83 ソフィア・ディ・ヴァレンティーノ――選ばれた正妃
ソフィアという名を、イリナ・ディ・ヴァレンティーノは長いこと意識の底へ沈めてきた。
その名を辿るたびに、自分が持たなかったものの輪郭まで見えてしまうからだ。今さら認めるつもりはなくとも、見えてしまうものは消せない。ロゼッタの存在が、その古い記憶を容赦なく掘り起こしてくる。
言葉より先に拒まれたあの感覚に引かれるように、イリナの記憶はさらに古い敗北へ沈んでいく。
(似ている)
そう思った瞬間に不快になるあたり、自分でも性質が悪いとイリナは理解していた。けれど、理解したところで苛立ちが消えるわけではない。
◇ ◇ ◇
ソフィアを初めて見たとき、華やかさで人目をさらう女ではないと思った。
広間には王国の有力貴族たちが並び、誰もが値踏みする目を隠していなかった。遠方の小国から来た王女。この国における後ろ盾は薄く、国内の力関係へ食い込めるだけの縁もない。王妃として迎えるには脆いと、この場の多くが判断していることは、イリナにもよくわかった。
「……あれが」
「思ったより地味ですこと」
「国王陛下は、よほどお気に召したのね」
抑えた囁きが、広間のあちらこちらで重なる。
少なくとも、そのときのイリナには的外れには思えなかった。
ヴィットーリオが遠方の小国へ視察に赴いたのは、純粋に政務の一環だった。だが戻ってきたとき、隣にソフィアがいた。当時のイリナには、理屈ではなく、ひと目で選んできたようにしか見えなかった。王がそういうことをする男だと、そのときイリナも初めて知った。
淡い金髪は燭台の光を受けても強く煌めかず、青い瞳も鋭さで相手を射る類いではない。身にまとうものも上等ではあるが、華美ではなかった。
それでも、広間へ入ってきた途端に視線が集まった。
「このたび、ヴァレンティアへ参りましたソフィアと申します。不慣れなことも多いでしょうが、どうぞよろしくお願いいたします」
挨拶も簡素だった。媚びる気配はないのに、固くもない。王妃としての格を、言葉ではなく呼吸で示しているようだった。声を張るでも笑みを振りまくでもなく、誰かを見下ろす気配もないのに、人の目は自然とその姿を追う。国王の隣に立つべき者はこの人なのだと、誰かが言葉にするより前に、その場の空気が先に知ってしまう。
(どうして)
王妃教育なら受けてきた。王宮の均衡、国内貴族の利害、祭礼、贈答、誰をどの位置へ置き、何を見せ、何を伏せるか。そうしたことなら、自分の方がはるかによく知っていた。イリナは幼い頃から正妃になる前提で育てられてきたのだ。王国有数の公爵家の娘として、王宮へ通じる理屈をすべて仕込まれ、そのためだけに成長してきた。
それなのに、ヴィットーリオが選んだのは自分ではなかった。当時のイリナには、それは恋情によるものにしか見えなかった。
後日、側近を通じて伝えられた言葉は冷酷だった。
「イリナ殿には側室として王宮に残っていただく。国内貴族との均衡を考慮した判断である」
正妃ではなく、側室。
公爵家の娘として正妃になることは、疑いようのない既定だった。家が整え、王宮が認め、周囲が当然のこととして受け取っていた。それを、遠方の小国からひと目惚れで連れ帰った女のために横へ退けと言う。
「……承知いたしました」
そう答えながら、イリナの中で何かが完全に冷えた。怒りではない。それ以前の、もっと根本的な場所が凍りついた感覚だった。
恋情だけで片づけてしまうには、ソフィアはあまりにも厄介だった。あの女は好かれたから王妃になったのではなく、王妃として立てるものを持ったうえで選ばれていた。そこを認めることは、敗北を口にするのと変わらなかった。
◇ ◇ ◇
王宮は、外から来た正妃を歓迎しなかった。
衣装の仕立てが遅れる。茶会の時刻が曖昧に伝えられる。作法の訂正が何人もの口から重なり、よりわかりづらくなる。侍女の入れ替えも頻繁で、ようやく慣れた顔ができたと思えばすぐ別の者へ変わる。どれも「行き違い」で済ませられるものばかりだった。
「正妃宮付きの侍女ですが、また一人下げると申しております」
「理由は」
「家の都合と」
報告を聞きながら、イリナは書類から目を上げなかった。
「補充は」
「ございます。ただ、前任より王宮式に慣れていない者になるかと」
「構わないわ。王宮の体裁だけ乱れぬようにしなさい」
止めようと思えば止められた。だが守らなかった。ソフィアのためではなく、王宮の見苦しさを抑えるためだけに動いた。
(手を貸す理由はない)
