86 王妃に返った闇
離宮付きの医師が去ったあと、応接室には静けさが戻った。
「視力そのものには異常はありません。脈も落ち着いております。ただ、強い干渉を受けたあとの疲弊が残っておりますので、今夜はできるだけ安静に」
そう言い残して閉まった扉を、ロゼッタはしばらく見つめていた。
見えている。
窓辺の薄布も、卓上の茶器も、正面に座るルチアーノの表情も、もうずれてはいない。灯りは灯りの位置にあり、床の継ぎ目は足元までまっすぐ繋がっていた。
それでも、先ほどの感覚はまだ身体のどこかに残っている。
ほんの半歩を信じられなくなる恐ろしさ。自分の感覚で立っているはずの世界が、外からねじ曲げられる不快さ。
「ロゼッタさん……申し訳ございません」
傍らに控えていたマリアが深く頭を下げた。
「あのとき、もっと早く駆け寄っていれば」
「いいえ」
ロゼッタは首を横に振った。
「来なかったからよかったの」
「ですが……」
「私が止めたでしょう」
なるべく柔らかく言うつもりだったが、声は思いのほか芯が通っていた。
「私の方へ誰かが飛び込んでいたら、巻き込んでいたかもしれないわ。あなたはきちんと止まって、声で位置を教えてくれたの」
「それは、ロゼッタさんが」
「マリア」
ロゼッタは口元に笑みを浮かべた。
「ありがとう。助かったわ」
マリアは水色の瞳を見開き、それからそっと頭を下げた。
ルチアーノはそのやり取りを黙って見守っていた。何かを堪えるような顔だった。
やがて、マリアが茶を置き直して一礼する。
「外におります。何かございましたら、すぐに」
「ええ」
扉が閉まった。
二人きりになった室内は、先ほどまでより広く感じられた。
ルチアーノはしばらく口を開かなかった。膝の上へ置かれた片手が、わずかに強く握られている。
「……まだ、ずれて見えるか」
ようやく出た声は、低く抑えられていた。
「いいえ。もう大丈夫です」
「歩けるか」
「少し休めば」
そう答えたものの、ルチアーノの表情は緩まなかった。
ロゼッタは卓上の茶へ指先を伸ばした。白磁の縁に触れ、持ち上げ、口元まで運ぶ。そのひとつひとつを、自分でも確かめるように行った。
問題なくできる。
それを見て、ルチアーノはゆっくり息をついた。
「……どんなふうだった」
ロゼッタは茶器を置いた。
どこから話せばいいのか、一瞬迷う。
「見えてはいたのです」
「見えていて、歩けなかったのか」
「はい。柱も灯りも、マリアも見えていました。でも、どこにあるのか定まらなくて」
言葉を選びながら続ける。
「半歩先にあると思ったものが、次の瞬間にはもっと遠くに見えるのです。声も、聞こえるのに位置が噛み合わない。自分の足を、どこへ置けばよいのかわからなくなりました」
ルチアーノは思いつめたように俯いた。
「……そうか」
「殿下」
ロゼッタは首を横へ振った。
「あれを、失われた殿下の視界と同じだなどとは申しません」
そこは違うと思った。
自分が触れたのは、ほんの短い異常だ。けれどルチアーノは、それを長い間抱えてきた。
「ですが、足元を奪われる恐ろしさには、ほんの少し触れた気がします」
ロゼッタが口を閉じても、ルチアーノは答えなかった。
窓の外で、風が枝を揺らす音がした。
「そんな形で知ってほしくなかった」
やがて零れた言葉は、怒りよりも深い痛みに近かった。
ロゼッタは目を伏せた。
自分に向けられた術への恐ろしさより、その言葉の方が胸に残る。
ルチアーノは顔を上げると、今度は迷いなく言った。
「私を王太子位から遠ざけたのと、同じだ」
「……はい」
「殺すより厄介だ。生かしたまま、立てなくする」
その声音には、冷えた怒りが滲んでいた。
ロゼッタは、彼がどこへ感情を向けているのかを理解した。けれど今ここで、それに任せてはならないとも思った。
「殿下」
呼ぶと、ルチアーノの青い瞳がこちらへ戻った。
「感情だけで動かないでください」
「わかっている」
「いいえ、わかっていても申し上げます」
自分でも思った以上に強い口調になった。
「これは、怒れば済むことではありません。たとえ誰の仕業か見えていたとしても、証明できなければ、また有耶無耶にされます」
ルチアーノの表情が変わった。
怒りを飲み込み、王族としての顔へ戻る、その境目が見えた。
「……そうだな」
「私も覚えているうちに、できるだけ正確に話します。何がどう見えたか、どう聞こえたか、どこで止まれたか。あとで曖昧にされないために」
言い終えたところで、控えめなノックがした。
「入れ」
