84 イリナ・ディ・ヴァレンティーノ――触れられなかった笛
夜会の翌日から、王妃イリナの私室へ上がる報告は、どれも気分の悪いものばかりだった。
第二王子リカルドは近衛の監視下に置かれ、正式な裁定を待っている。
セリーヌもまた、あの場での失態を覆せる見込みを失い、王宮内で彼女を庇う声は日に日に減っていた。
そして何より、マリーニ伯爵令嬢ロゼッタへ向けられる目が変わっていた。
もう、離宮付きの専属侍女ではない。
帝国皇帝の後見と、皇女位を得た娘。軽んじてよい相手ではないという空気が、王宮のあちこちへ広がっている。
机の上へ置かれた報告書を閉じ、イリナはようやく息をついた。
「……以上です」
女官がそう告げて一礼しかけたあと、躊躇うように視線を伏せた。
「まだ何かあるの」
「離宮内の件で、改めて確認の取れた報告がひとつ」
「言ってみて」
女官はほんのわずかに逡巡し、それから口を開いた。
「……前王妃殿下の形見の笛に、マリーニ伯爵令嬢が触れたそうです」
「触れた、とは」
「夜会前後の離宮内報告を洗わせたところ、以前の保管移送の場に立ち会った者の証言が一致いたしました。拒まれず、音も通ったと」
「誰が見たの」
「離宮付きの者のほか、ニコラス様も」
その瞬間、イリナの指先が止まった。
手にしていた茶器の縁へ爪が触れ、微かな音が鳴る。
「……そう」
ただの噂ではない。
見間違いでも、侍女たちの誇張でもない。ニコラスがその場にいたのなら、事実として受け取るしかなかった。
「もういいわ。下がりなさい」
「承知いたしました」
女官が退き、扉が閉まる。
静かになった私室で、イリナはしばらく動かなかった。
ロゼッタが笛に触れた。しかも拒まれなかった。
(なら、答えはひとつね)
ソフィアの祖国の王家の血を引かぬあの娘が、それを許された理由はひとつしかない。
ルチアーノが、あの娘を伴侶として認めているからだ。
古い不快な感触が蘇った。
思い出したい記憶ではない。だが、あの笛のことだけは、何年経っても苦く残り続けていた。
ソフィアの死後、正妃宮の遺品整理が行われた日のことだった。
箱に納められていたのは、総プラチナ製の細い笛だった。
過度な装飾はない。なのに、ただの楽器ではないとひと目でわかる。白く冴えた光が、冷たさより先に由緒を伝えてくる。
「ソフィア様の祖国の品だそうです」
異国由来の品を確認するため呼ばれていた年配の女官が、緊張した面持ちでそう言った。
「王家に伝わる、過去視の笛だとか」
「過去視」
「はい。王族の血を引く方か、その伴侶しか手にできないと聞いております」
その説明を聞いたとき、イリナは内心で冷たく笑った。
(伴侶しか、ね)
王妃は誰か。
王宮の実務を回し、国内貴族との均衡を保ち、王の視線が届ききらないところまで支えてきたのは誰か。伴侶という言葉に何を含めるのかは知らないが、少なくともこの王宮で最もその位置に近いのは自分のはずだった。
「よろしいのですね」
「何が」
「その……お手に取られるのでしたら」
女官は躊躇いがちにそう言った。止めたいのか、あるいは見届けたくないのか、その両方かもしれない。
「問題でも?」
「いえ。ただ、祖国由来の品には、相性のようなものもございますので」
イリナは箱の中の笛を見下ろした。
(そんな曖昧なもので決まるはずがないでしょう)
「持てるかどうか、試せば済む話よ」
そう言って手を伸ばした。
指先が金属へ届くより早く、空気そのものが反発した。
「……っ」
音はなかった。
それでも拒絶は明確で、指先から手首、肘へと痺れが走る。金属に触れた感触は、ついに一度も得られなかった。
「王妃殿下!」
「……騒がないで」
駆け寄ろうとした女官を、イリナは低い声で制した。
室内は凍りついていた。
付き添いの女官も、目録を持つ書記も、誰ひとりとして顔を上げない。
(どういうこと)
この王宮を支えてきた年月でも足りないのか。
国内公爵家の娘としての格も、王に必要とされてきた実務も、何ひとつ通じないのか。
答えは、笛が示していた。
位ではない。功でもない。王宮での働きでもない。
伴侶か、そうでないか。そこにあるのは、その線だけだった。
王妃位を得てもなお、自分はその線の外側にいた。
「……下げなさい」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
