の上には、革張りの箱が置かれていた。
総プラチナ製アウレア笛。
ロゼッタが箱の前で立ち止まると、ルチアーノが言った。
「先に、あなたへ話しておくことがある」
その声に、ロゼッタは居住まいを正す。
「以前、あなたがこの笛を吹いた夜、私にも説明のつかないものが胸を掠めた」
「説明のつかないもの……?」
ルチアーノは笛の箱に手を伸ばす。
「母上に似た気配と、もうひとつ、知らない影があった。あのときは、私にも何が起きたのかわからなかった」
ロゼッタは目を見開く。
あの夜、ルチアーノは落ち着きを欠いていたように思う。ただ、それに疑問を呈したわけではなかった。
「ニコラスがこの笛を陛下のもとへ運ぶと言ったとき、私もようやく意味に心当たりができた」
「では、あのときニコラス様は……」
「気づいていたのだろう」
ルチアーノは箱へ視線を落としたまま続ける。
「この笛は、母上の祖国に連なる王族かその伴侶へ、ときに過去の断片を見せるものらしい」
「……私は、知りませんでした」
「ああ。だから、今ここで伝えている」
それからルチアーノは、改めてロゼッタを見た。
「昨夜、あなたが止まった理由の先に、これで届くかもしれないと思った。だが、見るかどうかはあなたが決めていい。無理に確かめる必要はない」
ロゼッタは革張りの箱を見つめた。
白金の笛は、蓋の向こうで沈黙している。なのに、その先に自分が触れたくなかったものが待っている気がした。
怖くないわけではない。
それでも、もう背を向けたくはなかった。
「……吹きます」
ルチアーノはそれ以上何も言わなかった。
ロゼッタは箱を開き、総プラチナ製アウレア笛を手に取る。手のひらに沈む重みは、前に吹いたときと変わらない。けれど、今はその先に進む理由があった。
笛を口元へ寄せ、息を入れる。
最初の一音が、朝の空気をまっすぐに貫いた。
銀笛より重く、密度のある響きが部屋を満たす。音が壁へ触れて反響し、肖像画の前で幾重にも重なった。
ルチアーノの守護が応じる気配がした。
次の瞬間、視界が揺れる。
◇ ◇ ◇
白杖の先が床を打つ。
自分より少し低い位置に、黒い髪の少年がいる。その半歩前に立っているのは、黒髪の自分だった。
「詩音、まっすぐに三歩。そこから右に曲がるわ」
聞き覚えのある声が、自分のものだとわかる。
桜井華恋。
ロゼッタの前世の名だった。
景色が切り替わる。
指先が点をなぞる。紙の上に並ぶ膨らみを、隣の少年がゆっくり追っていた。華恋は手を出しすぎず、止まりそうになったときだけ位置を示している。
また変わる。
食卓。皿の位置を口で伝え、手を伸ばす方向を時計にたとえて説明している。向かいの詩音は黙って聞いているが、華恋は匙を取って渡そうとはしない。選ぶのは本人だと知っているからだ。
さらに次の断片。
夕暮れの部屋で、華恋が奏でるフルートの音が響く。
窓辺に座る詩音が、目を閉じて耳を澄ませていた。見えなくても、音があると世界の輪郭が戻る。あの頃の自分は、そう信じていた。
どの断片にも、詩音がいた。
どの断片にも、華恋が半歩前にいた。
次に来た光景だけが鋭かった。
眩しい日差し。急に近づく気配。押しのける腕。離れる身体。強い衝撃。
そこで途切れるのではなく、さらに先へ進む。
暗い部屋だった。
詩音が一人で座っている。白杖を床へ置き、両手を強く握りしめたまま俯いている。
肩が震えていた。
「……ごめん」
掠れた声が落ちる。
「ごめん、華恋姉さん」
詩音は顔を上げないまま、震える息をついた。
「僕のせいで……」
そこで言葉が切れる。
長い間のあと、詩音はもっと小さな声で言った。
「でも」
さらに沈黙が続く。
そして、最後に彼が告げたのは、縛るためではない願いだった。
「華恋姉さんは、来世で必ず幸せになって」
その一言が、華恋だった自分へまっすぐ届いた。
◇ ◇ ◇
笛の音が途切れた。
ロゼッタははっと息を呑む。アウレア笛を落としかけたところを、ルチアーノが支えた。
「ロゼッタ」
呼ばれた名で、ようやく今いる場所へ意識が戻る。
ソフィアの肖像画。朝の光。白金の笛。すべてが同じ部屋にあるのに、自分の呼吸だけが追いついていなかった。