国内均衡のために側室へ回された。そうまでして迎えられたソフィアが少し息苦しい思いをしたところで、なぜ自分が支えねばならないのか。
それでもソフィアは崩れなかった。
「申し訳ございません。もう一度、手順を教えていただけますか」
「……まだ覚えておいででないの?」
「はい。でしたら今ここで覚えます」
時刻を誤られても責めず、作法の指摘が重なっても顔色を変えない。
(怒ればいいのに)
ある日、正妃宮の回廊で顔を合わせたとき、ソフィアは先に足を止めた。
「侍女のことで、ご心配をおかけしているようですね」
謝罪でも、訴えでもない。ただ事実を卓上へ置くような言い方だった。
「皆さま、この国のやり方を大切になさっているのでしょう。私がその中へ入るのですから、覚えることが多いのは自然です」
「随分と寛容なのですね」
「そうでしょうか」
ソフィアは小さく首を傾げた。
「私が知らないことを知っている方は多いですもの。けれど、それで私が何者かまで決まるわけではありませんから」
その返答に、イリナは言葉を失った。
(責めないのね)
責めれば距離を定義できる。だが責めないまま立たれると、自分の方が狭量に見える。その感覚が、ひどく不快だった。
◇ ◇ ◇
ルチアーノが生まれたあと、ソフィアは目に見えて痩せていった。
「正妃宮の人手が足りません。夜の付き添いも十分とは」
「王宮全体にも余裕はないでしょう」
イリナは淡々と答えた。
「今の人数で回しなさい。表向きに不足が見えぬよう取り繕っておけばいいわ」
知らないはずがない。どこに人手が足りず、どこに余計な手が回っているか、その多くは自分の目と耳の届く範囲にあった。それでも、手を入れなかった。
見舞いの形で正妃宮を訪れたとき、ソフィアは窓辺の寝台で幼いルチアーノを抱いていた。顔色は優れず、疲労も隠せていないのに、笑みには無理がなかった。
「お忙しいところを、ありがとうございます」
「形式ですから」
「それでも、お越しいただけるのはありがたいです」
王子の頬へ指先を添えたまま、ソフィアは言った。
「この子が、自分で決められる子に育ってくれたらと思っています」
「王子として、という意味ですか」
「それもあります。でも、それより前に、この子がこの子のままで」
そこで言葉が途切れ、ソフィアは呼吸を整えた。侍女が薬湯を運んでくる。杯を受け取る手は微かに震えていた。
「選ぶ力まで誰かに取られてしまったら、この子は王子である前に、この子ではなくなってしまいますから」
(王子である前に、人だとでも言うつもりかしら)
その言葉はイリナには理解できなかった。同時に、妙に揺るがないものに聞こえた。
王の守護は、確かにソフィアへ応じていた。ヴィットーリオが傍にいる夜は、彼女の呼吸はいくらか穏やかになり、痛みも薄れているように見えた。
けれど、それは苦しみを和らげ、最期まで意識を濁らせぬための支えにしか見えない。生へ縋りつかせるような強引さはなく、死を受け容れている者を無理に引き戻す気配もなかった。
愛しているくせに救いきれないのか、それともソフィア自身がそれを望まなかったのか――当時のイリナには、そのどちらも同じように癪に障った。
ここで医師を増やせば。人手を戻せば。少しは違ったかもしれない。その程度のことはわかっていた。けれど動かなかった。動いてしまえば、自分の手がこの女を生かす側へ回る。それがどうしても許せなかった。
毒を盛ったわけではない。直接傷つけてもいない。ソフィアを弱らせたのは、産後の消耗と、王宮の中で少しずつ削られていった日々の積み重ねだ。
けれど、必要なときに本気で守らなかったのは自分だった。
それで十分だった。
やがて、ソフィアは衰弱の末に息を引き取った。
「王妃殿下が……」
知らせを受けた侍女の声は最後まで続かなかった。泣く者もいたし、膝をつく者もいた。ヴィットーリオは正妃宮へ籠もり、ニコラスはその前から動かなかった。
イリナは喪の準備と礼式と文書の処理を冷静に進めた。
「祭礼官へ連絡を」
「はい」
「弔問の順を組みなさい。混乱だけは表へ出さないように」
(王宮は回さなければならない)
その理屈に寄りかかっている間だけ、自分のしてきたことを見なくて済んだからだ。
ただ、ソフィアの死で何もかも終わるとは思えなかった。
死ねば消えると思っていたものが、王宮のあちこちにまだ残っている。ヴィットーリオの顔にも、ニコラスの沈黙にも、正妃宮へ仕えていた者たちの目にも、それははっきりと残っていた。
ソフィアは死んだ。
それでも、終わってはいなかった。