そのとき、廊下の向こうで小さな足音がした。
振り向けば、まだ幼いルチアーノが乳母の手を離れ、開いた扉から室内を覗いていた。
淡い金の髪と澄んだ青い目。その顔立ちそのものよりも、迷いなくこちらを見る眼差しが、ひどく目についた。
「殿下、お待ちください」
「……ふえ?」
乳母の制止も聞かず、ルチアーノは箱の方へ歩いてくる。歩幅は幼く不安定なのに、視線だけはまっすぐだった。
「お触れになってはいけません」
「だめ?」
ルチアーノは乳母を見上げる。
「おかあさまの?」
「……そうです」
乳母が遠慮がちに頷いた、その直後だった。
ルチアーノはごく自然に手を伸ばし、総プラチナの笛へ触れた。
今度は何も起こらなかった。
反発も拒絶もなく、笛は小さな手の中へ収まる。室内の空気がひと息に沈み、誰も声を出せなかった。
ルチアーノは不思議そうに笛を見つめ、ただ落としてはならないと知っているように、そっと両手で胸に抱えた。
まるで、誰かの大切なものを一時預かるだけだと理解しているかのような持ち方だった。
「つめたい」
「殿下……」
乳母の声が震える。
ルチアーノは笛を抱えたまま、辺りを見回した。
「おかあさま、これ、すき?」
「ええ……前王妃殿下の、大切なお品です」
その答えを聞くと、ルチアーノは笛へ視線を落とした。
母のものを、自分の権利のように掴まない。
その扱い方そのものが、たまらなくソフィアに似ていた。
(消えていない)
ソフィアは死んだ。
正妃宮から声も足音も消えた。けれど、何も終わってはいなかった。
あの女の在り方は、この子の中へ残っている。
母を失っても、この子は消えない。育てば育つほど、あの女に似たものを周囲へ残していく。
そのときイリナは初めて、死では消えないものがあるのだと知った。
目を開くと、今の私室の燭台は半ばほど燃え尽きていた。
知らぬ間に肘掛けへ力を込めていたらしく、指先に鈍い痛みがある。
今日の報告が示しているのは、あの日の続きだった。
幼いルチアーノは血縁として笛に触れた。
では、ロゼッタは何か。
答えは明白だ。
あの娘は、ルチアーノが伴侶と認めた相手なのだ。
(また、なのね)
帝国の後見でも、皇女位でもない。
もっと手前の、もっと深いところで、すでにそこまで届いている。だから笛は拒まなかった。
前へ出ようとしないくせに、肝心なところで選ばれる。
ソフィアがそうだった。
そして今、ロゼッタもまた同じ場所に立とうとしている。
イリナは立ち上がり、鏡台の奥にある小箱を取り出した。
幾重にも鍵をかけていた箱の中には、古い封書の束と、数日前に別口から加えさせた黒い石がひとつある。
封書は、かつてロゼッタの身辺を探らせた際に集めさせたものだ。
黒い石は、最近になって王都へ細く流れ込んでいた闇魔法素材の末端。表からは消えたはずのものを、なお裏で扱う者たちから押さえさせた小さな媒介だった。
本来なら、王妃が手元に置いてよいものではない。
だが、確認のため。必要に備えるため。そう言い訳して、処分させず手元へ置いていた。
第一王子は、もう見えなくなっただけの子ではない。
王もまた、帝国を敵に回してまであの娘を切ることはできない。
正面からは、もう崩せない。
ならば壊すべきなのは、立場ではない。
あの娘自身の足元だ。
見えていても、距離と形と判断が結ばれなければ、人は自分の一歩を信じられなくなる。
声が聞こえても位置が掴めず、手を伸ばしても届く先を誤る。そうなれば、自分の足で立てなくなる。
殺してはならない。
死は旗印になる。王も帝国も、悲劇には即座に動く。
必要なのは、隣に立てなくすることだけだ。
また同じ敗北を繰り返すくらいなら、その再演自体を断ち切るしかなかった。
生きたまま、判断と歩みを失えばいい。
ルチアーノが守ることはできても、並び立つことはできなくなる。そうなれば、あの子の隣は空く。
イリナは黒い石を手のひらに包み込み、もう片方の手でロゼッタの名が記された封書へ触れた。
冷たさが皮膚へ食い込み、そのまま決意の形になる。
「……お前が、あの子を立たせているのなら」
声は低く、驚くほど静かだった。
「奪うのは命ではないわ。足場だけでいい」
黒い石へ魔力が沈む。
光ではなく、底冷えのする闇だけが、音もなく指の隙間へ満ちていった。
その日、イリナの悪意は怒号も涙も伴わず、冷たい計算の形を取って放たれた。




