88 王の覚悟
扉が閉まる音が遠ざかると、執務室には朝の淡い光だけが残った。
卓上には、封を解かれていない文書束と、革張りの笛の箱が並んでいる。
ヴィットーリオはすぐには手を伸ばさなかった。
先ほど「あとで確認する」と返したのは、読みたくなかったからではない。ただ、ニコラスのいる前で最初の一行を見たくなかったのだと、今ならわかる。
やがて彼は文書の封へ指をかけた。
最上段に現れた見出しを読んだ瞬間、呼吸が乱れる。
第一王子ルチアーノ・ディ・ヴァレンティーノに対する、祝宴時闇魔法行使について。
その一行が、逃げ場のない事実として目に入った。
祝宴の夜。
息子の視力が奪われ、王太子の席が空いた夜。
あれを長く「最悪の事件」として扱いながら、その先へ踏み込まなかったのは誰だったか。証が足りぬ、術者は死んだ、王宮を揺らせぬ。そう理屈を並べて、肝心の一歩を退いたのは、ほかでもない自分だ。
紙をめくる。
闇魔法素材の流通。
ロゼッタへの背後調査。
離宮回廊での襲撃。
そして別件として添えられた、リカルドによる誘拐事件。
点に見えていたものが、今は線として並んでいた。
命を奪うより先に、その場所へ立てなくする。
祝宴の夜はルチアーノから王太子として立つものを奪い、昨日はロゼッタから、息子の隣に立つための判断を奪おうとした。
そこまで読んだところで、ヴィットーリオの指が止まる。
「……私か」
低く零れた声は、虚しく空気へ溶けた。
イリナの有能さは昔から知っていた。王宮の理に通じ、実務を止めぬ腕がある。だから正妃に据える話が進んでいたことも、不思議ではなかった。
軽んじていたわけではない。むしろ逆だ。国内の均衡、王宮の体裁、貴族の利害。そうしたものを処理する力は十分にあった。
ただ、伴侶として考えたことは一度もなかった。
有能であることと、隣に立つことは同じではない。
イリナとの婚姻を思えば思うほど、そこに見えたのは、隙のない政略だけだった。
そんな折に視察先の小国で、ソフィアに出会った。
国内の反対を押し切ってでも連れ帰りたいと思ったのは、感情だけではない。ソフィアは、王妃として立てるものを最初から持っていた。飾りではなく、王の隣でともに背負える者として。
だから選んだ。
それなのに。
ソフィアを失ったあと、自分は空洞になった。
王であることをやめたつもりはなかった。だが実際には、決めるべきことの多くをイリナへ流し、自分は痛みの陰へ身を隠した。
選ばなかった女へ、伴侶の座を与えず、実務だけを背負わせた。
あの位置へ置いたままにすれば、歪みが深まることくらい、見えていたはずだった。
もちろん、それで彼女の罪が薄れるわけではない。
けれど、その歪みを止める責任まで消えることもなかった。
視線が、箱へ移る。
アウレア笛。
ソフィアの祖国の王族か、その伴侶だけが持つことを許される笛。吹いたとき、ときおり過去の断片を映すもの。
ヴィットーリオは、その性質を知っていた。
ソフィアは折に触れてこの笛を吹いた。言葉では届かぬものを音へ託すように。
彼はゆっくりと留め具を外し、蓋を開ける。
白金の笛は、朝の光の中で静かに冴えていた。全体へ施された繊細な彫刻は見事な細工でありながら、指を置けば滑りにくい。美しさと実用が一つに溶けた造りだった。
ヴィットーリオはそれを持ち上げる。
拒まれない。
その事実に安堵するより先に、胸のどこかが痛んだ。ソフィアの伴侶としても、王としても、この資格はとうに失われたのではないかと、どこかで思っていたからだ。
それでも笛は、反発なく彼の手へ収まっている。
ヴィットーリオは目を閉じ、かつてソフィアに教わった通りに息を通した。楽士として巧みではない。ただ、この笛へどのように呼吸を預ければよいかだけは、身体が覚えていた。
澄んだ白金の音が、執務室を満たしていく。
その瞬間、視界が揺れた。
◇ ◇ ◇
陽射しの柔らかな、小国の庭園だった。
石造りの回廊の先で、在りし日のソフィアが振り向く。華やかさで人目を引く女ではない。だが、そこに立った瞬間、誰かが言葉にするより先に、その場の空気が彼女を王の隣へ置く。
淡い金髪が揺れ、青い瞳がまっすぐこちらを見る。
『ご覧になりますか』
ソフィアは白金の笛をそっと掲げた。
『彫りが深いでしょう。滑らぬように作られているのです。綺麗なだけでは、道具として足りませんから』
若きヴィットーリオは、そこで笑っていた。
『王妃も、そうあるべきだと?』
戯れ半分の問いだったはずだ。だがソフィアは流さず、真摯に返答する。
『王の隣に立つ者が、飾りで済む国ならよいのでしょうけれど』
その言葉に、息を呑んだのを覚えている。
この国はそうではない。
だからこそ、自分は彼女を連れ帰ろうと思ったのだ。
場面が揺らぐ。
今度は、ヴァレンティアへ来る前夜だった。
灯りの少ない客間で、ソフィアが静かに問う。
『どうして、私をお選びになったのですか』
若い日の自分は、少し黙ったあとで答えていた。
『君は、見たくないものを後ろへ回さないからだ』
ソフィアは瞬き、それからほのかに笑った。
『それなら、私があなたを選んだ理由も同じです』
胸が強く鼓動を打つ。
