85 王妃最後の一手
午後の光が差し込む離宮の回廊は、妙に静まり返っていた。
確認を終えた書類を手に、ロゼッタはルチアーノの執務室へ向かっていた。後ろにはマリアが控え、曲がり角には近衛が一名立っている。石畳の継ぎ目も、窓からの日差しも、何ひとつ変わらない。見慣れた離宮の午後だった。
「殿下はお部屋でお待ちです」
「ええ。すぐにこれをお渡しするわ」
そう答えた、次の瞬間だった。
胸元に留めた皇女位の胸章が、突如として鋭い熱を帯びた。
「……っ」
ロゼッタは反射的に足を止める。
次の一歩を踏み出しかけた瞬間、床の継ぎ目がわずかに遠のいた。
見えている。
回廊も、窓も、灯りも、マリアの姿も、確かに視界には入っている。
それなのに、位置だけが噛み合わない。
目の前の柱が半歩先にあるように見えたかと思えば、次の瞬間には一歩半先へ滑る。灯りは壁際にあるはずなのに、視界の端で揺れ、どこに固定されているのかわからない。マリアの口が動くのが見えたのに、声は右後ろから聞こえた。
(違う……目が見えないんじゃない)
距離と形と音が、うまく結びつかない。身体の軸が、じわりと横へずらされる。
このまま足を出せば、転ぶ。手を伸ばしても、壁の位置を誤る。
「ロゼッタさん!?」
マリアが駆け寄ろうとする気配がした。
「来ないでください!」
ロゼッタは即座に声を上げた。自分でも驚くほど、声ははっきり出た。
「誰も動かないで。位置だけ、声で知らせてください」
「ですが……!」
「私は壁に触れます。ここから動きません。だから近づかないで」
乱れそうになる呼吸を押さえ込み、ロゼッタは左手をゆっくり横へ伸ばした。指先が、冷たい石壁に触れる。
届いた。
まだ判断は残っている。
「マリア、どこにいますか」
「後ろです。三歩ほど後ろ、右側に」
「近衛は」
「角の向こうです!」
声で位置を定める。
見えているものを頼りにするのではなく、聞こえる情報で世界を組み直す。
胸章の熱はいっそう増した。薄い薔薇金の光が衣越しに滲み、皇帝の後見を宿すその証が、外から入り込もうとした何かを最初のところで食い止める。
(皇女位の証……)
けれど、それだけでは終わらない。
視界の端で、黒い靄のような違和感が揺れた。実体のある闇が見えているわけではない。それでも、世界の噛み合わせをひとつずつ外していくような、嫌な干渉だとわかった。
ロゼッタは唇を噛みしめる。
これは、視力を奪う術ではない。
見えていても、自分の一歩を信じられなくするための術だ。
(……隣に立てなくするつもりね)
そう悟った瞬間、背筋が冷えた。
ただ傷つけるだけなら、もっとわかりやすいやり方がある。けれどこれは違う。生かしたまま、支えられる側へ落とすための術だ。
心の奥が震えそうになる。
それでも、ロゼッタは動かなかった。
「マリア。殿下へ知らせてください」
「はい!」
「いいえ、走らないで。声を大きくして、近くの者へ繋いで」
そう言って、ロゼッタはゆっくり息を吸った。
焦って誰かが飛び込めば、その人まで巻き込むかもしれない。
だから止める。今の自分にできることは、それしかなかった。
その直後、胸の奥底をもうひとつ別の熱が貫いた。
先ほどのような鋭い熱ではない。澄んだ光が細く流れ込み、傾きかけていた身体の芯へ静かに通っていく。
「……殿下」
思わず名が零れた。
覚えのある光属性の気配だった。
外から縛りつける力ではない。姿勢を決めつけるのでも、足を止めるのでもない。ただ、外側から侵食してくるものだけを拒み、ロゼッタ自身の判断が残るように守る力。
ルチアーノの守護だ。
それが胸章の光と重なり、黒い干渉が深く根を張るのを拒んだ。
だが、闇はまだ消えない。定着できないまま、足元をさらうように揺れ続ける。
ロゼッタは壁へ触れたまま、静かに呼吸を数えた。
一つ。二つ。三つ。
――大丈夫。まだ考えられる。まだ、自分で止まると決められる。
◇ ◇ ◇
同じ頃、執務室ではルチアーノが机上の報告書へ目を通していた。
視力を取り戻した今も、長時間の書類仕事にはまだ慣れない。けれど、自分の目で追える文字があることは、何度経験しても夢のようだった。向かいにはニコラスが座り、机の隅には研磨を終えた虹色魔石が置かれている。視力回復後の共鳴の安定を確認するため、しばらく手元に置いていたものだった。
不意に、その石の内部で色が激しく明滅した。
赤でも青でもない、幾層にも重なる光が一度に脈打つ。
同時に、ルチアーノの胸に痛みが走った。
「……っ」
音を立てて椅子から立ち上がる。
ロゼッタへ薄く重ねていた守護が、強く反応したのだとわかった。何かが、彼女へ触れた。
「殿下?」
「ロゼッタだ」
それだけ告げると、ルチアーノはすでに扉へ向かっていた。ニコラスも間髪を容れずに虹色魔石を取り上げる。
「外部干渉です。定着前ですので、まだ返せます」