「大丈夫か」
「……大丈夫とは、申し上げられません」
掠れ声で返事をする。
笛を卓へ戻し、両手を重ねた。指先がまだ震えている。
「あの子は……」
そこで一度、声が途切れる。
「詩音は、私を責めていませんでした」
口にした途端、涙が込み上げた。
「置いてこられたのは、あの子の方です。私が庇って死んで、一人残されたのは、あの子なのに」
頬を伝う涙をそのままに、ロゼッタは続ける。
「それでも、あの子は私に、幸せになってほしいと願っていた」
ずっと、自分は詩音を置いて別の人生へ来てしまったのだと思っていた。
この世界でルチアーノを愛し、ロゼッタとして歩くことは、あの子を後ろへ置き去りにすることではないかと、どこかで怯えていた。
けれど、今見たものは違った。
詩音は自分を縛っていなかった。
残された側の痛みを抱えながら、それでも華恋の次の幸せを願っていた。
「私、ずっと……この世界で生きることが、裏切りのように思えておりました」
そう言ったとき、ルチアーノが近づく気配がした。
「あれは、あなたを縛る願いではなかった」
低い声が正面から届く。
ロゼッタは顔を上げた。澄んだ青い瞳は揺らがず、こちらを見ている。
「あなたに次を生きてほしいと願ったのだろう」
「……はい」
「ならば、あなたがロゼッタとしてここにいることは、誰への裏切りでもない」
言い切る響きだった。けれど押しつけではない。見たものを、彼なりに受け止めて差し出してくれているのだとわかる。
ロゼッタの目から止めどなく涙が零れる。
「殿下」
「華恋だったあなたがいたから、今のあなたがいる。華恋だったあなたも、今のあなたも、私は受け容れたい」
ルチアーノは一歩だけ距離を詰める。
「詩音があなたに願ったものを、私は無駄にしたくない」
「……」
「だから、あなたがそれを受け取るなら、私は隣にいる」
過去を押しのけない。
詩音を遠ざけない。
ロゼッタが幸福を拒まなくてよいよう、隣に立つ。
その在り方が、ルチアーノらしかった。
「……ずるいです」
涙を拭いきれないまま、ロゼッタは言った。
ルチアーノの眉がわずかに寄せられる。
「何がだ」
「そんなふうに言われたら、受け取るしかなくなります」
ルチアーノはすぐには答えず、ロゼッタの涙を拭った。
「それなら、ようやく届いたということだろう」
ロゼッタは泣き笑いのような吐息を漏らした。
華恋としての自分を捨てるわけではない。
詩音を忘れるわけでもない。
それでも、ロゼッタとして生きてよい。
ルチアーノを愛してよい。
そのことを、初めて自分に許せる気がした。
ルチアーノが手を差し出す。昨夜と同じ、引かない手だった。
ロゼッタは今度こそ迷わず、その手を取る。
「……殿下」
「何だ」
「私、あの子の願いを受け容れたいです」
口にした瞬間、呼吸が深くなった。
それは大仰な宣言ではない。けれど自分にとっては、確かな一歩だった。
ルチアーノは手を握り返す。
「そうか」
「はい」
「ならば、私はその先も隣で受ける」
ロゼッタは目を伏せた。
だが今度は、逃げるためではない。差し出されたものを、自分の内へ通すためだった。
卓の上の総プラチナ製アウレア笛は、先ほどまでと変わらぬ白い光を返している。肖像画の中のソフィアもまた、変わらずこちらを見下ろしていた。
前にここで、ロゼッタは前世を打ち明けた。
今、その続きを受け取ったのだ。
ロゼッタは笛を箱へ収め、蓋を閉じた。手はもう震えていなかった。
「参りましょう、殿下」
そう告げる声は、ここへ来たときよりも明るかった。
ルチアーノは頷く。
「ああ」
二人は並んで部屋を出る。
過去が消えるわけではない。華恋も、詩音も、自分の中からなくなることはないだろう。
けれど、それを抱えたままでも今を選んでよい。
離宮の廊下へ出たとき、差し込む朝の光は先ほどと同じはずなのに、ロゼッタはもう眩しく感じなかった。
王宮へ戻る道の先に、まだ越えるべきものはいくつもある。立場も、制度も、未来の選択も、この先に待っている。
それでも、もう幸福の前で立ち止まりたくはなかった。
詩音が託した願いを、ようやく自分の手で受け取れたのだから。