『皆が私へ、この国に何をもたらせるかを訊く中で、あなたは何をともに背負えるかをお尋ねになったでしょう』
その言葉を、ヴィットーリオは今も忘れていなかった。
『道具としてではなく、隣に立つ者として見てくださったから、私はあなたを選びました』
また景色が変わる。
今度は、ルチアーノが生まれたあとの正妃宮だった。
痩せた身体でソフィアは幼い息子を抱いている。顔色は優れない。けれど、青い瞳だけは驚くほど落ち着いていた。
『この子が、自分で決められる子に育ってくれたらと思っています』
あのとき、自分は何と返したのだったか。うまく思い出せない。ただ、ソフィアの続く声だけは鮮やかだった。
『手を貸すことと、奪うことは違います』
彼女は幼いルチアーノの額へ指先を寄せながら言った。
『支えることはできても、選ぶ余地まで取ってはいけません。王である前に、この子がこの子でいられるように』
その言葉が、昨夜の報告と重なった。
ロゼッタは判断を失わなかった。
ルチアーノの守護も、縛るのでなく侵食だけを弾いた。
差し出すことと奪うことは違う。その線を、ソフィアも、そして今の二人も、同じように守っていた。
景色はさらに、別の記憶へ沈む。
ソフィアを失ったあとの執務室だった。
机の上に積まれた書類は減らないのに、身体が動かない。喪の黒が、部屋のどこにも濃く残っている。
そこへイリナが入ってくる。
『評議への根回しは、私がいたします』
淀みない声音と判断。滞らぬ実務。
あのときヴィットーリオは、それを拒まなかった。
いや、拒まなかったのではない。自分から差し出したのだ。ソフィアがいた場所の空白へ、別の何かを流し込ませた。埋まるはずのないものを、便利さで覆った。
伴侶として選ばなかった女へ、王妃の仕事だけを寄せ、最も近いところの実務を担わせた。
それがどれほど歪んだ位置か、見ようともしなかった。
さらに景色が揺れる。
祝宴の夜。
闇色の魔法陣。視力を奪われて膝をつくルチアーノ。駆け寄るニコラス。悲鳴と混乱。
王としてまず命ずべきは、場を封じ、線を追い、首謀を捜査することだった。
だが彼が最初に考えたのは、場をどう収めるかだった。
そしてその後も、術者死亡、証拠不足、王宮安定優先という言葉へ身を隠した。
音が途切れ、視界が執務室へ戻る。
ヴィットーリオは笛を握ったまま、しばらく動けなかった。
愛していた。
それは嘘ではない。
ソフィアを選んだ理由も、ソフィアが自分を選んだ理由も、今はっきり思い出せる。見たくないものを後ろへ回さぬこと。道具ではなく、隣に立つ者として見ること。
それなのに、自分はソフィアの死後、その逆を行った。
喪失で抜け殻になり、王であることを半ば手放した。
実務をイリナへ押しつけ、その有能さへ寄りかかり、彼女の歪みを止める責任を果たさなかった。
祝宴の夜にも証が足りぬと理屈を並べ、そこへ踏み込むことを、ずっと避けてきた。
「……私は」
掠れた声が落ちる。
「ソフィアを愛していた。だが、その愛を言い訳にした」
そこでようやく、思考が定まる。
イリナが歪んだこと。
リカルドが踏み外したこと。
そのどちらも彼らの罪だ。
だが、それを止めるべき王として立たなかったことは、自分の罪だった。
そしてもうひとつ、明確にわかることがある。
ルチアーノがロゼッタを選んだ理由は、自分がソフィアを選んだ理由と、根のところで同じなのだ。
飾りではない。
支配でもない。
隣で、ともに背負える者。
ヴィットーリオは笛を静かに箱へ戻した。
指先はもう震えていない。痛みが消えたわけではない。ただ、その痛みの向こうで何をせねばならぬかが、ようやく定まった。
裁くだけでは終わらせない。自分の責もまた、公の場で明言しなければならない。
卓上の鈴を鳴らす。
ほどなく侍従が入ってきた。
「ニコラスを呼べ。それから侍従長、法務卿、近衛隊長もだ。今すぐに」
「はっ」
扉が閉まり、再び静けさが広がる。
ヴィットーリオは文書束の最上段へ手を置いた。
第一王子への祝宴時闇魔法行使。
その文字は、もはや冷たい告発ではない。自分が見ないふりをしてきた年月そのものだった。
間を置かず、ニコラスが戻ってきた。
「お呼びでしょうか」
「ああ」
ヴィットーリオは背筋を伸ばした。迷うためではない。決めるための姿勢だった。
「王妃の私室、側近、出入り商会、すべて追加で押さえろ。記録の焼却も口封じも許すな。リカルドの件も含め、明日、大広間で正式裁定を行う」
「承知いたしました」
「裁定の第一項目は、祝宴の夜の闇魔法行使と、その隠蔽への関与だ。私の名で出せ」
「かしこまりました」
ニコラスは一礼したが、すぐには顔を上げなかった。
「……陛下」
「何だ」
「本当によろしいのですね」
「よくはない」
ヴィットーリオは即座に答えた。
「遅すぎた。取り返せぬものも多い。だが、だからこそ今度は遅らせない」
ニコラスがゆっくり顔を上げる。
ヴィットーリオは最後にもう一度、文書へ視線を落とした。
「見ないふりは、ここで終わりだ」
窓から差す光は変わらない。
けれどその明るさの下で、ヴィットーリオ・ディ・ヴァレンティーノはようやく王として椅子へ座り直していた。




