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追放された盲目の第一王子に仕える子爵令嬢ですが、手を引かず一歩先を示していたら、甘く執着されて求婚されました  作者: チャーコ
本編

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90 終わった夜

 正式裁定を終え、そのあとの確認まで済ませて離宮へ戻ったときには、夜もだいぶ更けていた。


 昼に開いていた扉は閉ざされ、廊下を行き交っていた足音ももうない。壁の燭台に残る火が揺れ、長い一日の余韻だけが、まだそこに残っていた。


 ルチアーノの私室の前で、ロゼッタはひとつ息をつく。

 王宮へ戻る朝になれば、この部屋も今までと同じ意味ではなくなる。


 扉を開けると、見慣れた室内がそのまま目に入った。寝台の位置も、窓辺の長椅子も、壁際の書棚も変わらない。何度も出入りした場所なのに、今夜は一つ一つがいつもよりくっきりと見えた。


 ここで毎朝、最初に「おはようございます」と告げた。

 ここで毎晩、最後に「おやすみなさい、殿下」と頭を下げてきた。


 その記憶に引かれるように、いつもの案内が口をついて出そうになる。だが、ロゼッタはそこで飲み込んだ。今はもう、位置を告げる必要はない。


 先に数歩進んだルチアーノが振り返る。


「どうした」

「……いいえ。癖が出そうになっただけです」


 そう答えると、彼は何か察したように目を細めた。


「ここへ入るたび、あなたは位置をひとつずつ教えてくれた」

「殿下は、いつも『把握している』と仰っていました」

「ああ。それでも、毎回きちんと言ってくれた」


 その言葉に、ロゼッタの口元が綻ぶ。


「最初の頃は、今よりもっと細かく申し上げていましたね」

「そうだな」


 ルチアーノはそこで、含みを持たせた。


「張り切りすぎていた日もあった」

「……あれは忘れてくださいませ」

「難しいな。朝食が増えて、練習用の紙まで山になっていた」


 思い出しただけで顔が火照る。専属侍女として完璧でいようと力が入り、あの日は朝から晩まで空回りしていた。


「歩くたびに袖を直されて」

「殿下」

「風呂まで手伝うと言われた日を、そう簡単には忘れられない」


 からかう声音は軽かった。責める気配など欠片もない。

 ロゼッタが彼を見ると、ルチアーノは笑っていた。


「本当に、あの日限りでした」

「承知している」


 笑みはすぐに引き、声も落ち着く。


「普段のあなたは、必要なことだけを告げて、私が自分で選べるようにしてくれた」


 その言葉に、ロゼッタの肩から力が抜ける。あの頃の自分が、きちんと伝わっていたのだとわかったからだ。


 ルチアーノはそこで言い添えた。


「ただ」

「……ただ?」

「距離は近かった」


 ロゼッタは言葉に詰まる。


 触れて読む文字を教えた日のことが脳裏をよぎった。背後から手を包んで筆記具を持たせたことも、息がかかるほど近くで説明していたことも、あの頃の自分はまるで意識していなかった。


「誘導や練習のためです」

「わかっている」


 そう言いながらも、ルチアーノの目にはなお愉しむ色が残っている。


「……殿下はときどき意地悪です」

「今さらか」

「今さらです」


 そんなやり取りさえ、この部屋では自然だった。


 ロゼッタはルチアーノの外套へ手を伸ばし、いつものように留め具を外した。重みのある布を受け取り、皺を整える。何度も繰り返した動作だ。けれど今夜は、それが単なる勤めではなく、この部屋で過ごした時間そのもののように思えた。


 外套を脇へ置いて振り返ると、ルチアーノはまだ室内を見ていた。


「……変わりませんね」

「ああ」

「見えるようになってからご覧になると、印象は違いますか」


 問いかけると、彼は寝台の方へ視線を向け、それから窓辺へ移した。


「思っていたより、広かった」

「殿下は、ほとんどの位置を覚えておいででしたから」

「床の段差までな」


 ロゼッタが微笑むと、ルチアーノも表情を崩した。だが次の瞬間、その目は部屋の奥へ向けられる。


「ここへ来た日、私はこの離宮を追放先だと思っていた」


 ロゼッタの手が止まる。


 あの頃の彼は、視力を奪われ、王宮の中枢から遠ざけられたばかりだった。療養のための離宮だと言われても、その響きが慰めにならないことくらい、当時の自分にもわかっていた。


