89 二人で迎える裁定
翌朝、王城の大広間は張りつめた静寂が広がっていた。
高窓から差し込む光は明るいのに、場の温度だけが低い。列席した貴族も廷臣も、誰ひとり無駄な囁きを漏らさなかった。玉座の前には侍従長、法務卿、近衛隊長が並び、その左右を近衛騎士が固めている。
ロゼッタはルチアーノの隣に立っていた。
胸元には皇女位の胸章がある。けれど、この場で彼女を立たせているのは、それだけではないとわかった。下がるよう命じる声はなく、正式裁定に立ち会う場でありながら、彼の隣から外されてもいない。それ自体が、すでに一つの答えだった。
少し離れた場所には、王妃イリナとリカルドがいる。
イリナは二人の女官に支えられていた。焦点の合わない双眸は正面へ向けられているのに、誰を見ているのか判然としない。唇は小さく開いているが、そこから声は出ない。かつて王宮の盤面を動かしていた女は、今や自分の身体ひとつ思うままに運べぬらしかった。
一方のリカルドは、近衛に左右を挟まれてなお、反抗心を隠そうともしない。大広間へ入ったときから、ロゼッタとルチアーノへ向ける目には露骨な敵意が浮かんでいた。
「まだその位置に立つのか」
リカルドの吐き捨てるような声が聞こえた。
「侍女上がりが、ずいぶん偉くなったものだ」
ロゼッタは視線を動かさなかった。
すぐ隣で、ルチアーノの気配が微かに硬くなる。だが彼は何も言わない。ここで反論すれば、相手の土俵へ落ちるだけだと知っているのだ。
やがて、開廷を告げる声が大広間へ響いた。
ヴィットーリオが入ってくると、場の全員が一斉に頭を垂れる。玉座へ至る足取りに迷いはない。ロゼッタはそれを見て、昨日彼が向き合ったものが、今この歩みに表れているのだと感じた。
王が着座し、広間を見渡す。
「本日、王家に対する重大な侵犯について、正式に裁定を下す」
低い声は、隅々までよく届いた。
法務卿が一歩前へ出る。巻紙の封が解かれる乾いた音が、ひどく大きく聞こえた。
「まず、イリナ・ディ・ヴァレンティーノに対する裁定を申し渡します」
広間の空気がさらに研ぎ澄まされる。
「第一。第一王子ルチアーノ・ディ・ヴァレンティーノに対する闇魔法行使の首謀。違法な闇魔法素材の調達。実行術者死亡後の隠蔽への関与」
その一文が読み上げられた瞬間、ロゼッタの心の奥が熱を帯びた。
祝宴の夜。
この一連の事件に繋がる最初の罪が、ついに公の場で名前を与えられた。
法務卿の声は続く。
「第二。闇魔法素材の継続的調達および王宮内への流通」
「第三。ロゼッタ・マリーニに対する継続的な背後調査」
「第四。離宮回廊における闇魔法干渉の行使」
「第五。王妃位および王家権限の私的利用」
どの文言も非情で事務的だった。
だが、非情だからこそ逃げ場がない。
ロゼッタはイリナへ目を向ける。焦点の合わぬ目は虚空を捉えたままだった。何を告げられているか理解はしているのだろう。けれど口は動かず、指先だけが微かに震えている。
法務卿が最後の文面を読み上げる。
「以上により、イリナ・ディ・ヴァレンティーノより王妃位を剥奪する。あわせて王家の政治権限を永久に剥奪し、王国内囚人塔への生涯幽閉を命ずる」
広間に、息の詰まるような沈黙が落ちた。
歓声はない。
ざわめきもない。
制度が、静かに一人の女の生を切り分けていく。
ヴィットーリオはイリナから目を逸らさなかった。
「異議はないか」
イリナの唇が何かを言いたげに震えるが、音は出なかった。
代わりに、焦点の合わぬ目のまま、ほんの少し首が縦へ傾く。
それだけだった。
法務卿は続いて別の巻紙を開く。
「次に、イリナ・ディ・ヴァレンティーノの首謀とは別に、第二王子リカルド・ディ・ヴァレンティーノに対する裁定を申し渡します」
その言葉に、リカルドが鼻で笑った。
「別件? 都合のいい分け方だな」
近衛が一歩詰める。法務卿は読み上げを止めない。
「第一。ロゼッタ・マリーニに対する誘拐および殺害未遂」
「第二。王族専用通路の悪用」
「第三。第一王子ルチアーノ・ディ・ヴァレンティーノに対する抜剣」
「第四。王族の地位を用いた私的暴力と、それによる王家秩序の毀損」
リカルドの顔が引き攣る。
「ふざけるな。あんな女を一人さらった程度で――」
「黙れ」
ヴィットーリオの一喝が広間に響いた。
リカルドは一瞬言葉を失う。だが、それでも噛みつくように顔を上げた。
「何が悪い! あれはただの侍女だった! 兄上だって、見えないまま王太子気取りだっただけだろう! そんなものを片づけて、何が――」
そこで近衛が両腕を強く押さえつける。
それでもリカルドはなお抗おうとした。
「放せ! あんな侍女上がりに胸章を付けたところで何が変わる! 兄上もこいつも、最初から――」
最後まで言い切る前に、膝裏を払われて床へ押しつけられる。広間に残ったのは、王族にあるまじき無様な姿だけだった。
ロゼッタは、そこにイリナとの差を見た。
イリナは最後まで取り乱しはしなかった。リカルドは最後まで、自分が踏みにじった相手を見下すことしかできない。
