後日談2 ジャミルとマリアの婚約発表
婚礼から数日後、王宮はすぐには通常の業務へ戻らなかった。
贈答品の整理、出入りの記録、新しい配置の引き継ぎ。王太子夫妻付きの周辺だけでも、片づけるべきことは山ほどある。マリアは帳面を抱えたまま、控え室と保管庫を何度も往復していた。
その途中で、ひとつだけ数字の合わない記録を見つけた。
帝国から届いた婚礼祝いのうち、調度品一式が西の保管庫へ回されたことになっているのに、受領印がない。記載漏れかもしれない。こういう小さな違和感ほど、あとで面倒になる。
ニコラスへ報告を上げる前に、自分で確認したい。
そう思って帳面を抱え直し、回廊を曲がったところで、低い声が届いた。
「どこへ行く」
マリアは足を止めた。
柱の陰からこちらを見ていたのは、ジャミルだった。
少し長めの黒髪を後ろでひとつに結っている。さらりと流しただけでも様になる髪だが、こうして簡単にまとめていても、端整な顔立ちは少しも損なわれない。異国めいた美貌と琥珀色の鋭い瞳を持つ彼は、そこに立っているだけで異彩を放つ。
見慣れているはずなのに、ときどき不意を打たれてしまう。
今日もまさに、その不意打ちだった。
「ジャミル様」
名を呼ぶと、彼は視線を帳面へ向けた。
「西の保管庫です。受領記録がひとつ合わなくて、先に見ようかと」
「ひとりでか」
「少し確認するだけですから」
答えたものの、自分でも説得力がないと思った。
少しだけ、のつもりで踏み込んで、気づけば奥まで入っていることがある。そのたびに止められてきた。
ジャミルは息をつく。
「行くなら俺も行く」
「……今は正式な護衛任務ではありませんよね」
つい口にすると、彼の目がほんのわずかに細くなった。
「そうだな」
「では、なぜ」
「ひとりで行かせたくないからだ」
あまりにもそのまま言われて、マリアは次の言葉を失った。
前なら、ここで「任務として」と続いたはずだった。
けれど今日は、それがない。
ジャミルはそれ以上説明せず、マリアの外側へ回った。人の流れに対して自然に身を置くその場所は、王都で染め粉を調べに出た日から変わらない。
変わらないのに、今は意味が違って見える。
並んで歩きながら、マリアは帳面の角を指でなぞった。
ジャミルがいないと困る。
ずっとそう思っていたつもりだった。危ないところを止めてくれるから。話が早いから。余計なことを言わないから。
でも、不在だったあのときに感じたものは、もっと単純なのかもしれない。
いないと困る、ではなく。
いないのが嫌だった。
その答えに気づいてしまうと、今さらのように顔が熱くなる。
西の保管庫で確認したところ、件の調度品はすでに別の番号で付け替えられていた。婚礼後の再編で記録の書式が変わり、旧番号がひとつ残っていたらしい。
「やはり記載漏れではありませんでしたね」
「お前はそういうのを拾う」
「拾いたくて拾っているわけではないのですが」
「知っている」
ジャミルは帳面を閉じ、マリアへ返した。
そのまま控え室へ戻るものと思ったのに、彼は足を止めない。人通りの少ない外廊下へ折れ、中庭に面した小さな回廊まで進んで、ようやく立ち止まった。
少し冷たい風が吹き抜け、石床の上を撫でていく。
「ジャミル様?」
呼ぶと、彼は振り返った。
陽の傾いた光が、黒髪の輪郭を淡く縁取る。睫毛の影が頬へ落ち、整いすぎた横顔はいっそう近寄りがたく見えるのに、今はその視線だけがまっすぐ自分へ注がれていた。
「話がある」
声はいつもと変わらない。
それなのに、マリアの鼓動が少し速くなる。
「何でしょうか」
「先に言っておく。お前が受けるなら、すぐ正式な話にできるよう、必要な相手にはもう話を通してある」
「……必要な相手?」
「ニコラス様と、王太子夫妻だ」
言っている意味を、一拍遅れて理解する。
マリアは帳面を抱えたまま、目を見開いた。
「……それって」
「ああ。婚約の話だ」
ジャミルは回りくどくしなかった。
風の音が、妙に遠く聞こえる。
驚くのは自分の方だと思っていたのに、目の前の男の方が、微かに呼吸を乱しているように見えた。
「お前は放っておくと危ないところに手を伸ばす」
「いきなりそこからですか」
「大事なことだ」
真剣な顔で言われると、笑うに笑えない。
「危ない橋も、自分では危ないと思っていない」
「……否定はしません」
「それを止めるのが役目だと思っていた。任務として」
そこで、ジャミルは言葉を切った。
「だが、今は任務だけでは言い切れない」
鋭い琥珀色の瞳が、マリアを射貫く。
「ひとりで行かせたくない。今後もだ」
「ジャミル様」
「離れるつもりもない」
言葉は少ない。
けれど、逃がさない強さがあった。
「マリア」
名を呼ばれ、身体が強張る。
「婚約してくれ」
飾り気のない申し出だった。
甘い言葉を並べる人ではないことは知っている。それでも、迷いがないことは、マリアにもはっきりわかった。
だからこそ、ただ受け取るだけではいたくなかった。
「……それは」
自分の声が揺れたのを感じる。でも、視線は逸らさない。
「見張るためですか」
「違う」
「止めやすくするためではなく?」
「それだけなら言わない」
ジャミルは一歩、近づいた。
「お前がいないのは嫌だ」
今度こそ、何も言えなくなった。
それは剣よりもまっすぐだった。
飾らない人が、飾らないまま渡してくる本音ほど、逃げ場なく心に響くものはない。