「療養のためでもあったのだろう。だが、それだけではなかった」


 ルチアーノは視線を戻し、まっすぐロゼッタを見る。


「この離宮で、私はもう一度立ち方を覚えた」

「殿下……」

「見えないままでも、何を選ぶかを決めることを。奪われたあとでも、そのままで終わらないことを」


 大広間で聞いた王太子復位の宣言よりも、その言葉が深く胸へ届いた。

 ルチアーノは、青い瞳でロゼッタを捉えたまま続ける。


「そして、あなたと生き直した」


 ロゼッタは返事ができなかった。

 涙が滲むほどではない。けれど、それがあまりにもまっすぐで、呼吸を立て直す間を置いた。


「……私もです」


 ようやく出た声は小さい。


「最初は、自分の役目を果たすだけのつもりでした。専属侍女としてお傍に仕えて、それで終わるのだと」

「今は違うな」

「はい」


 ロゼッタは頷く。


「この部屋で迎えた朝も夜も、私にとっては、もう仕事だけではございません」


 部屋に満ちていた空気が、そこでひとつ変わる。


 見えなかった彼へ朝を告げ、夜を終える支度を整えた日々。二人の間で積み重なってきたものが、今さら形を持ったようだった。


 ルチアーノが一歩近づく。


「王太子位に戻れたことより、私には別のことの方が大きい」

「別のこと、ですか」

「ああ。祝宴の夜から続いていたものが、今夜で終わる」


 祝宴の夜。

 すべてが狂い始めた夜。そこから続いてきた時間を思えば、その一言で足りた。


「……はい。終わるのですね」

「ああ」


 それだけのやり取りなのに、頭で理解していたことが、遅れて身体へ広がっていくような気がした。


 ルチアーノがそっと手を差し出す。


 促すようでいて、無理に引かない手だった。ロゼッタはその手へ自分の指を重ねる。触れた瞬間、胸を占めていたものに置き場ができたような気がした。


「疲れているだろう」

「……かなりです」

「それでいい。無理をされるより、ずっといい」


 そのまま導かれ、寝台の端へ並んで腰を下ろす。距離は近いが、急かす様子はない。ルチアーノは繋いだ手を離さず、もう片方の手でロゼッタの髪へ触れた。


「今夜は、まだ『おやすみなさい、殿下』を聞きたくない」

「……それは、困ります」


 ロゼッタがそう答えると、ルチアーノの瞳に甘さが宿る。


「なぜだ」

「この部屋では、ずっとそうしてまいりましたから」


 ルチアーノは笑って、視線を落とした。


「だからだろうな。最初の朝も、最後の夜も、同じままではどこか惜しい」


 その響きに、ロゼッタは胸の内を見透かされたような気分になる。ここで交わしてきた「おはよう」と「おやすみ」が、自分にとっても、ただの挨拶ではなかったのだと改めて思い知らされるからだ。


「前にも頼んだが、急がせるつもりはない」


 あの夜に願われたことを、今さら押しつける口調ではなかった。


「ただ、いつかは私の名で呼んでほしいと思っている」

「……覚えております」


 ロゼッタの返事を受けて、ルチアーノは髪を撫でる指を止めずに言う。


「ああ」


 そこでひと呼吸置き、さらに続けた。


「忘れられていなかったのなら、今夜はそれだけでいい」


 ロゼッタは瞳を伏せる。困るのに、嫌ではない。むしろ、そうして待つと言われるたび、逃げ道が甘く塞がっていく気がした。


「私も……忘れていたわけではございません」

「ああ」

「まだ、勇気が要るだけです」


 そこまで聞いて、ルチアーノは静かに言った。


「知っている」


 次の瞬間、額へ柔らかな口づけが落ちる。


 ロゼッタは身を固くしたが、急かされる気配はなかった。髪へ、そして頬へ。熱を煽るためというより、一つずつ確かめるような口づけだった。


「殿下」

「今は、それでいい」


 そう言って、ルチアーノはロゼッタをそっと抱き寄せた。


 強くはない。けれど、こちらが離れようと思わなくなる抱き方だった。彼の温かさが衣越しに伝わり、早くなっていた呼吸が次第に落ち着いていく。ロゼッタは抵抗せず、そのまま肩へ額を預けた。


「殿下のお傍にいると、肩の力が抜けます」


 ルチアーノの手が、背をゆっくりとなぞる。


「それならいい。今夜、あなたがここにいる。それで十分だ」


 長かったのだと思う。祝宴の夜から続いた時間も、この離宮で重ねた日々も。見えない王子と専属侍女として始まった関係が、ようやく別の形へ辿り着いたのだと、頭より先に身体が受け取り始めていた。


 顔を上げると、ルチアーノの目がすぐ近くにある。

 ロゼッタは息を呑み、それから自分からもそっと顔を寄せた。


 触れるだけの口づけだった。

 それでも、十分に甘く、十分に深い。


 離れると、ルチアーノの指がロゼッタの髪をひとすじ梳く。


「ここは、もう追放先でも療養先でもない」

「……ええ」

「私にとっては、そうだ」


 ロゼッタも、小さく答えた。


「私にとっても、そうです」


 おはようから、おやすみまで。


 見えなかった彼に朝の始まりを告げ、夜の終わりを整えてきた。仕えるために立っていたはずの場所で、気づけば自分まで変わっていた。


 この私室は、そのすべてを知っている。

 そう思った瞬間、遠い記憶が差し込んだ。


 別の世界。別の名前。最後まで隣にいたかったのに、それが叶わなかった日。


 詩音。


 その名が、今目の前にある幸福へ薄い影を落とす。


 前世であの子を残して死んだ自分が、こうして別の人生で、誰かの腕の中にいていいのだろうか。名を呼ばれ、口づけを受け容れ、この先の願いまで向けられて。そんな幸福を、自分が受け容れていいのだろうか。


 ロゼッタの指先が、無意識にルチアーノの衣を掴んだ。


「ロゼッタ?」


 その変化を、彼は見逃さない。


「……申し訳ございません」

「謝ることではない」


 ルチアーノは短く応じ、ロゼッタの横顔を見つめた。


「考え事か」

「……はい」

「今、話さなくていい」


 問い詰めない声だった。それが、かえって胸に触れる。

 ルチアーノはそれ以上急がせず、ただ静かに言った。


「私は待てる」


 その一言が、胸の深いところへ落ちた。

 ロゼッタは返事の代わりに、掴んだ衣を離さなかった。


 今夜、この部屋で一区切りつくものは確かにある。祝宴の夜から続いていた長い時間も、追放先だと思っていた離宮の日々も、ここでようやく形を得た。


 けれど、まだ受け容れきれていないものが一つだけ残っている。


 燭台の火が揺れ、見慣れた私室を淡く照らしていた。

 この場所で重ねてきたすべてを抱えたまま、二人は離宮の夜を過ごす。


 その温かさへ身を寄せながら、ロゼッタはまだ口にできない迷いを、心の内へそっと抱えたまま目を閉じた。

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