法務卿の声が、再び広間を貫く。
「以上により、第二王子リカルド・ディ・ヴァレンティーノより王族籍を剥奪する。あわせてヴァレンティア王国より追放する」
そこで、ひと呼吸置く。
「さらに、マリーニ伯爵家令嬢にしてアルシア大帝国皇女ロゼッタ・マリーニに対する誘拐および殺害未遂、ならびに帝国皇女への侵犯の責により、帝国との協議に基づき、その身柄をアルシア大帝国へ引き渡す。以後、監視下の労役に服させる」
広間の空気が明確に変わった。
今度こそリカルドは顔色を失う。
「帝国で労役? ふざけるな、そんなもの王家への侮辱だ! 俺はヴァレンティアの――」
「違う」
ヴィットーリオの声は容赦がなかった。
「お前はすでに、王族ではない」
その一言で、リカルドは絶句した。
もう誰も彼を第二王子として見ていない。
つい先ほどまで与えられていた名が、公の言葉によって剥がれ落ちたのだ。
広間から再び音が消えた。
ロゼッタは王を見つめた。
ここで終わりではないとわかっていた――この裁定が本当に終わるのは、罪を裁くだけでなく、負わせたものへの責もまた、公の場で言葉にされたときだ。
ヴィットーリオが立ち上がった。
その動きだけで、場のすべての視線が集まる。
「第一王子ルチアーノ・ディ・ヴァレンティーノ」
名を呼ばれ、ルチアーノが一歩前へ出ようとする。ロゼッタも反射的に半歩下がりかけた。
「ロゼッタ・マリーニ嬢も、そのままでよい」
王の声が先にそれを制した。
ヴィットーリオの視線はまっすぐこちらへ届いていた。
「その位置で聞きなさい」
それは命令であると同時に、下がらなくてよいという明示でもあった。
ロゼッタは動きを止め、ルチアーノの隣へ立ち直す。
すぐ横で、ルチアーノの呼吸が落ち着いていくのがわかった。
ヴィットーリオは玉座の前へ一歩出る。
「第一王子ルチアーノ・ディ・ヴァレンティーノ。マリーニ伯爵家令嬢にしてアルシア大帝国皇女ロゼッタ・マリーニ」
大広間の全員が、それが裁定の続きではないことを察した。
王自身の言葉だ。
「王である私が、イリナとリカルドを止められず、祝宴の夜の罪を裁かぬまま放置し、二人に本来負わせるべきでない負担をかけてしまった」
広間にいる誰も、身じろぎ一つしない。
「その遅れも、怠慢も、すべて私の責だ」
ヴィットーリオはそこで、はっきりと頭を下げた。
玉座の前で、王が。
広間の誰もが、それがどれほど重いか理解した。
「赦しを請う資格はない。だが、王として公に詫びる。……すまなかった」
ロゼッタは息を呑んだ。
王の謝罪を望んでいなかったわけではない。
だが本当にここまで公の場で、ルチアーノだけでなく自分にも向けて告げられるとは思わなかった。
しばしの沈黙ののち、ルチアーノが深く礼をする。
「お言葉、確かに承りました」
それは赦しではない。
けれど、公の謝罪を受け容れるに足る言葉だった。
ロゼッタも頭を下げる。
「……私も、承りました」
ヴィットーリオはゆっくりと身を起こした。
その顔に、もう逃避の影はない。
「最後に」
その二文字に、広間の空気がもう一段緊張を増す。
「第一王子ルチアーノ・ディ・ヴァレンティーノの王太子位を、ここに復する」
誰も息をしないかのような一瞬があった。
それは祝福より重かった。
あの夜から長く宙吊りにされてきた席へ、ついに公の言葉が戻る。
「なお、祝宴の夜以後、視力の喪失を理由として生じた王太子位の空白と保留は、ここに撤回する」
ロゼッタは目頭が熱くなるのを感じた。
誰かが勝ったからではない。
奪われたものへ、正しい名が返されたからだ。
ルチアーノは玉座へ向かって礼を執る。
「お受けいたします」
短い返答だったが、広間の隅まで声が通った。
その姿から、ロゼッタは目を逸らせなかった。視力を奪われ、遠ざけられ、それでも制度の内側で立ち続けた人が、今ここでその場所を取り戻している。
そして自分は、その瞬間もルチアーノの隣にいた。
ヴィットーリオの視線が、ロゼッタへと移る。
「本日ここに下した裁定は、王家の体面のためではない。遅れて与えられた名を、再び曖昧にせぬためのものだ」
それは広間全体へ向けた言葉であり、過去の自分へ向けた戒めでもあるように聞こえた。
「以上をもって、本件の正式裁定を終える」
閉廷が告げられる。
大広間に、押し殺されていた呼吸が戻った。
それでもロゼッタはすぐには動けなかった。
あの祝宴の夜は、ついに公の場で裁かれた。始まりの罪は名を持ち、制度の言葉として切り分けられ、そしてルチアーノの場所は彼のもとへ戻った。
「ロゼッタ」
すぐ隣で名を呼ばれ、ロゼッタははっとする。
ルチアーノは前を向いたまま、自分に囁きかけた。
「……あなたと迎えられてよかった」
ごく低いその一言に、ロゼッタは胸がいっぱいになった。
「はい」
答えは、それしか出なかった。
闇魔法と、王太子の空席。
あれは終わりのために置かれた盤面ではなかった。取り戻すための盤面だったのだと、ロゼッタはルチアーノの隣で噛みしめた。




