表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放された盲目の第一王子に仕える子爵令嬢ですが、手を引かず一歩先を示していたら、甘く執着されて求婚されました  作者: チャーコ
本編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

86/98

86 王妃に返った闇

 離宮付きの医師が去ったあと、応接室には静けさが戻った。


「視力そのものには異常はありません。脈も落ち着いております。ただ、強い干渉を受けたあとの疲弊が残っておりますので、今夜はできるだけ安静に」


 そう言い残して閉まった扉を、ロゼッタはしばらく見つめていた。


 見えている。


 窓辺の薄布も、卓上の茶器も、正面に座るルチアーノの表情も、もうずれてはいない。灯りは灯りの位置にあり、床の継ぎ目は足元までまっすぐ繋がっていた。


 それでも、先ほどの感覚はまだ身体のどこかに残っている。


 ほんの半歩を信じられなくなる恐ろしさ。自分の感覚で立っているはずの世界が、外からねじ曲げられる不快さ。


「ロゼッタさん……申し訳ございません」


 傍らに控えていたマリアが深く頭を下げた。


「あのとき、もっと早く駆け寄っていれば」

「いいえ」


 ロゼッタは首を横に振った。


「来なかったからよかったの」

「ですが……」

「私が止めたでしょう」


 なるべく柔らかく言うつもりだったが、声は思いのほか芯が通っていた。


「私の方へ誰かが飛び込んでいたら、巻き込んでいたかもしれないわ。あなたはきちんと止まって、声で位置を教えてくれたの」

「それは、ロゼッタさんが」

「マリア」


 ロゼッタは口元に笑みを浮かべた。


「ありがとう。助かったわ」


 マリアは水色の瞳を見開き、それからそっと頭を下げた。

 ルチアーノはそのやり取りを黙って見守っていた。何かを堪えるような顔だった。


 やがて、マリアが茶を置き直して一礼する。


「外におります。何かございましたら、すぐに」

「ええ」


 扉が閉まった。

 二人きりになった室内は、先ほどまでより広く感じられた。


 ルチアーノはしばらく口を開かなかった。膝の上へ置かれた片手が、わずかに強く握られている。


「……まだ、ずれて見えるか」


 ようやく出た声は、低く抑えられていた。


「いいえ。もう大丈夫です」

「歩けるか」

「少し休めば」


 そう答えたものの、ルチアーノの表情は緩まなかった。


 ロゼッタは卓上の茶へ指先を伸ばした。白磁の縁に触れ、持ち上げ、口元まで運ぶ。そのひとつひとつを、自分でも確かめるように行った。


 問題なくできる。

 それを見て、ルチアーノはゆっくり息をついた。


「……どんなふうだった」


 ロゼッタは茶器を置いた。

 どこから話せばいいのか、一瞬迷う。


「見えてはいたのです」

「見えていて、歩けなかったのか」

「はい。柱も灯りも、マリアも見えていました。でも、どこにあるのか定まらなくて」


 言葉を選びながら続ける。


「半歩先にあると思ったものが、次の瞬間にはもっと遠くに見えるのです。声も、聞こえるのに位置が噛み合わない。自分の足を、どこへ置けばよいのかわからなくなりました」


 ルチアーノは思いつめたように俯いた。


「……そうか」

「殿下」


 ロゼッタは首を横へ振った。


「あれを、失われた殿下の視界と同じだなどとは申しません」


 そこは違うと思った。

 自分が触れたのは、ほんの短い異常だ。けれどルチアーノは、それを長い間抱えてきた。


「ですが、足元を奪われる恐ろしさには、ほんの少し触れた気がします」


 ロゼッタが口を閉じても、ルチアーノは答えなかった。

 窓の外で、風が枝を揺らす音がした。


「そんな形で知ってほしくなかった」


 やがて零れた言葉は、怒りよりも深い痛みに近かった。


 ロゼッタは目を伏せた。

 自分に向けられた術への恐ろしさより、その言葉の方が胸に残る。


 ルチアーノは顔を上げると、今度は迷いなく言った。


「私を王太子位から遠ざけたのと、同じだ」

「……はい」

「殺すより厄介だ。生かしたまま、立てなくする」


 その声音には、冷えた怒りが滲んでいた。


 ロゼッタは、彼がどこへ感情を向けているのかを理解した。けれど今ここで、それに任せてはならないとも思った。


「殿下」


 呼ぶと、ルチアーノの青い瞳がこちらへ戻った。


「感情だけで動かないでください」

「わかっている」

「いいえ、わかっていても申し上げます」


 自分でも思った以上に強い口調になった。


「これは、怒れば済むことではありません。たとえ誰の仕業か見えていたとしても、証明できなければ、また有耶無耶にされます」


 ルチアーノの表情が変わった。

 怒りを飲み込み、王族としての顔へ戻る、その境目が見えた。


「……そうだな」

「私も覚えているうちに、できるだけ正確に話します。何がどう見えたか、どう聞こえたか、どこで止まれたか。あとで曖昧にされないために」