「ジャミルを呼べ」
「すぐに」
二人は回廊へ飛び出した。
角を折れた先で、ルチアーノは彼女を見つけた。
ロゼッタは壁へ片手をついたまま立っていた。倒れてはいない。だが、視線は正面を向きながらも、焦点がわずかにずれている。目の前の空間に見えない段差でもあるかのように、足を出せずにいた。
「ロゼッタ!」
その声に、彼女の肩が揺れる。
「……はい」
「聞こえるか」
「聞こえます。殿下、近づきすぎないでください。位置だけ、教えてください」
その返答に、ルチアーノは息を呑んだ。
怖いはずだ。立っているだけで難しいはずだ。それでも彼女は、まだ状況を整理し、他人の動きまで制御しようとしている。
「私はあなたの正面、四歩先にいる」
「はい」
「ニコラスは左後方。マリアはそのまま」
「……承知しました」
ロゼッタは目を閉じず、呼吸のみを整えた。
ニコラスが彼女の様子を一瞬で見て取り、低く告げる。
「皇女位の胸章が外からの侵入を受け止めています。殿下の守護も、深く入り込ませていません」
虹色魔石が、彼の手の中で明滅する。ルチアーノの守護と呼応するように、石の内部の色が速く揺れた。
「ですが、術がまだ通り道を残しています。このままでは揺さぶりが続く」
「どうすればいい」
「押し込めなかった干渉が、どこを通って来たかを石に探らせます。その道筋さえ捉えれば、押し返せます」
ルチアーノは頷いた。
「頼む」
「殿下は守護を強めてください。ただし、ロゼッタ嬢の動きを縛ってはいけません。侵食だけを弾く形で」
「わかっている」
ルチアーノは光属性の魔力を立ち上げた。
それは、ただ眩しいだけの光ではない。ロゼッタを囲い込むのでもなく、彼女の周囲へ輪を作り、闇の侵入だけを遮る、薄く静かな光だった。
その光へ、虹色魔石がぴたりと重なる。石の中の色が、一瞬静止した。
次いで、空気が大きく震えた。
ロゼッタの視界の端にまとわりついていた黒い揺らぎが、初めて形を失った。それは霧のように消えたのではない。細い筋へ裂け、胸章と守護に弾かれ、来た道を無理やり押し返されるように後ろへ引かれていく。
黒い筋は一本ではなかった。
幾筋もの細い闇が、ロゼッタを包もうとして定着できず、空中へ引き剥がされる。虹色魔石の光がその流れを捉え、通ってきた経路をそのまま逆へ辿らせた。
押しつけられなかった干渉が、自らの通り道を後ろへ滑っていく。
その瞬間、ロゼッタの耳に届いていた声の位置が、急に元へ戻った。柱は柱の場所へ、灯りは灯りの位置へ収まる。床の継ぎ目も、自分の足元へまっすぐ繋がった。
「……っ」
膝から力が抜けかけたが、ロゼッタは壁へ強く手をついて堪えた。
「ロゼッタ」
「大丈夫です」
反射的に答えてから、自分で首を振る。
「……いいえ、少し待ってください。まだ足を出しません」
「わかった」
ルチアーノはすぐに手を伸ばさず、尋ねた。
「触れてもいいか」
「はい」
許しを得てから、ルチアーノは彼女の肩へ手を添えた。支える力は強いのに、体重を奪うような持ち方ではない。そのことに、ロゼッタは少し息をつく。
ニコラスは虹色魔石を見つめたまま、慎重に言う。
「定着しなかった術が、通ってきた道を逆に返りました」
「……返った?」
「はい。難しく考える必要はありません。他人へ押しつけようとしたものが、そのまま放った側へ戻ったのです」
ルチアーノの目が鋭くなる。
「誰だ」
「現時点ではまだ断定しません。ただ――」
その言葉を遮るように、ジャミルが回廊へ駆け込んできた。表情はいつも以上に硬い。
「王宮から急報です。王妃殿下が私室で突然、立てなくなったと」
「……意識は」
「明瞭です。言葉も出る。だが、足がもつれ、姿勢も保てない。手の震えも強く、魔法の制御が乱れているそうです」
ロゼッタの肩に置かれたルチアーノの手が、微かに強まる。
ニコラスは静かに息をついた。
「間に合いましたね」
「どういう意味だ」
「今起きたのは、ただの反射ではありません」
虹色魔石を布で包みながら、ニコラスははっきりと言った。
「ロゼッタ嬢へ定着できなかった干渉が、通ってきた術式の経路を逆に戻ったのです。術者の間では、こういう返り方を『焼き戻り』と呼びます」
「……焼き戻り」
「要するに、他人へ押しつけようとしたものが、そのまま放った側の動きを焼いたということです」
聞き慣れない言葉だった。だが、意味は十分にわかった。
ロゼッタから「立つための判断」を奪おうとした術が、今度は術者自身の歩みを狂わせたのだ。
ルチアーノはロゼッタを椅子へ座らせるようマリアへ視線で促し、自分はジャミルへ向き直った。
「私室を押さえろ。出入りした者も、物も、全部だ」
「すでに手配済みです。流通経路も洗います」
「ニコラス」
「残滓を読みます。北方から流れ込んでいた闇魔法素材と一致するか、すぐ確認を」
ジャミルとニコラスが同時に動いた。