マリアは目を伏せ、息を整える。
噂と感情と事実を仕分けるのは、得意な方だと思っていた。人の話の温度を削ぎ、確かな形に直すのも、昔から自然にやってきた。
しかし、自分のことだけは駄目らしい。
ジャミルがいなかった間、落ち着かなかった。
無事だとわかるまで、心のどこかがずっとざわついていた。
戻ったら、真っ先に伝えたいと思った。
あれは不便ではなかった。やはり、嫌だったのだ。
マリアは覚悟を決め、顔を上げた。
「私も」
言いかけて、胸の前で帳面を抱き直す。
「私も、ジャミル様がいないのは嫌でした」
ジャミルの表情は大きく変わらない。
それでも、その沈黙が先ほどとは違うことはわかった。
「守られるから、お受けするのではありません」
「……ああ」
「私がそうしたいから、お受けします」
言い切ったあと、勝手に涙が滲む。
ジャミルは目を閉じるでもなく、ただ一度だけ息をついた。
「そうか」
「はい」
「……よかった」
それだけだった。
けれど、その言葉に混じった安堵は、長い説明よりずっと雄弁だった。
マリアは思わず、涙を浮かべたまま笑ってしまう。
「もっと何か仰るかと思いました」
「得意じゃない」
「存じております」
「なら十分だろう」
「はい。十分です」
掛け合いのように返すと、ジャミルの口元が少しだけ緩んだ。
その変化を目で追った途端、また鼓動が強く打つ。整いすぎた顔は、笑うとむしろ反則ではないかと思うほどの破壊力だった。
「では」
ジャミルが手を伸ばす。指先でマリアの涙を拭い、立ち位置をいつものように外側へ戻した。
「報告に行くぞ」
「もうですか」
「先に通してある。待たせる理由がない」
その言い方があまりに彼らしくて、マリアはまた笑った。
◇ ◇ ◇
小広間には、王太子夫妻と、ニコラス、ステラが先に集まっていた。
婚礼を終えたあとも、顔ぶれが揃うと空気はどこか離宮の頃に戻る。けれど席の位置も、呼ばれる名も、今はもうあの頃のままではない。
ルチアーノの隣にはロゼッタがいて、その並びはすでに自然だった。
ニコラスの近くに立つステラも、前より少しだけ肩の力が抜けて見える。
そこへマリアとジャミルが入ると、ロゼッタがすぐに気づいた。
「マリア?」
「お話があるそうです」
ニコラスは、落ち着いた顔で頷く。あらかじめジャミルが伝えていたのだろう。
ステラは何も言わないまま、マリアを一度見た。その表情だけで、大体のことは察したらしい。
ジャミルが前へ出る。
「ご報告があります」
短い前置きのあと、彼はすぐに本題を述べた。
「マリアと婚約します」
言い切った声はいつも通り低い。
それなのに、小広間の空気は火が灯ったように明るくなった。
最初に口を開いたのはロゼッタだった。
「おめでとうございます」
その心からの祝福は、彼女らしく誠実だった。
だからこそ、マリアはかえって照れてしまう。
「ありがとうございます、ロゼッタさん」
「よかったな」
続いたルチアーノの声も率直だった。
かつて自分は、この人の世界を乱した。
前へ出すぎないようにしてから、少しずつ役目を積み上げてきた。
そのルチアーノに、今まっすぐ祝われたことが、マリアには思いのほか嬉しかった。
ニコラスが淡々と補足する。
「アルベルティ家への正式な打診は本日中に進めます。細部の調整は追って」
「やはりもうそこまで」
「当然です」
マリアが呆れるも、ニコラスはまったく悪びれる様子はなかった。
その横で、ステラがようやく表情を綻ばせる。
「遅いくらいだったわ」
「ステラ嬢」
「事実でしょう」
あっさり返され、ジャミルは黙る。
だが反論しないところを見ると、自覚はあるらしい。
ロゼッタが笑みを浮かべてマリアを見る。
「マリアが受けたのね」
「はい」
その返事をしたとき、自分の声がきちんと弾んでいることに、マリアは少し驚いた。
守られるからではない。
選ばれたからだけでもない。
自分も選んだのだと、言葉にして初めて実感する。
茶が行き渡り、いつものように会話が始まる。
婚礼後の仕事のこと、今後の配置のこと、細かな予定。話している内容は実務に近いのに、空気はどこか柔らかい。
その中で、ジャミルは相変わらず多くを語らない。
けれど彼が今、自分のすぐ隣にいることだけは、誰の目にもはっきりしていた。
マリアはそっと視線を巡らせた。
王太子夫妻がいて、ニコラスとステラがいて、自分の隣にはジャミルがいる。
離宮で始まった日々は、誰か一人のためだけで終わらなかった。
支える側にいた人たちも、それぞれに選び、選ばれ、これから先の場所を自分の手で作っていく。
それが幸せだった。
小広間の窓から入る光は柔らかく、卓上の茶器を穏やかに照らしている。
世界が大きく動くような出来事は、もうここにはない。
それで十分だった。
あの日、見えない王子を囲んでいた時間は、今も形を変えて続いている。
そしてその続きを、今度は自分も隣で歩いていくのだと、マリアは胸の内で確かめたのだった。
離宮組がみんな幸せになったお話で完結です。
ここまでお付き合いいただき、誠にありがとうございました!
自分の誕生日(4月3日)に長編を完結できて、本当に嬉しいです。よかったら、誕生日お祝いに感想や★評価をプレゼントいただけると感無量です(平伏)
また番外や他の作品も執筆しますので、どうぞよろしくお願いいたします!