 言い終えたところで、控えめなノックがした。


「入れ」


 ルチアーノの声に応じて現れたのはニコラスだった。いつも通り冷静な顔をしているが、目つきだけが鋭い。


「ロゼッタ嬢、お加減は」

「落ち着きました」

「よかったです」


 そう言ってから、ニコラスはルチアーノの方へ向き直った。


「王妃私室まわりは押さえました。ジャミルがそのまま流通線を追っています」

「そうか」

「それと、先ほどの件ですが」


 ニコラスは卓の脇へ立ったまま説明する。


「最初に外からの干渉を受け止めたのは、皇女位の胸章です。次に、殿下の守護が深く入り込むのを拒んだ。最後に、虹色魔石が通り道を捉えて押し返しました」

「三つとも揃わなければ、防ぎきれなかったと」

「ええ。ですが、それだけではありません」


 ニコラスはロゼッタへ目を向けた。


「ロゼッタ嬢が動かなかったことも大きい」

「私が?」

「はい。恐慌状態のまま足を出していれば、干渉は身体の動きにまで食い込んでいたでしょう。状況を分析し、声だけで位置を確認し、動かないと決めた。あれが踏みとどまる時間を作りました」


 ロゼッタは微かに目を見開いた。

 自分ではただ、できることをしたつもりだった。


 ニコラスは淡々と続ける。


「ですので、記録に残しましょう。感覚が薄れる前に」

「今、ちょうどその話をしていたところだ」


 ルチアーノが言うと、ニコラスはしっかり頷いた。


「では、私は証言の形式を整えます。細部は、見たまま感じたままをお書きください」

「私が書く」


 ルチアーノが間を置かずに言った。

 一瞬、室内が静まる。


 それは以前なら、自然には出なかった言葉かもしれない。けれど今は違う。自分の目で読み、自分の手で書けるのなら、ルチアーノはもう他人任せにはしない。

 ニコラスはそれを当然のこととして受け容れた。


「承知いたしました。書式のみここに置きます」


 紙と筆を卓へ並べ、ニコラスは必要最低限の形式を説明して退いた。

 再び扉が閉まり、ルチアーノは筆を執った。


「話してくれ」

「はい」


 ロゼッタは背筋を正した。

 たとえ思い出したくなくても、ここで言葉にしなければならない。


「まず、胸章が熱を持ちました。鋭く針を刺すような熱でした」

「……胸章が先だな」


 筆先が紙の上を走る。


「そのあと、床の継ぎ目が遠のきました。見えているのに、どこにあるのか――」

「少し待て」


 ルチアーノは筆を止め、顔を上げた。


「もう一度、ゆっくり」

「はい。目の前のものは見えていました。けれど位置が定まらないのです。半歩先だと思ったものが、次の瞬間にはもっと遠くへ滑るように見えて」

「声は」

「聞こえました。でも、誰がどこにいるかが繋がりませんでした。マリアの口は正面に見えたのに、声は右後ろから聞こえて」


 書き留める手が、ふと止まる。

 ルチアーノの指先に力が入ったのがわかった。


「殿下」

「続けてくれ」

「……はい」


 ロゼッタは思い出しながら話を続けた。


「壁に触れたことで、自分の位置だけは固定できました。それで、動かないと決めました。近づかせないようにしたのは、巻き込みたくなかったからです」

「わかった」


 筆が再び動く。

 ひとつずつ、漠然としていた恐怖が文字へ変わっていく。


 自分のためでもあるのだろうと、ロゼッタは思った。言葉にしてしまえば、ただ訳もなく襲われた恐ろしさでは終わらない。誰かの意思によって何をされたのか、輪郭が残る。


 途中でルチアーノは何度か顔を上げ、そのたびに確認を重ねた。


「光が入ったのはいつだ」

「殿下の守護だとわかったのは、そのあとです」

「足は、最後まで出さなかったか」

「はい」


 最後の問いに答えると、ルチアーノはロゼッタの瞳を見据えた。


「よく止まった」

「止まれたのは、胸章と守護があったからです」

「それでも、あなたが決めた」


 まっすぐに言われ、ロゼッタは返す言葉を失った。


 扉の向こうでは、人の足音が何度か行き過ぎていった。離宮全体がまだ、今日の異変の余波の中にあるのだろう。

 それでも室内には、奇妙な静けさがあった。


 やがて数枚の紙が書き上がった。

 ルチアーノは最後の行へ目を通し、インクが乾くのを待つようにそっと持ち上げた。


「これで第一の証言になる」

「……はい」

「もう、なかったことにはさせない」


 その言葉は、誰かへ向けた宣言のようでもあり、自分自身への誓いのようでもあった。


 窓の外では、陽がゆっくり傾き始めていた。

 まだ、外へ出た者たちは戻っていない。


 けれどロゼッタは、先ほどまで自分の足元を揺らしていた不安が、徐々に別の形へ変わっていくのを感じていた。


 奪われかけたものを、今度はこちらが言葉と記録に変えて返す。

 そのための夜が、これから始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