ルチアーノの声に応じて現れたのはニコラスだった。いつも通り冷静な顔をしているが、目つきだけが鋭い。
「ロゼッタ嬢、お加減は」
「落ち着きました」
「よかったです」
そう言ってから、ニコラスはルチアーノの方へ向き直った。
「王妃私室まわりは押さえました。ジャミルがそのまま流通線を追っています」
「そうか」
「それと、先ほどの件ですが」
ニコラスは卓の脇へ立ったまま説明する。
「最初に外からの干渉を受け止めたのは、皇女位の胸章です。次に、殿下の守護が深く入り込むのを拒んだ。最後に、虹色魔石が通り道を捉えて押し返しました」
「三つとも揃わなければ、防ぎきれなかったと」
「ええ。ですが、それだけではありません」
ニコラスはロゼッタへ目を向けた。
「ロゼッタ嬢が動かなかったことも大きい」
「私が?」
「はい。恐慌状態のまま足を出していれば、干渉は身体の動きにまで食い込んでいたでしょう。状況を分析し、声だけで位置を確認し、動かないと決めた。あれが踏みとどまる時間を作りました」
ロゼッタは微かに目を見開いた。
自分ではただ、できることをしたつもりだった。
ニコラスは淡々と続ける。
「ですので、記録に残しましょう。感覚が薄れる前に」
「今、ちょうどその話をしていたところだ」
ルチアーノが言うと、ニコラスはしっかり頷いた。
「では、私は証言の形式を整えます。細部は、見たまま感じたままをお書きください」
「私が書く」
ルチアーノが間を置かずに言った。
一瞬、室内が静まる。
それは以前なら、自然には出なかった言葉かもしれない。けれど今は違う。自分の目で読み、自分の手で書けるのなら、ルチアーノはもう他人任せにはしない。
ニコラスはそれを当然のこととして受け容れた。
「承知いたしました。書式のみここに置きます」
紙と筆を卓へ並べ、ニコラスは必要最低限の形式を説明して退いた。
再び扉が閉まり、ルチアーノは筆を執った。
「話してくれ」
「はい」
ロゼッタは背筋を正した。
たとえ思い出したくなくても、ここで言葉にしなければならない。
「まず、胸章が熱を持ちました。鋭く針を刺すような熱でした」
「……胸章が先だな」
筆先が紙の上を走る。
「そのあと、床の継ぎ目が遠のきました。見えているのに、どこにあるのか――」
「少し待て」
ルチアーノは筆を止め、顔を上げた。
「もう一度、ゆっくり」
「はい。目の前のものは見えていました。けれど位置が定まらないのです。半歩先だと思ったものが、次の瞬間にはもっと遠くへ滑るように見えて」
「声は」
「聞こえました。でも、誰がどこにいるかが繋がりませんでした。マリアの口は正面に見えたのに、声は右後ろから聞こえて」
書き留める手が、ふと止まる。
ルチアーノの指先に力が入ったのがわかった。
「殿下」
「続けてくれ」
「……はい」
ロゼッタは思い出しながら話を続けた。
「壁に触れたことで、自分の位置だけは固定できました。それで、動かないと決めました。近づかせないようにしたのは、巻き込みたくなかったからです」
「わかった」
筆が再び動く。
ひとつずつ、漠然としていた恐怖が文字へ変わっていく。
自分のためでもあるのだろうと、ロゼッタは思った。言葉にしてしまえば、ただ訳もなく襲われた恐ろしさでは終わらない。誰かの意思によって何をされたのか、輪郭が残る。
途中でルチアーノは何度か顔を上げ、そのたびに確認を重ねた。
「光が入ったのはいつだ」
「殿下の守護だとわかったのは、そのあとです」
「足は、最後まで出さなかったか」
「はい」
最後の問いに答えると、ルチアーノはロゼッタの瞳を見据えた。
「よく止まった」
「止まれたのは、胸章と守護があったからです」
「それでも、あなたが決めた」
まっすぐに言われ、ロゼッタは返す言葉を失った。
扉の向こうでは、人の足音が何度か行き過ぎていった。離宮全体がまだ、今日の異変の余波の中にあるのだろう。
それでも室内には、奇妙な静けさがあった。
やがて数枚の紙が書き上がった。
ルチアーノは最後の行へ目を通し、インクが乾くのを待つようにそっと持ち上げた。
「これで第一の証言になる」
「……はい」
「もう、なかったことにはさせない」
その言葉は、誰かへ向けた宣言のようでもあり、自分自身への誓いのようでもあった。
窓の外では、陽がゆっくり傾き始めていた。
まだ、外へ出た者たちは戻っていない。
けれどロゼッタは、先ほどまで自分の足元を揺らしていた不安が、徐々に別の形へ変わっていくのを感じていた。
奪われかけたものを、今度はこちらが言葉と記録に変えて返す。
そのための夜が、これから始まろうとしていた。




